・9・ 飛翔(3)
◇◆
人間の娘が放った眩しい妖気に飲み込まれた小夜は、気がつくと靄の中にいた。
わかっている。これは、あの娘に残された泡雪の力だ。
幻影を見せ、心を喰う妖――泡雪。
ここは、泡雪の作りだした幻影の世界なのだろう。きっと、娘の身に危険が及んだことで、泡雪の力が爆発し、この世界に取り込まれたのかもしれない。
これで、はっきりした。
泡雪は確かに、この人間の娘を助けようとしている。
「泡雪……いるのか」
小夜は、四方を見渡した。どこかに泡雪の思念が残っているに違いないと思ったのだ。
すぐに小夜の視線が、靄の濃くなっている場所を目ざとく見つけ出した。
「泡雪」
小夜は確信を持って呼びかけた。
「面白いものが喰えたと思うたら――この匂い……朧の娘か?」
徐々に靄は人型を成していく。
「それに、お前にはヒトの血が流れているな。ヒト臭いわ。――血迷うたか、朧も。ヒトを喰わずに、子を成すとは」
ついに、若い男が姿を見せた。腰まである銀の絹糸のような髪を一つに束ね、真っ白な着物を着ている。その中性的な美しさには、どんなヒトも一瞬で目を奪われてしまう。実際、泡雪がヒトを“狩る”時、ヒトの女にも男にも、むしろその相手の望み通りの姿に自在に姿を変えることが出来た。
「朧を侮辱するな」
小夜がギロリと睨む。男は、口端を上げた。
「泡雪――お前こそ、人間に肩入れしているではないか」
「気になるのか?」
くっくっく、と泡雪が笑う。そのたびに、柔らかそうな銀の髪が、煌めきながら肩から滑り落ちた。
「…………この娘は、ただの人間なのだろう?」
「そうさ。ただのヒトの子よ」
「ならばなぜ――」
泡雪が、ふわりと優しく笑った。だから、言葉を続けられなかった。
「なぜだろうな」
「…………」
「ヒトは弱く愚かな生き物よ。単独では何一つできぬ。我らならば、ちょっと指先でつついただけで、殺すことができよう。それに、我ら妖に比べたら、ヒト命は実に短い。あっと言う間に、死んでいく」
泡雪はどこか一点を見つめたまま、どこか寂しげに続けた。
「だが、私は、ヒトがうらやましく思えたのだ」
「……うらやましい?」
ふっ、と口元を和らげ、泡雪が頷く。
「これを、寂しいとヒトは言うのだろうな。私は、ヒトを喰らううちに、ヒトに近づき過ぎた。いつのまにやら、私がヒトに喰われていたのやもしれぬ」
ヒトの心に触れるうち、自分にも芽生えた心――……。
寂しさや、悲しさや……愛しさ……。
泡雪は、胸元を抑えながら静かに目を閉じた。
「朧の娘、お前もここに感じるのだろう? ここが熱くなったり、痛くなったり、苦しくなったり、ざわつくことがあるだろう?」
小夜はぎくりとなった。
確かに、小夜は感じていた。
あの娘に出会ってからというもの、胸がざわついてばかりだ。
「図星か。その、ざわつきはヒトのものだよ」
「――――」
「ヒトはその心が邪魔をして、時に考えられぬ行動をする、実に面白い生き物だ。見ていて飽きぬぞ?」
「――――」
「腹が減っているのに、拾ってきた白い野猫に食い物を与えたり、泣きながら飼い猫に、夫がどうの、新しい妻がどうのと、愚痴り続け、泣き疲れて寝たり――怒って泣いて、また笑って……実に忙しい生き物よ」
再び、くくくと泡雪は笑いだした。なんだか嬉しそうだ。
だが、すぐに泡雪から笑顔が消え、何かを思い出したように、遠い目になった。
「……やっと子を成して、あんなに笑っておったのに、あっさり死によって……」
小夜は、はっとなった。
「あの人間の娘はまさか!」
「おいおい。私はヒトを孕ませる趣味は持ち合わせておらぬよ。あのヒトの子は正真正銘、ヒトの子よ」
「違うのか? ではなぜだ? ますます分からぬ。それほど、なぜあの娘に固執する」
「なぜだろうなぁ。私にもわからぬよ。ただ……もう少し見ていたかったのう」
アレが笑っている姿を。
あの華のように笑う、アレの笑顔を――。
不思議と、小夜には泡雪がそう言ったような気がした。
「もしや、泡雪が執着しているのは、あの娘の……」
小夜の呟きに、泡雪は声なく笑っただけで答えなかった。その表情で、泡雪にはもうこの話を続けるつもりがないのだと悟る。
だから小夜は、黙って泡雪の顔から答えを探した。
泡雪があの娘に肩入れするのは、その母親に執着しているからにちがいない。だがその理由がわからない。
妖の中には、親兄弟など関係なく、死闘を繰り広げるものも多い。力が全てであり、弱いものは強いものの餌食となる。小夜たち兄弟のように、群で生活しているのは希だ。
まして大妖怪たる泡雪が最弱の、しかも食餌である人間と共に生活するとは考えられない。
どこでどう人間の娘に接触し、その子供までも守ろうとするほど執着するに至ったのだろうか。
あの娘をよくよく観察すれば答えが見つかるのだろうか。
静かに泡雪を見詰めていると、ばちりと目が合った。慌てて、怖くなって目をそらす。
泡雪の目は怖い。
透き通った泉の水鏡のように、美しすぎで怖い。
すべてを見透かされそうで怖い。
「なあ、朧の娘」
呼ばれてギクリとなるのを何とか堪えた。何事もなかったように、どうにか泡雪の瞳をにらみ返す。
「お前は、ヒトの子か? 妖の子か?」
「なっ……何を言う、私は朧の娘だ!」
「――――質問を変えよう。ヒトの子として生きるつもりか、妖の子として生きるつもりか?」
胸のあたりを、鋭い牙でえぐられたような痛みが走った。
あまりに胸が苦しくて、痛くて――息が詰まる。
――『お前はヒトか妖か?』
泡雪の声が、脳内を反響し続けた。
自分はヒトでも妖でもない。
それは小夜にだってわかっている。
そして、それはここずっと小夜が抱き続けていた疑問だったのだ。
「お前たち妖狼は、仲間意識が強いからな。今のように朧のもとにいれば、他の妖に喰われることなく、その短い命を全うすることも出来よう。朧に守られて生きて行けばよい。だが――」
それは、同時にヒトの子として生きていくこともできるぞ――。
泡雪は、目でそう語りかけている気がした。
「そのお前の胸のざわつきを、本当のお前を、真に理解できるのは朧たちではないぞ」
小夜の瞳が泳ぐ。
「まあ、選ぶのはお前だ、朧の娘よ。好きにするがいい」
ゆっくり考えろ。
そう囁く泡雪の目が、どこか暖かくて。
今まで抱いていた、母の命を狙う危険な大妖怪という印象が、間違っているような気がしてきた。
母が泡雪の話をするときの目とどことなく似ている。
泡雪が纏う気配は、殺意でも、敵意でもない。
何か眩しいものでも見ているような、心底安心している時のような――そんな瞳だった。
「そろそろ時が来たようだ」
「え?」
「お前の力に抵抗するのに、私の残り少ない力を使い果たした。だが、この娘ももう、自力で生きて行けるだろうよ」
「泡雪は……本当に死んだのか?」
ふっと泡雪は柔らかく笑った。
「言ったであろう? ヒトがうらやましいと」
だから、泡雪は自ら死を選んだ。ヒトを喰らうことを止め、妖力が日に日に弱っていっても、それでよかった。
「もう飽きたのよ」
「生きることに?」
「違うな。アレのおらぬ、この世界に……お前ならいつか解るやも知れぬな、この言葉の意味が」
「あの娘の側にいればか?」
「まあ、お前の兄、朝霧といったか、あやつが許さぬだろうが。まったく誰に似たのやら――――そうそう、朧に伝えてくれ」
返事の代わりに小夜は、微笑む泡雪を見つめ返した。
「『結局、お前ほどの“いい女”は居なかった』とな」
返事する間もなく、泡雪の周囲の靄が濃くなり、あっという間にその姿を飲み込んだ。
瞬きをした後には、小夜は現実世界に引き戻されていた。