・1・ 金色の揚羽(2)
◇◆
誰かに呼ばれたような気がした。尚子は重たい瞼をなんとか持ち上げる。
ぼやけた視界に、茶色いものが映し出され、それが木製の天井だと認識できる前に、別の物が視界を遮った。誰かの顔だ。誰だろうと、ぼんやり思う。
「姫様。お気付きになられましたか?」
すっきりとした目の美女が、耳に染み込むような声で確認するように言った。
返事をしようとしたが、声がかすれて言葉にならなかった。そんな尚子の声を聞き逃すまいと、少しだけ彼女が顔を近づける。
ふわりと、甘い香りを尚子の嗅覚が捉えた。その瞬間、自分の置かれた状況と目の前にいる女性の名前をいっきに思い出した。
「……あ……やめ?」
「今、薬師をお呼びします」
すぐに、ばたばたと数名が部屋に現れた。
「意識もはっきりされてるようですわ。殿をお呼びして」
数人に診察されている中、誰かにそう伝えているあやめの声が遠くの方から聞こえてきた。
意識がまた遠退いていくのを感じる。
どこも痛くはない。
ただ、ひたすらに眠い。
起きてるのがつらい。
(だめ……寝たら……)
寝ている場合ではない。それはわかっている。
あれからどのくらいの時間がたっているのだろうか。どうやって小次郎の屋敷に戻ってきたのかも、記憶が曖昧だ。だいいち、自分は確か崖から転落したのではなかったか?
体中にひどい倦怠感があるものの、痛みは感じないし、骨折もなさそうだ。
あの犬神を信仰していた村の娘のことも心配だ。
「――……っ」
あやめを呼ぼうとしたが声がでない。が、そこは並みの女官とは違うあやめだ。尚子の表情から何かを察したようで、さっと尚子の傍らに腰をおろした。
「いかがされました?」
「……こ……」
喉がからからに渇いていて、声にならない。重たい腕を持ち上げて、なんとか喉を手で押さえ、喉の渇きを訴える。
あやめは、すぐに理解し、尚子の半身を起こすと水差しを手に取った。
「薬湯です」
あやめがそっと水差しを傾ける。入ってきた液体とともに、口の中に、柔らかな酸味が広がった。
ごくりと喉がなる。少しずつ喉を流れる水が、体の隅々に染み込んでいくのがわかった。
「尚子」
少し上ずっているが、聞きなれた、そして、どこかほっとする声が聞こえてきた。
声の方になんとか首を動かす。
「尚子……」
なんて情けない顔をしているのだろう。そう思った。
「尚子……」
歩み寄ってくる小次郎はどこか危なっかしい気がしたし、尚子しか見えていないようだった。それを目で追いながら、いけない! と尚子は思った。一国の主たるもの、醜態を家臣に晒すわけにはいかない。
あやめもそう思ったのか、目配せをしてきた。だから、小さく頷く。
尚子の意を酌んだあやめが、尚子の部屋に控えていた数人の女官や薬師たちに目配せをして、退出を促す。それを最後まで確認してから、自らもしなやかに出ていった。
「尚子……」
小次郎は、ついに尚子の目の前にたどり着き、膝をついた。
「……痛くはないか?」
小次郎の手が恐る恐る、尚子の頬に伸びてくる。
「大丈夫」
尚子は笑って見せた。
「そうか……」
それだけ言うと小次郎が小さく息を吐いた。心底ほっとしたように、でもそれを隠しながら。
そんな小次郎を見ていたら、不謹慎にも、おかしくて笑いが込み上げてきた。
まるで、見失っていた母をやっと見つけた、迷い子のような顔をしている。
自分よりも見た目も、年も、一回りも大きくて、筋肉隆々の、一人前の武士が、だ。
(そんなことを言ったら、怒るだろうな……)
――大の男に、可愛いだなんて。
勝手に綻ぶ口元を、もう尚子には押さえることは出来なかった。
「小次郎……頼みがある」
「なんだ! 何がほしい! 何でも言え!」
自然に優しい声になって尚子が言うと、小次郎は間を開けずに、身を乗り出すようにして答えたので、ますます尚子は目じりに皺を作って言った。
「抱いて」
「――――」
小次郎は、目を丸くして絶句している。何を言われたのか、わからないとでも言うように、尚子を見つめ返している。それがまた可笑しくて。愛しくて――。
「私が抱きついてもいいのだけど、体に力が入らないんだ」
少しの間を開けて、小次郎が動いた。勢いよく腕を引き寄せられる。
「わっ!」
広い小次郎の胸に、顔を埋めると、尚子の胸がとくんと跳ねた。
「阿呆め、もっと早く言え!」
小次郎の心地よい声がすぐ耳元で聞こえた。藍色の着物からは、少し汗の匂いがした。ひょっとしたら、小次郎はこの部屋まで走ってきたのかもしれない。
心配してくれた。それは、純粋に嬉しかった。
だから、素直に言葉が出た。
「……ごめんなさい」
「……そう思うなら、二度と危険なことはするな」
「わかった。もうしない」
「そうしてくれ。真っ青なお前を、小春丸が連れ帰ってきた時には肝を冷やしたぞ」
「ごめんなさい……」
「許さん」
「……もうしない」
「だめだ、謝ってすむと思うか? お前が目を覚ますまでの2日間、生きた心地がしなかったんだぞ、俺は。それに意識のないお前を看病するのは、これで二度目。もうたくさんだ」
「だって一度目は、小次郎が夜通し馬を走らせて……」
「なんか言ったか?」
「いえ……何も……」
尚子少しだけ首を動かし、上目遣いで小次郎の顔色をうかがった。
すぐさま、切れ長の黒々とした瞳でギロリと睨まれた。
怒っている。
かなり怒っている。
どうしよう。
そう思いながら、思わず視線をそらす。
「あの……どうすれば許してくれる?」
「尚子」
真剣な声だったので、尚子は小次郎の胸から顔を上げ、小次郎をまっすぐ見つめ返した。目が合った時、小次郎がふっと笑った。再び尚子の胸が、どくん、と大きく跳ねる。
なぜが、自分はこの小次郎の笑顔に弱い。
いつも、意地悪げな笑い方しかしないのに、こうして不意に優しく微笑みかけられるとどうしても胸の鼓動が早まってしまう。
こんなに、お互いの息がかかりそうな距離にいると、自分の心臓の音が聞こえてしまいそうで、余計に息がつまりそうなほど胸が高鳴った。
ますます目が合わせられない。恥ずかしさに、また、目が泳いでしまう。
「尚子」
「は、はい」
声が勝手に上ずり、尚子の背筋がぴんと延びた。なんだか、頬が熱いような気もする。
「俺はな、できることならお前を閉じ込めておきたい。屋敷から一歩も出さず、俺のことだけを考えていろ。そう言いたいくらいなんだよ。だけどな、それをしたら、お前を俺の国に連れて来た意味が無くなる。お前が上総の叔父上のところで暮らしていた時と何も変わらない。むしろ、もっと悪い。違うか?」
「――」
「俺がお前をつれて来たのは、お前が自由に生きている姿を側で見ていたかったからだ。自由に空を舞うことのできない籠の鳥が見たいんじゃない」
「うん……」
「お前は、ただその心に従って、大空高く、あちこちを飛び回わればいい――――ただし、必ず俺の所に帰ってこい。それが条件だ」
小次郎の言葉が、尚子の中で静かに響いた。自然と、尚子の視線が小次郎の力強い光を放つ瞳に吸い込まれていく。
――必ず俺の所に帰ってこい。
その言葉は、まるで、鏡のような水面に、たった一滴の雫が起した波紋のように、尚子の心に広がっていくようだった。
静かに見つめ返す尚子に、小次郎がもう一度、念を押すように繰り返す。
「必ず、無事に、帰ってこい。わかったな?」
「わかった。誓う。――でも」
「でも?」
尚子は、返事をする前に、すっと体ごと小次郎に向き直ってから再び口を開いた。
「私も、同じことを小次郎にもいいたい。必ず、無事に帰ってきて」
何が言いたいのだろうと、小次郎の瞳が一瞬揺らぐ。
「小次郎の“心”がどこを彷徨ったとしても、帰ってくるのは私のところだ。帰り道が分からなくなったら、私を探せばいい。ううん、無理やり私が引っ張って帰ってやる」
だから、自信を持て。
恐れずに、己の心が望むままに、国を作って欲しい。
皆が、笑って居られる、己の心のままに生きられる国を。
怖がらないで――
ありったけの心をこめて、尚子はまっすぐに小次郎を見つめた。