・1・ 金色の揚羽
1 金色の揚羽
「なんだと!?」
将門は、思わず腰を浮かせてしまった。
「姫様が、たった今お戻りになられましたが、全身にひどい傷を負われ、意識不明だそうです。先ほど、お部屋に薬師が呼ばれ、診察中とか」
表情を変えずにそう言ったのは、文屋好立である。彼とは対照的に、将門の顔は見る見る青ざめていく。
「なぜ、尚子が意識不明なのだ!」
「存じ上げません」
あまりに好立が涼しい顔で言い放つので、将門の苛立ちは、いっきに頂点に達した。
「ふざけるな、存じ上げませんじゃないだろう!」
言いながら大股で文屋好立に詰め寄り、胸ぐらを掴む。
「姫に関しましては、私の管轄外です」
噛み締めた将門の奥歯が、ぎりりと鳴いた。
好立には罪はない。解かっているが、体が勝手に動いた。
「話にならん!」
好立を突き飛ばし、荒々しく執務室を後にした。
(意識不明とはどういうことだ!)
足をふみならし、尚子の元へ急ぐ。
尚子にと用意した部屋の前にたどり着くと、あわただしく下位の女官たちに指示を出すあやめの姿があった。あやめは、将門に気が付き、恭しく頭を下げた。
「尚子は!? 怪我はひどいのか!?」
「姫様は、今はゆっくりと眠られております」
将門の眉が寄る。
「大怪我を負って意識不明ではないのか?」
「いえ。姫様には、どこもお怪我はございません」
「では、誰が怪我をしたというのだ?」
「それが……」
あやめが言葉を濁らせた時、低いところから声がした。
「殿」
尚子の部屋の前の廊下から見下ろすと、地べたに這いつくばるようにして平伏す男の姿があった。尚子の従者に付けた、馬番の男だ。
「姫さまは、森の中で野犬に遭遇されました」
「何だと?」
「ですが、ちょうど出くわした娘に助けられたのです。姫さまには、怪我はございません。ただ、険しい山道に入られたため、お疲れが激しく、正体を無くされたようで……」
「そうか」
「姫さまの命により、姫さまを助けた娘を一緒にお連れしました」
男の言葉を受けて、あやめが続ける。
「その娘は全身にひどい傷を負っております。先ほど、少しだけお目覚めになられた姫さまが、娘の治療をお命じになられたのです」
「それで薬師を呼んだのか」
「殿にお伺いを立てず、申し訳ございませぬ」
「それほどに、娘は瀕死の状態なのか」
「薬師の話によると、今日明日が山か、と……」
「尚子の命を救ってくれたのだ。手を尽くしてやれ」
「かしこまりました」
そこで、小さく将門は息を吐く。
いつの間にか、あれほどに強張っていた頬の筋肉はゆるみ、肩から力が抜けていた。尚子は疲労で寝ているだけなのだから、もう心配はいらない。そう体が納得したのかもしれない。
「さて、小春丸」
将門は再び、視線を地に下ろし、冷やかに言った。
「覚悟はできておろうな」
聡い男だ。
それを見込んで、尚子に付けた。
今回は無事であったとしても、次回も無傷で帰宅できるとは限らない。
主の危険を回避できてこそ、従者としての価値があるというもの。
(野犬の出るようなところを歩かせたことが失態であったな、小春丸よ)
緊張という名の静寂があたりを包んでいた。
おそらく、小春丸でなければ、体中が恐怖で震えだし、どうにか将門の前から逃げようとしたかもしれない。
しかし、小春丸は落ちついているように見えた。堂々と、しっかりとした声で、告げる。
「姫さまをこのような危険な目にあわせた罪、死をもって償います」
伏せていて、表情こそ確認できないが、『殺せるなら殺してみろ』そんな挑むような声だった。
「――そうか。ならば、ここで、この俺が首をはねてくれる」
小春丸は、ますます自分の額を地面に擦りつけるようにして平伏した。
(ふん。あいかわらず食えない男だ)
将門は、心の中で呟いた。
小春丸は、聡いが信用ならない男だ。だが、解かりやすい男でもある。
自分自身の価値を理解してる。
自分が小春丸を殺すわけがないと、信じて疑っていない。
そして、この手の男が自分を“殿”と呼ぶ理由も心得ている。
この男が自分を見捨てて他国へ行く時は、この将門に価値がなくなったということだ。
(残念なことに、俺はそういう男が嫌いじゃない――――だが、気に食わん!)
将門は、周囲に気づかれないように、一瞬、口端を引き上げた。そして、殊勝な小春丸の姿を、まるで、臭いものでも見るように一瞥してから、背後にいるだろう好立に向けて、振り返らずに、命令を下す。
「この男を納屋につるしておけ」
言い終わる前に、尚子の部屋へと足を踏み入れた。
当然のように、「かしこまりました」という好立の返事が追いかけてきた。
◇◆
将門が姿を現したので、尚子の部屋に居た者がいっせいに作業をやめ、恭しく頭を下げた。
その中の一人の男が、頭を下げたまま、すっと前に進み出る。
「姫様は、深くお眠りになってます」
「大事無いのだな?」
言いながら、将門はひょいと御簾をくぐり、几帳の影に寝かされている尚子の枕もとに歩み寄った。
「はい。じきに、お目覚めになられるかと」
「そうか」
疲労からだろうか、青白く見える尚子の顔を少し眺めたのち、つるりと滑らかな額に手を当てる。
熱はないようだ。周囲に気づかれないように小さく息を吐く。
それから、隣室に目をやった。隣室は、普段から女官の控室として使われる。きっと、その隣室に例の娘が治療をうけているに違いない。
「瀕死だと聞いた。尚子の命の恩人なのだ。救ってやれ」
それだけ言うと、もう一度尚子の顔を眺めやる。
「最善を尽くします」
薬師の声を背中で聞きながら、そっと尚子の頬に触れた。
規則正しい体の揺れが、伝わってくる。
(まったく、無茶をする……じゃじゃ馬め)
思わず、口元が緩んでしまったのを、必死で隠して立ち上がり、尚子の部屋を後にした。
再び廊下に出た時、将門の目の前を、金色に輝く何かが、通り過ぎた。ひらひらと、舞う様は蝶を連想させた。
将門は驚きに足を止めていた。
軌跡を探すように、宙に視線を這わせる。
それらしいものは何も見当たらない。
(なんだ……? 蝶のように見えたが……だが、金色の蝶があるか?)
季節は秋。そもそも、蝶である可能性は低いように思う。
しばらく、視線を彷徨わせたが、虫らしい虫もいない。
落葉だったのだろうか?
そう思って、足元に視線を落として見たが、一枚の葉も見当たらない。
(気のせいか?)
再び、将門は歩き出し、執務室へともどっていった。
だが、将門が見た黄金の蝶は、見間違いではなかった。
蝶は、将門の前を一瞬舞い、すっと姿を消したのだ。
次に蝶が姿を現したのは、尚子の枕もとであった。
蝶は、ひらひらと尚子の頭上を舞い始めた。砂金のように黄金に輝く鱗粉が尚子に降りかかる。わざわざ、蝶が振り掛けているようにも見えた。
数秒の後、蝶は、すうっと空気に溶け込んでしまった。
その直後、尚子の頬に赤みがさしてきて、見る見るうちに顔色が良くなっていった。