・9・ 飛翔(2)
尚子の聞いた声は空耳ではなかった。確かにその場に小春丸はいた。
尚子を無事に対岸に渡した後、ぶつぶつと不満を垂れ流しにし、自分に可能な限りの言い訳をしてから、結局、冷たい泉を再び泳ぎ、追いかけてきた小春丸は、崖にたどり着いた瞬間凍りついた。
尚子が赤の他人を助けるために、崖から転落しようとしている、まさにその瞬間だったからだ。
「姫さまっ!!」
間にあうわけもないのに、崖の淵に駆け寄って、手を伸ばした。
小春丸の右手が、落ちて行く尚子の長い黒髪の先をかすめる。
はら、はら……。
まるで舞うように、ゆっくりと黒髪が落ちていくのがはっきり見えた気がした。
「――――」
空を切った自分の右手を見つめたまま、小春丸は動けなくなった。
(――――え……?)
何が起きたのかわからなくて。
ただ、無言で自分の右手の平を見つめた。
(――――うっそだろ!?)
落ちた。
尚子が落ちた!!
尚子が死んでしまう!!
その現実を受け入れたのとほぼ同時に、頭から氷水を浴びせられたような衝撃が全身を駆け抜けた。
崖の向こう側から、突風が吹いたのはその時だった。
その強烈な風圧に、思わず目を瞑りそうになるのを、何とか堪えて、目を凝らした。
(――!?)
突風かと思えば、違う。風の中心に紫色の大きな影があり、まるで尚子を追いかけて崖を落ちていくように見えた。
ついに、影は尚子に重なった。そして、そのまま兎のように跳ねながら、崖を上がりはじめたかと思えば、あっという間に、対岸の崖の上へと軽やかに舞い降りる。
影が静止したことで、やっと小春丸にもその影の正体を視野に捉えることができた。
紫色の影――狼だった。人の三倍の体高はある、大きな大きな狼だ。
「――――」
唾を飲み込もうと試みたが、できなかった。
恐れと畏れが同時に、洪水となって押し寄せてきて、小春丸は、ぺたりとその場に座りこんでしまう。
「…………犬神様……犬神様がいらした……」
はっとして声の方に首を回すと、すぐ隣で、尚子に命がけで助けられた男――小六が、がたがたと体を震わせながら這いつくばるように、逃げようとしていた。
小春丸だって恐ろしい。悲鳴を上げて、全力でここを離脱したい。だが、その極度の恐怖より、驚きが僅に勝ってるから、そうしないだけだ。
再び視線を崖の向こうに戻すと、どこから現れたのか、狼の横に少女が立っていた。あの、泉で出会った妖の少女だ。
少女は、そっと狼の顔に手を差し伸べた。すると、狼はそっと口を開け、加えていたモノを地面に下ろす。
――――姫さま!!
小春丸は思わず腰を上げた。
尚子は、異変に気がつき、頑なに閉じていた瞼を開けた。
確かに背中に地面を感じた。わけがわからず、答えを求めて視線が彷徨う。
――――いったい何が起きた?
体を起こし、どこも痛くないことを確かめる。
(私……崖から……落ちたはずでは……)
首を傾げながら、手を開いたり閉じたりしてみる。やはり痛くない。
どういうことだろう? と思っていたら、頭上から声が降って来た。
「お前は、何者だ」
反射的に声の方を見上げる。琥珀色の円らな瞳が尚子を見下ろしていた。
「そなた……先ほどの……」
泉で出会った妖の少女だった。と、認識すると同時に、彼女の顔越しに獣が見え、尚子の顔が強張る。
光の加減で藤色にも銀色にも見える毛並みは、絹糸のように滑らかで柔らかそうだ。風で揺れる度に輝き、目を細めたくなる。
だが対照的に、黒い舌、裂けた口、少女の頭ほどの大きさをした赤い目が、尚子を縮み上がらせた。
見上げていたら、狼の血走った目がギロリと尚子を睨み付けてきた。
一瞬で息ができなくなるほどの恐怖が襲ってきて、嫌な汗が吹き出す。
――――おまえなど、いつでも殺してくれる。
そう言われた気がした。
「答えよ。お前は、何者だ」
少女が再び口を開いた。
「――」
巨大な妖を前にした緊張と恐怖で、尚子はごくりと喉を鳴らすのが精いっぱいだった。
汗が脇を伝う気持ち悪い感覚。からからの喉。足元から全身の毛が逆立つようにして、全身が警告している。
「答えぬ気か」
しびれを切らしたのか、少女の眉尻が微かに上がった。
無言のまま、少女の真っ白い小さな右手が、尚子の方に伸びてくる。尚子は動けなかった。
ただ、近づいてくる、少女の指先を目で追った。
少女の人差し指と中指の二本の指が、尚子の額に接触した瞬間。
(――――!!)
雷に打たれたように、激しい衝撃が全身を駆け、尚子の体がびくつき、硬直した。
硬直し続けながら、徐々に体から力が抜けていくのがわかった。めまいを覚え、頭が朦朧としてくる。
まるで魂が奪われているのではないかと怖くなってきたが、どうすることもできない。急速に忍び寄ってくる死を感じた。
途切れ行く意識の中で、尚子の脳裏に浮かぶのは、あの男の顔。
子供のように無邪気で、荒々しい男。
――――『この国をおまえにやる。俺はこの国を大きくする。民が生きていることに絶望し、生まれてきたことを悔やむような国にはしない』
あの男は言った。この国の悲惨な有り様を目にした上で、そう言った。
あの時は自分に自信があるから、だと思った。あの黒々と光る瞳に惹かれ、あの男なら実現できるかもしれないと思った。
本当にそうなのだろうか。
あの悲惨な村を見て、心が折れずに再建を民に約束できるほど、あの男は強い男なのだろうか。
――――『おまえの力が必要だ』
これこそが、あの男の本心ではないだろうか。
側にいてくれ。
再建する理由になってくれ。
諦めるなと尻を叩いて、最後までやれると励ましてくれ。
――――そうでなければ、心が折れそうだ。
それが本心ではないだろうか。
(こじ………ろ……)
帰らなきゃ。
あの男の元へ。
他の誰もが自分を疎んだとしても。
あの男が私を必要とするかぎり、私はあの男と共に生きる――。
突如、「――何!?」と少女が驚きの声を上げたような気がした。
ついに尚子の意識が途切れる瞬間、尚子は常人には見えない眩しい光に包まれていた。