・2・ 迷い猫
2 迷い猫
尚子の部屋のすぐ近くにある小さな部屋で、へたり込むような姿勢のまま尚子は小さく息を吐いた。
(無事でよかった――本当によかった)
命がけで救ってくれた娘は、満身創痍ながら、今は落ち着いているようで、安らかな顔で寝息を立てていた。
その横には、自分をなんとかして連れ帰ってくれた馬番の姿がある。飲まず食わずで約3日吊るされていた彼は、死の淵にいたとしか言いようがない。彼には、本当にすまないことをしたと思っている。
今は、彼も熟睡しているが、目を覚ましたら、尚子に対する苦情を浴びせるに違いない。でも、それでいいと思った。
(生きていてくれさえいれば――)
この気持ちをなんて表現すればいいのか、言葉が見つからない。
彼らが生きていてくれたことが嬉しい?
これ以上、犠牲者の命を背負わなくて済んで、ほっとしてる?
(なんでもいい――いいんだ……)
とにかく、無事でいてくれた。その奇跡に感謝したい。それが素直な気持ちだと、尚子は感じていた。
そして、それは尚子の頬を濡らす理由になりえた。
「姫さま」
涙の止まらない尚子を心配したあやめの存在を背後に感じる。でも、溢れだした感情はなかなか抑えることはできない。歯を食いしばり、嗚咽が漏れそうなのを必死に堪えていたら、肩が小刻みに震えた。
「……」
あやめはそれ以上何も言わなかった。ただ、静かに人払いをし、他の女官と共に部屋を後にした。尚子が存分に泣けるように、気遣ってくれたのだろう。彼女のその優しさが、余計に尚子の涙を煽る。
「うう……」
ぽた、ぽた、と膝に落ちる涙の雫が、尚子の紅色の着物を濡らしていった。
(ありがとう……生きててくれて……)
しばらく、尚子は肩を震わせながら、静かに泣いた……。
ふと、尚子の目の前を、金色に輝くものが、ひらひらと舞うように横切った。
(……蝶?)
黄蝶とはちがう、まるで朝日を浴びたように、きらきらと輝いていたので、一瞬で目を奪われた。不思議なことに、蝶が飛んだ軌跡には、金粉をちりばめたような筋ができる。
蝶はひらひらと、尚子の気を引くように目の前を行ったり来たりしたかと思うと、ふいに向きを変えた。ゆっくりと、部屋の入り口の方へ向かっていく。
――ついてこい。
なぜか、そう言われた気がして、尚子は蝶の後を追おうと立ちあがった。それに気がついたように、蝶は、尚子の目の前で、外へ出いていった――こともあろうに、入口の木戸をそよ風のようにすり抜けて!
尚子の胸が少しざわついた。だから、慌てて部屋の外へと続く木戸を押し開け、蝶の姿を探す。
蝶は直ぐに見つかった。と言うより、待っていたように尚子の目の前を通り過ぎ、そのままさらに、庭の奥へと飛んでいく。尚子は、ただ、それを目で追った。
ふいに、蝶は空中の一点で止まった。まるで、そこには見えない枝でもあるのかと思うほど、ぴたりと空中で止まったのだ。
自然と尚子の眉が寄る。首を傾げつつ、蝶から目を離せないでいると、ついに胸騒ぎの理由がわかった。
蝶のまわりにうっすらと人影が現れ始めたのだ。その人影は、だんだんと色濃くなり、ついには、くっきりとした輪郭をもつ人型になった。
「――!?」
見る見るうちに、尚子の顔はこわばり、目が見開かれていく。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔。
漆黒の絹糸のような艶やかに光る長い髪。
雪綿のように、白い肌。
大きな金色の瞳――……。
「そ、そなたは……」
湧きあがってきた感情は、恐怖ではなく、不思議と驚きだけだった。
前回対面した時とは明らかに何かが違った。その違いはすぐに分かった。―-―-瞳だ。
妖の少女は、秋の晴天のように澄んだ瞳で、まっすぐに尚子を見つめている。その瞳に敵意や殺意が感じられなかったからかもしれない。
むしろ感じるのはこちらを伺うような、困ったような視線。そして――戸惑いながらも救いを求めるような心――ちょうど母親を探す迷子のような……。
「お前なら……」
「え?」
「泡雪が、そう言っていた」
ぽつり、ぽつり、言葉を紡ぎながら、空中を滑るように少女が近付いてくる。歩いているのではない。浮いている。
尚子は何を言われているのか分からなかった。でも、何かを伝えようとしている。
自分に、何か助けを求めている。
そう思えてならなかった。
一度そう思ったら、年端もいかない幼女にしか見えない。
「何か、私に出来ることがあるのか? してほしいことがあるのか?」
少女は、金色の瞳を泳がせる。迷っているのだ。本人が一番、戸惑っているのかもしれない。
(やっぱりヒトの子供にしか見えない)
尚子は、幼い子供にそうするように、優しく笑いかけた。
「言ってみてくれ」
手を伸ばせば届きそうな位置で、静かに少女が尚子を見上げている。
少女が微かに動いたことで日光が反射し、少女の左耳の上部できらりと簪が光った。
そういえば、と思った。先ほど目の前を飛んでいた蝶はというと、あの時は確かに生きて動いていたというのに、今はもう、少女の髪を彩る簪にしか見えない。
「答えを探している」
ぽつりと少女が言った。
「答え?」
「その答えは、お前が持っていると言っていた」
「私が?」
「お前と共に居れば、わかると」
(え?)
「だから……来た」
(それは……つまり……)
尚子は、目をパチクリさせて言った。
「私の側に居たい、そういうことか?」
少女は少し、顔をしかめ、ばつの悪そうな表情を作った。散々、視線を泳がせた挙げ句、うつ向いて、ついに小さく頷いた。
なんだかその様子が、可愛らしくて。まるで、すり寄ってくるくせに、撫ぜると嫌がる、拾いたての子猫のようで。
「ぷっ!」
たまらずに吹き出した。
「何がおかしい」
「ああ、すまない。私はどうやら、拾いものが得意らしい」
眉を寄せたのは、今度は少女の方だった。
「私も、そなたに聞きたいことがあった。だからもう一度会いたいと思っていた」
「聞きたいこと?」
尚子は笑顔で頷いた。
嘘ではない。
幼い火の妖の友人の事も聞いてみたいし、彼女が言っていた“泡雪”のことも聞いてみたい。それに、なぜ自分を殺そうとしたのか。それなのに、なぜ生きているのか。
何より――自分は本当にヒトなのか? あの力はなんだったのか?
これは少し、聞くのが怖い気がした。
「そうだな、とりあえず……」
尚子は、満面の笑みを浮かべ、身を乗り出すようにして、庭にいる少女に手を差し伸べた。
「そなたの名は?」
一瞬、困ったように目を伏せたが、再び尚子を見上げ、しばし間を置くと、小さく、そして、恥ずかしそうに言った。
「――小夜」
こうして、少女の小さな白い手が、尚子の手と重なった。
以後、尚子が命を落とすまでの間、少女とその兄弟たちは尚子のために尽力することになるのである。