・1・ 金色の揚羽(3)
少し間をおいて、じっと尚子を驚いたように見つめていた小次郎が、ふわりと笑った。そして、そのまま、優しい腕に抱きしめられる。
「尚子」
たくましい小次郎の胸の中で、名を呼ばれて、尚子の心臓が大きく脈打ち始める。
「もう待てないぞ。だが、お前が悪い」
まるで、体中の血液が一瞬にして沸騰したように、体が熱を帯びていくようだった。顔が熱い。
(そ、それってつまり――)
否応なしに、自分の体が何かを悟り、身構えているのが分かって、余計に恥ずかしい。
もう、どうしていいか分からず、とにかく小次郎の次の言葉を待った。
「よし、こうしよう。今回のことを許してやるかわりに、俺の頼みを聞いてくれ」
「た、頼み?」
声が上ずった。
絶対、ばれた! と尚子は思った。
明らかに、この状況で、自分が“何か”を意識していることが、今の一瞬で小次郎に伝わったに違いない。そう思うと、尚子はこの場から走って逃げ去りたいほど恥ずかしかった。だが、がっちりと肩に回された小次郎の腕が、それを許さない。
「前に言ったじゃないか。お前にしか出来ないことがあるって、忘れたのか?」
「忘れてなんて――きゃっ!」
最後まで言葉を紡ぐ暇もなく、ごろりと体を右に半回転させた小次郎と一緒に、尚子も体を半回転させられ、あっという間に小 背中に床を感じながら、鼻のくっつきそうな高さから自分の顔を見下ろす小次郎の瞳を直視できなくて、必死に顔を反らした。
「なんで顔を反らす? 俺の頼みは聞いてくれないのか?」
「ち、違う」
(こんな状況で、頼みなんて聞けないっーー!)
「違うなら、俺の目を見てくれ」
(そんな……ずるい……)
そう言われては尚子は恨めしそうな顔で、小次郎を見上げるしかなかった。
「顔が真っ赤だ」
堪え切れなくなったのか小次郎が、くっくっくっ、と笑った。
「う、うるさい!」
「可愛いな」
「黙れ!! それ以上言うな」
「分かった分かった。たっぷりと時はあるから、今は勘弁してやろう」
「た、たっぷりって……」
「今日は、このままずっと一緒だからな」
「っ!?」
「今から、三日間、ずーっとこのお前の部屋で一緒に過ごすぞ。それが俺の頼みだ」
「なっ……んっ!」
何を言ってるんだ、と言おうと思ったが、あっという間に口をふさがれた。
「ちょっ……まっ……」
尚子は何とかして顔を背け、話をしようとするも、すぐ目の前にある美味しそうな尚子の唇を小次郎が逃すわけがない。しかも、上から覆い被さられ、顎を大きな手で固定されては、尚子にできることなど残されていない。
「待たないと、さっき言ったろ?」
ぞくりとするほど、いい声でささやかれ、すぐに、今までのどの口づけとも違う深い深い情熱的な口づけが降ってくる。強引ながらも、できるだけ尚子に体重をかけないように気遣う優しさも伺えた。
だからだろうか、前回同じような状況で、あれほど強かった嫌悪感も恐怖感も不思議と沸いてこない。
むしろ、尚子自身ですら認識のない心のどこかで、小次郎を受け入れていたのかもしれない。
そんな身の入らない抵抗など、小次郎の情熱に油を注ぐ効果しかないというもの。ついに、尚子は呼吸の仕方も分からず、切ない息を漏らしはじめた。
「許してほしいのだろう?」
いかにも嬉しそうな小次郎の声にも、息継ぎだけで精一杯で、返事をする暇がない。少しだけ口を離してそう言ったかと思うと、小次郎は情熱的な口づけを降らし続けた。
尚子は、ただ、ただ、それを受ける。今にも、小次郎の情熱の波にさらわれ、溺れてしまいそうだった。
(小次郎……)
尚子の体から、少しずつ力が抜けていく。
どうしよう。
このまま――――流されていいの?
このまま、この男の妻になったら本当に後戻りはできない。
この男の妻として、この国を一緒に育てて行くことができるのだろうか。祖国を、父や兄弟に刃を向けることになったとしても。
祖国の民の命を、この国のために、ためらわずに奪えるのだろうか。
「尚子……」
切なそうな小次郎の声に、どきりとした。まるで、このまま我がものとしてよいのか、許可を求める声にも聞こえた。
(でも……もう後戻りすることなんて――すでにできないのではないの?)
この男のいない世界で生きていけるだろうか。
(小次郎が私を必要とするかぎり、私は小次郎と共に生きる覚悟をしたのではなかったの?)
今さら躊躇する理由などない気がした。
だって、これから、この男を愛して、国の民を愛して、この国を愛すればいいのではないの?
むしろ、私の存在が、両国の共存への道を開くのではないだろうか?
(そう、例えば――私が産んだ子……)
そこまで考えて、はっとする。
そうか。
そうなんだ。
(頼みって――私にしかできないことって――)
小次郎が望んでいるのも両国の共存なのだ!!
一瞬にして目の前にかかっていた白い靄のようなものが、ぱーっと晴れた気がした、その時だった。不機嫌そうな小次郎の声が降って来たのは。
「おい、何か考えてるな?」
「え?」
「反応が急に悪くなった」
「は、反応って……」
「そうでなければ、俺の口づけが下手くそみたいじゃないか。何か考え込んでいる以外に考えられん。何が心配なんだ、言ってみろ?」
「…………」
「あの娘のことか?」
と、その瞬間。尚子の脳裏に一瞬、傷だらけの娘の姿と、琥珀色の瞳と、ふてぶてしい馬番の顔が、次々に浮かんだ。
(そうだっ!!)
反射的に体を覆っていた男を跳ねのけ、体を起こした。
「あの娘はっ!? 小春丸は!?」
がっしゃーん、と表記するしかない悲惨な音をたてて哀れな小次郎が几帳と一緒に壁に激突するのと、尚子が立ち上がってそう叫ぶのが一緒だった。
「あやめ! あやめっ!! どこだ、あやめっ!! 小春丸を呼んでくれっ!!」
尚子は、何事もなかったかのように、すくりと立ち上がって、部屋の外に大股で歩き出した。
あの後、娘はどうなったのか。そもそも、どうやってここに帰って来たのか。小春丸に聞きたいことはたくさんある。
力いっぱい部屋の戸を押し開け、廊下に出たところで、慌てて駆け寄ってくるあやめの姿を見つけた。
「あやめっ!!」
「姫様、もう起きて大丈夫なのですか?」
「大丈夫だ。それより娘は? 小春丸はどこだ?」
「……と、その前に、殿はどちらに……」
「あ……」
初めて尚子はそこで、小次郎を振り返る。
そこには、ふてくされたように、こちらに背を向けて床に横になりながら、しっし、と追い払うように手を振る男の姿があった。
「小春丸なら納屋にいる。生きていればな」
はっ、となって尚子は顔をこわばらせた。
全てを一瞬にして悟ったのだ。自分が意識不明で帰って来たがために、その罰を受けているのだと。そして、それは刻一刻と小春丸の命を危険にさらすものだということを。
尚子は、勢いよく床を蹴って走り出した。
分かってる、小次郎は悪くない。
国を治める主だからこそ、厳しい決断をしなくてはならない時もある。
(小春丸!! お願い、生きていて――!!)
脱兎のごとく走り出した尚子の背を横目で見ながら、将門は口端を僅かに引き上げた。
「……ふん……運のいいヤツだ」
あと3日、飲まず食わずで納屋に吊るしておいたなら、死んでいただろう。
(最初から、尚子が助けに来ると目論んでおったのだろうがな)
尚子の性格を知っていれば、尚子が自分を見殺しにするはずがない。きっと、あの馬番はそう考えていたに違いない。
(まあ、いい。殺したって死ぬような男ではないだろうよ)
簡単に死ぬような男には興味は無い。
運すら味方につけるような、そんな男だからこそ尚子の側に置いたのだから。
「しかし……尚子のやつ。今夜こそは逃がさんぞ、覚えていろ……」
その後、しばらくの間、地の底から湧いてきたような、どす黒い、不気味な笑い声が尚子の部屋から聞こえていたのだった。