・2・真実の王(1)
2 真実の王
それはちょうど十日前。好立は再認識することになった。
「よう、好立。待たせたな」
「ご無事で何よりです。さあ、母上様も首を長くしてお待ちですよ」
誇らしい気持ちすら溢れ、好立はひそかに胸が高鳴っていくのを感じた。ほら無事に主は帰ってきた。
帰ってくると信じていたが、でも不運な事故や災害、疫病は避けられない。人知を超えた出来事に巻き込まれれば、さすがの彼でもどうにもならない。
実際、魑魅魍魎が蔓延る京の都では、呪いだの祟りだのアヤカシだの怨霊だの、とりあえず得体の知れないものが幅をきかせていたから、馬鹿にできない。人は呪いや悪霊の力で簡単に死ぬし、アヤカシに食われれば骨ものこらない。
とは言っても、それらを簡単に凌駕するものこそ人の欲望だと彼は考える。人の最大にして最強の天敵は人だ、と。
だが、彼の王は帰ってきた。確かに無傷で帰ってきたのだ。
やはり、自分の目に狂いはなかった。この男こそ、ただ一人の王だ。
それにしても――。
好立は、眩しそうに目を細めるようにして、馬上の男を見上げた。
何かが変わった。この男の心に、長年覆っていた黒く分厚い雲が吹き飛んだような、そんな印象を受けた。
いったい、何があったのだろう。この僅かな間に。
「好立。報告は後だ。まずは、女官と薬師を呼べ」
主は言った。
なぜ、薬師を? と好立はかすかに眉を動かす。が、すぐさま、その理由を察知した。
彼の主は、自分の懐に巻きつけてある帯をするりとほどくと、背後でぐったりとなっている人物を好立に手渡した。自力で主に捕まる力がなかったので、帯で己の体に縛り付けるようにして、運んできたようだ。
好立は慌てて少女を受け取り、しばし、自分の腕の中にいる少女と、主の顔に交互に視線を送った。初めてみる顔だ。数いる主の恋人の一人かと思ったが、違うらしい。
「この娘は……?」
「嫁だ」
「……はっ!?」
主は飄々としたものだ。さすがの好立も、わが耳を疑った。
嫁?
今、嫁と聞こえたが。
「道中で、熱を出してしまったようだ。急ぎ、薬師を」
腕の中の娘が、熱を出していると言われ好立はぎょっとする。
いったい、どこの娘をかっさらってきたのかは分からない。そもそも、この数日、何をしていたのやら。聞くのが怖い。聞きたくないが、聞いておかねばならない気もする。この男の右腕と自負する者として。
好立は頭を切り替えた。今は、この娘の回復を優先すべきだ。高熱でうなされる娘を、追い返すわけにもいくまい。
「薬師を呼べ。この方を西の部屋にお運びせよ。部屋は温めるのだ。それから冷たい水に、濡れ布巾、着替えも用意せよ」
背後に控えていた者に少女を手渡し、てきぱきと指示を飛ばし始めた。その横を主が、大股ですり抜け、屋敷の中へと歩き出す。
「母上に挨拶に参る。好立、かい摘んで報告せよ」
慌てて主の背中を追いかけながら好立は短く報告をはじめた。
「ひどいものです。残された田畑は使い物にならないような低地ばかり。首謀者は源護と……」
好立が口を濁す。だが、百も承知と言わんばかりに、にやりと主は笑ってみせた。
「伯父上であろう?」
「残念ながら……。常陸の源護殿と、上総の良兼様であると調べがついています」
「そうか」
彼の主、平小次郎将門は短く答えた。その背中からは、どんな感情もうかがい知ることはできなかった。
常陸とは現在の茨城県であり、当時、その土地一帯を治めていたのが桓武平氏の長、平国香であった。その国香の威を借りる狐として大きな顔をしているのが、源護一族だ。
この源護の娘が、長男の国香と国香の息子、さらには国香のすぐ下の弟、二男の良兼に嫁いでいる。つまり、国香や良兼の義父こそが、源護である。
この下総の国を治めていた桓武平氏の三男である良将と二男の良兼の不仲は衆知のこと。そんな中、良将の訃報は嵐のごとく関東を駆け巡った。
――――死んだ。
あの、目障りな良将が死んだ――――
すぐさま動いたのが次男良兼と、人の良い長男国香を裏であやつる源護であった。
二人は、下総の土地をあっという間に奪い取った。残されたのは、少しの雨で氾濫する川に挟まれた、使い物にならない低地。そして、未開拓の地だ。さらに、働き手である奴隷や農民も多く奪われた。
悲鳴を上げたのは、良将の妻。まだ幼い子供を抱え、夫がこの世から去った悲しみに浸る間もなく、自国が崩落していく様を目の当たりにすることとなった。
このままでは、愛する夫が愛した国が、滅んでしまう。夫が大好きだった川も、山も、大切に育てた馬たちが走り回る牧も、皆、義兄の手に渡ってしまう。それだけはさせまい。夫の愛したこの国を、奪われてたまるか。
彼女はすぐさま、京都にいた嫡男の将門を自国へ呼び戻すために文を書いた。
その時、文室好立も将門と共に、京都にいた。京都で出世の道を開くべく、奔走すること早十二年。飛び込んできた将門の父の訃報に、好立も動揺が隠せなかった。
好立は、良将が好きだった。あれほど豪侠、豪胆という言葉が当てはまる男を、好立は知らない。彼の主、将門も確かに父の血を継いでいるのは誰の目にも明らかであったが、それに無謀と傲慢が少々加わっている。危なっかしくて見ていられない。
だが、親子に共通するのは、強さだ。肉体もだが、腕も立つ。さすが、北方の最強豪傑民族、蝦夷の残党を押さえ込んできた鎮守府将軍とその息子だけある、といつも好立を唸らせた。
蝦夷とは一人で常人百人分の戦力に匹敵するとするほど、戦うために生まれた戦闘民族である。女子供も例外なく帯剣し、馬を自分の体の一部のように乗りこなす。
彼らと戦ううちに、良将の剣さばきも、馬術も洗練されていったと考えられる。その父の技術を、小さな頃から肌で感じ、見事に全てを吸収してきた将門は、いつしか父を抜いていた。好立の知る限り、将門の右に出る豪傑はいない。
そんな良将の死は、それだけで頭を鈍器で強打するような衝撃だったが、同時にもたらされた知らせは、将門と好立を奈落の底へと突き落とすものだった。
将門の敬愛する伯父たちが下総の国の土地を次々に占拠している。このままでは、下総が立ち行かなくなる。一刻も早く戻ってきて、父の跡目を継いでくれ。将門の母の切実な訴えだというのに、二人はそれをすぐ信じることができなかった。
特に、将門の記憶にのこる良兼は、そのようなことをする人物ではなかったようで、最後の最後まで信じようとはしなかった。幼き頃に、まるで自分の息子のように目をかけてくれたあの良兼伯父上が、自分とその国を追い込むようなことをするとは考えられない。そんな将門の心は、好立にも痛いほど伝わってきた。
信じたくない、だが、母の虚偽とは思えないし、その理由も考えられない。
一晩将門は、一言もしゃべらずに部屋に引きこもってしまう。しかし翌朝になると、一転して将門は京都を後にすることを好立に告げた。
このまま京都にいても、出世は見込めそうに無い。中央にいてもうだつが上がらないのなら、自国に帰って己の思うような国を作る。それも、一つの道だ。何しろ京都が嫌いだ。思っていることを半分も口にしないような、そんな腹の探り合いなど、性に合わない。そんなようなことを、一気にまくしたてると好立に出立の準備を急ぐようにと命を出した。どうやら、彼の性格上、一度、京都を出ると決意した瞬間に、全てがばかばかしくなってきたようである。将門はその日のうちに、上司から世話になった関係者、気まぐれな恋を楽しむための恋人にいたるまで、さっさと挨拶を済ませ、後腐れなく自国へ出立する準備にかかった。
もちろん好立も同行する意を伝えた。好立は、京都もわりと嫌いではなかったが、将門のいない京都は好きになれそうに無い。京都でなくても同じだ。将門に残れと命じられても、ついていくつもりであった。将門の居ない生活など、隠居か出家と同じだ。
こうして、二人は小船に乗り込み、いったん上総に上陸し、そこからは陸路で下総へと向かうこととなった。が、上総についたとたん、将門は一人ひらりと馬にまたがり、先に行けと抜かしたのだ。
「お前は先に行け。俺が帰ってくるまでに、ざっと掃除しておけ」
それだけ言い残すと、将門は颯爽と走り去ってしまった。呆然としながらも、好立は彼の背中を目で追う。
“俺が帰ってくるまでに、ざっと掃除しておけ”。つまり、それは自国の情報を集め、主たる将門を迎える準備をしておけという意味だ。
それは分かるが。これから国の長となろう人が、単身で他国を走り回るという無謀な行為にいたるというのはどうなのだろうか。しかも、自国を侵略しようとしている疑惑のある国で。
たしかに、あの猛獣を捕らえられる者はそうそういないだろう。だが、多勢に無勢ではさすがの猛獣だとて、降伏せざるを得ないのではないか。
好立に迷いが生じる。
後を追うべきか。否か。
数秒の後、好立は心を決める。否だ。自分が後を追ったところで、戦力になるばかりか、足手まといになる。なぜなら、自分は戦闘においてはからっきし役に立たない。あるのはこの知力。
将門は、将門でやるべきことがあるのだろう。ならば、それを成し遂げた主が帰る国を、維持することこそ自分の使命。王が帰った時、国が滅んでいては意味がない。
こうして、好立は彼が認めるただ一人の王の生還を下総で迎えた。全てが予定通りに始まった。全てはこれからなのだ。
彼の王が、すばらしい国を作る。その傍らにいるのは自分。良将が作った豊かな国を越える、さらに至福の国を主が築く。それを補佐するために自分は生まれてきたのだから。
だが、将門は一人ではなかった。傍らに、奇怪なものをつれて帰ってきたのである。
高熱にうなされるこの少女が、いったい何者なのか。それを知るのが怖い。
恵みの女神かそれとも──。
好立は将門の背中を追いかけながら、先ほどの少女の顔を思い浮かべた。
不安ばかりが募る。
全ては杞憂であってほしい。
◆◇
「失礼しますよ、母上」
将門は御簾を押し上げ、部屋の中央へと進んだ。
「まぁっ!! 小次郎っ!」
扇で顔を覆いながらも、母は全身で喜びを表現した。無理もない。十五で故郷を離れた我が子との十二年ぶりの再会である。
将門としても、胸の中がぐっと暖かくなるのを認めざるを得ない。母の笑顔に出迎えられ、やっと故郷に帰ってきた実感がわいてくるようだった。
だが、同時に切なくもある。こんなに母は小柄であったろうか。肩も腕も細く、自分が乱暴に掴んだだけで粉々に骨が砕けてしまうのではないかと思うほど頼りない。記憶の中の母よりも、何倍も儚げに見えた。
「たった今、帰りました」
形式通り、母に頭を下げ挨拶をしようとしたところで、将門は母に手を取られた。ゴトリと音を立てて、母の持っていた大きな扇子が床に落ちる。
「もぉー小次郎ったら、遅いわっ! 待ちくたびれてしまったじゃない。よく顔を見せて」
両頬を母の手のひらに挟まれながら、将門は内心、あれ? と思った。なんだ、意外と飄々としてるじゃないか。最愛の夫を亡くし、さぞ意気消沈して、泣き腫らした目をしていることだろうと思っていたのだが。
いささか拍子抜けしながら、将門は少しだけ老いた母を見つめた。すると母はニッコリと花のように微笑みかけてきた。
変わらない。十二年たっても、この人は少女のように、笑うのだ。
しかし、若いのは笑顔だけではない。
「うん、ずいぶんと凛々しい顔になったわね。いい男。惜しいわっ! 私がもう少し若かったら……」
しれっと、そんなことをぬかす母に将門の首ががくっと項垂れた。
「……母上……私はあなたの息子です」
「まあ、そうだったわね。残念だわっ! こんなにいい男が目の前にいるのに!!」
(……相変わらずすぎる……)
どうも母を目の前にすると調子が狂う。終始、母の、ゆっくり、まったり伸び伸びしたペースで事が進むのだ。その母の話し方に敗因がある気がする。
彼女が性格的におっとりしているからだろうか。彼女のまわりだけ、何故か一面の野花が咲き乱れ、蝶々がひらひらと舞う光景が見える時がある。もちろん錯覚なのだが。こちらまで気が抜けてくるから困り者だ。
だが、それでいて中々の策士なので侮れない。何しろ、あの父、良将の妻を長年勤めあげ、また父も母には頭が上がらなかったというまぎれもない事実がある。
実際、他国の激しい謀略にあいながら何とか国を存続させてこられたのも母の力が大きいだろう。母がいなければ、今頃、将門が帰る国はどこにもなかったはずだ。
将門は自分の頬に添えられた母の手を、優しく取ると、きりっと顔を引き締める。
「今までよくぞ頑張られましたな、母上」
女の細腕で、飢えた猛獣どもから必死にこの国を守っていたのだ。どれほど不安であったろう。
次々に土地や人手を奪われ、いつ攻めこまれるかと、震えていたに違いないのだ。
「だって、良将様の子同然ですもの、この国は。自分の子供を守るのは親のつとめです」
母は将門の両手を自分のそれで優しく包み込む。揺れた母の袖からふわりと懐かしい香りがした。
「でも今日から、この国はあなたの子となるのです」
不思議だった。
母の手のひらから、自分の手に何か温かいものが流れ込んでくる。
それは母の祈りに近い想いであり、その母が亡き父から託された熱い想いであったが、今の将門にはその正体がわからなかった。ただ、ただ、胸が温かくなっていくのを静かに感じていた。
「良い子に育てるのですよ」
将門はその母の笑顔を見て、まるで太陽のようだと思った。闇に覆われたこの国を、必死に照らし続けた暖かな恵みの光。
ふと、そんな笑顔をつい最近別の場所で見たのを思い出す。あの太陽も、野心と血にまみれた闇夜を照らす希望の光。
(似ても似つかないというのになぁ、性格も顔も)
将門はクスリと笑う。
だが自分にとってはどちらも失うことができない光だ。
「ところで小次郎」
「はい?」
母の表情は変わらず笑顔だったが、嫌な予感がした。満面が笑みすぎて怖い。
「嫁を連れてきたというのは本当なの?」
「……」
将門は絶句した。情報が早い。
(おのれ、好立! わざとだなっ!!)
普段なら、この手の浮いた話はあっという間に好立の手腕により、箝口令が引かれる。噂話を糧としている女官たちも、どういう訳か好立にかかると貝のように口硬くなった。
おかげで、京都では多くの女性を渡り歩いてきた将門も、男女仲の煩わしさから無縁に生きてこられた。
それが、今回はどうだ。
将門が自分の屋敷に女を連れ込んだことはこれまで一度もない。そんな大事件を好立が口止めしなかったなど、故意としか考えられないではないか。
ぎろりと御簾の向こうを睨む。そんなことをしたところで、好立はしれっと涼しい顔をしているに違いないが、やらずにはいられない。
「早く紹介してね」
目を輝かせてそう言った母は、完全に先ほどまでとは別人。まるで新しい玩具をねだる少女のように、身を乗り出している。
「どこの子なの? 美人なの? 歳はいくつなの? いつから恋仲なの? 文はいくつやり取りしたの? 貝合わせはお好きかしら? 紅の着物とか好き? まぁまぁどうしましょうっ! ほら私には息子売るほどいるけど娘は一人もいないでしょう!? もー早く会いたいわ」
将門は開いた口が塞がらない。よくまぁ次から次へと……。
「今から行こうかしらっ! ああ、もうっ! 小次郎ってば、一緒に連れてきてくれればよかったのに」
将門はぐったりとなった。会わせたくない。非常に会わせたくない。きっとこの人は、自分の幼少期のあることないことを尚子に吹き込みたいだけなのだから。
「折を見て連れてきますよ……それより……」
「折っていつですの! 明日かしら、明後日かしらっ」
「……いやそんなに早くは無理……」
「嫌だわ何を着て会えばいいのかしらっ!」
「て、聞いてねーな……」
ふう、とため息をつく。そして大きく息を吸ってすくっと立ち上がった。
「母上」
「はい」
「今日より私がこの屋敷の主です」
「ええ、そうよ」
「私の命に従って頂きます」
「ええ、もちろんよ」
何を今更、という顔で母は息子を見上げる。
「以後、私を幼名で呼ぶのはお止めください。私は平将門です。では御免」
きっぱりと言い切り、将門は母に背を向け、部屋を後にした。その後ろを好立が追ってくる気配がしたと思ったその時。
「ぷぷーーーーっ!!」
母が盛大に吹き出す音が聞こえた。
「……」
将門は悔しそうに舌打ちする。そしてばつの悪そうな顔で背後の従者を見やった。好立は眉ひとつ動かさない。だが必死に口端をにやりと緩ませないように耐えているに違いないのだ。そう言う男だ。
将門が黙って睨み付けていると、ついに好立が勝ち誇ったように言った。
「まだ私は何も申しておりません」
「やかましいーーわっ!!!!」
将門はふんっと鼻息を荒くし、大股で歩き出した。