・9・ 飛翔(4)
◆◇
「小夜?」
心配そうな兄の声で、小夜は我に返った。
慌てて尚子の額から自分の指を引き離す。すると、小夜の妖術から自由になった尚子が、力なく崩れ落ち、ぐったりと地面に横わった。
尚子は、かろうじて生きている、といったところだろう。尚子を包んでいた泡雪の妖力はとっくに吸いきり、尚子自身の生命力も残り僅かな状態だった。
自分でも気がつかないうちに、小夜はほっとしていた。
「どうしたのだ?」
かすかな異常を感じ取ったのか、兄が小夜をのぞきこんできた。泡雪とのやりとりを、兄に伝える気には、どうしてもなれなかった。
「……何もない」
兄の大きな瞳にちらりと視線を送ってから、その視線から逃げるように大空を仰ぎ見た。
兄の目は、泡雪の目に似ている。
「萌葱」
小夜の声に、どこからともなく、一羽のメジロが小夜の目の前に現れた。
「帰すのか?」
兄の問いには答えず、小夜は、ぱんっ、と両掌を胸で打ち鳴らした。体の妖気を自分の掌に集中させた。合わせた手の内が、しだいに輝き始めるのが、瞼を閉じていても分かる。
程良きところで小夜は、ぱちりと目を大きく開け広げ、合わせた手を丁寧に開きながら、そこに、ふーっ、と息を吹きかけた。
すると、まるで無数の蛍が飛び立つように、光の粒が舞い上がり、メジロに降り注ぐ。見る見るうちにメジロは何倍にも大きくなっていった。
それを見届けると、再び小夜は尚子を見下ろした。
「二度と我らの前に、現れるな。次は殺す」
言いながら、身動き一つしない尚子の体を妖力で空中に持ち上げ、巨大化したメジロの上に乗せてやる。その間も尚子は体中から力が抜けたように、手足がだらりとなって、なすがままに空中を移動した。
気絶しているらしい。それもそうだろう。あれだけ、生命力を吸いとったのだ、並みの人間ならば、しばらくは起き上がれないはずだ。
目が覚めた時には、自分のことなど忘れているだろう。
いつもそうだ。
人間は、自分の理解を超えたことを目の当たりにすると、無かったこととして記憶から消去する。
(それでいい……忘れてしまえばいい)
そう心の中で呟いたら、口の中いっぱいに苦いものが広がった。
すると、その時少しだけ尚子の指が動いた。そればかりか必死に何かを訴えようと、声にならない声が漏れ聞こえる。
「っ……」
小夜は、尚子が気を失っていないことに、まず驚いた。たいした精神力だ。
無言で見下ろしていると、痙攣しながら尚子の人差し指が僅かに持ち上がっていくのに気がついた。尚子が何かを指し示そうとしているのは明らかだった。
小夜はそのまま指の先を目で追う。崖の向こうで、尚子を気遣うような表現を見せつつ、どうしてよいかわからずに棒立ちしている男と視線が交差した。
あの男も一緒に連れ帰れというのだろうか。
(――なんと呆れた娘だ。喰おうとした私に令ずるのか)
その図々しさに小夜は苛立つ気にもならなかった。
それをただ伝えるために、意識を手放さずに耐えているのだろうか。
それに――。
(私が、それに従うと本気で思っているのか?)
小夜はじっと尚子の瞳を見つめた。
眠くて仕方ないのだろう、瞼が半分降りているが、真っ直ぐにこちらを見つめ返している。まるで挑むように。
先に視線を反らしたのは小夜だった。
「…………この娘の意思に沿うてやれ」
小夜はメジロに命じると同時に、尚子に背を向けた。
「行こう」
兄がそう言うと、待ちくたびれたように、先に走り出す。小夜も後に続こうとした。
その瞬間。
「……あり……がとう……」
人間の何千倍もの聴覚を持つ小夜でも、やっと聞こえるほど小さな小さな声だった。
「――――」
小夜の胸が一気にざわめき立つ。
小夜にはそれが、何を意味する言葉か理解できない。それでも、尚子の心が伝わってきた。
沁み込んできて、どんどん溢れて――――飲み込まれそうだった。
だから、小夜は走り出した。
兄弟たちの待つ、自分の居場所に向かって、全速力で走った。
風が巻き起り、木々が葉を擦りあわせて鳴く。
息が上がり、心臓の音が大きくなってきた。
胸のざわめきなど、かき消えればいい。
もう二度と会わないのだ、あの娘の顔など巻きおこる風で記憶から吹き飛んでしまえばいい。
小夜は必死に走った――なのに……。
泡雪の言葉が追いかけてくる。
あの娘の心が飲み込もうとする。
――『ヒトの子として生きるつもりか、妖の子として生きるつもりか?』
おかしい。
足が鉛のように重い。
――『そのお前の胸のざわつきを、本当のお前を、理解できるのは朧たちではないぞ』
どうして、胸が苦しいの?
どうして?
「小夜?」
兄の声にびくりと体が震えた。
いつの間にか、足が止まっていた。
「小夜……」
狼から人型に戻った兄が、心配そうに小夜を覗きこんできた。
「朝霧……私……」
小夜は前方に視線を送り、直ぐに後方へ、そしてまた前方へと戻す。
兄と、このまま一緒に行けば今までと何も変わらず、妖の娘として生きる日々――。
でも、この道を引き返せば――。
「私は――」
小夜は必死に次に続く言葉を探した。
わからない。
何を信じたらいいのか。 どうしたらいいのか。
自分がどうすべきなのか。
自分がどうしたいのか……。
(胸が苦しい……―――)
小夜の頬を一滴の涙が伝った。
◇◆
その頃、崖に残された小春丸は、魂が抜かれたように呆然となっていた。
怪鳥と呼ぶにふさわしい巨大なメジロが、崖の向こうから小春丸の前に降り立つのを、ぽかんと口を開けたまま見守ることしかできない。それが、常人というものだ。
今、目の前で起きていることは現実なのだろうか? すんなり、全て飲みこむことは小春丸にはできなかった。
怪鳥は、そんな小春丸を理解し、そればかりか人の言葉を話はじめるのではないかという気味の悪い雰囲気まで醸し出しながら、じっとこちらを見つめている。薄気味悪さに鳥肌がたってきた。
間もなく怪鳥が動いた。まるで、『背中に乗れ』と言うように身を低くし、その姿勢で待機している。
お陰で怪鳥の背に、尚子が横たわっているのが目に飛び込んできた。
ぎょっとなって小春丸は息を飲む。
「ひ……姫さま?」
死んでるんじゃないかと思った。が、小春丸の声に反応して、尚子の指が微かに動く。自分を呼んでいるように見えた。
(良かった、生きてる……)
そう思ったら、いっきに体中から力が抜け出ていくのを感じた。
(まったく……)
この姫の側にいると、いくつ心臓があっても足りない。
「…………あ……も……」
再び尚子が呻いた。
小春丸は、おっかなびっくり怪鳥に近寄って行き、尚子の口元に耳を近付けた。
「なんスか?」
「……む……め……」
小春丸は、眉をひそめてから、背後を振り返る。確かに、“娘”と尚子は言った。
地面に横たわって動かない村の娘に視線を落としてから、再び尚子に戻した。
「連れて帰るっていうんですか?」
尚子の首が微かに縦に動いたような気がした。
「本気ですか? 本気ですよね?」
瞼を開けているのも辛そうなのに、その奥にある黒々とした尚子の瞳は力強く小春丸を見据えていた。だから、従わざるを得ない、そう思えた。
「はいはい……」
小春丸は、娘の近くで倒れている男が気絶しているのを用心深く確認してから、娘を抱きあげる。思ったよりもずいぶん軽い。
ついでに、もう一人の男を一瞥する。座ったまま気絶しているかのように、ぴくりとも動かない。だから、そのまま、再び怪鳥の元へもどると、尚子の隣に娘を寝かせてやった。
「……俺、高い所苦手なんですけど……やっぱりこれに乗って帰るってことですよね? てか! ちゃんと帰れるんスか!? 屋敷の場所わかるわけ?」
ぼやきながら、小春丸も怪鳥に登り、羽毛にしがみ付いた。
怪鳥は、一度、うっとおしそうに首をぶるぶると振ったが、次に小春丸が瞬きをした時には、大きく翼を広げて、大空高く舞い上がっていた。
さっきまでいた崖が、森が、眼下にある!
飛んでる!!
ありえないっ!!
てか、高い……っ!!
「――――ぃぎゃああああああああっ!!」
小春丸の切羽詰まった叫び声だけが、青空に響いていた。




