・9・ 飛翔(1)
9 飛翔
尚子が、どうにか泉を渡り終えた頃、村の娘を生け贄に捧げようと、二人の男が崖を目指して獣道を進んでいた。
ふいに、全身の痛みで、娘は意識を取り戻した。
まず、娘が見たのは誰かの大きな背中。なんとか首を動かすと、天地がひっくり返って見えた。自分が俵か何かのように、片肩に担がれているのだとやっと理解した。
ゆらりゆらりと、男が歩くたびに自分の体が揺らされ、骨が砕けるほどの痛みを感じた。
ふと、自分を担いでいた男が足を止めた。
「ついたぞ」
思いの外、丁寧に、地面に下ろされた。娘は村人たちに殴られて腫れ上がった瞼を、少しだけ持ち上げる。そこで初めて、担いでいたのが大助だと気がついた。
無表情だった大助の瞳が揺れる。
可哀想だが、仕方がない。わかるな? そう、言ってるような気がした。
草木がざわめいた。男たちがビクリと体を震わし、辺りを見回す。それなのに風は感じなかった。
「……急ごう。気味が悪い」
一緒に来た小六が、大助を促す。
大助の視線が再び娘に注がれる。目が合った。もう、大助からは、迷いも、哀れみも感じ取れなかった。
大助が、そっと娘の体を持ち上げた。その手の平から、敬意が感じられた。
さっきまでのように、ぞんざいな扱いではない。緊張が伝わってくる。この地の神々に対峙している、そんな畏怖からくるのかもしれない。
崖から、冷たい風が駆けあがってきて、娘の髪を揺らした。
――ああ、私はこの崖から投げ捨てられるのだ。
まるで人ごとのように思えた。
怖くはない。
悲しくもない。
ただ……思うのは、母のこと。
閉じた瞼の裏に、凛とした母の顔が浮かぶ。
自分に輪をかけて気が強い母。泣き顔を見たことは一度もない。
弱音や愚痴一つ溢したこともない。
――母さんは、泣かないだろうか……
悲しまないでほしい。
私は、あなたの娘に生まれてきたことを誇りに思う。
あなたの教えを胸に、このまま大地に帰る。
寂しくなどない。
私の体は草木となって、魂は風となって、あなたの元へ帰るのだから。
ずっと側にいるのだから。
ただ――一緒に笑い合うことはできない……それが、心残りだよ、母さん……。
娘の頬を、一筋の雫が伝う。
大助が、娘を高々と掲げた。
「森の犬神たちよ。怒りを鎮めたまえ――」
その瞬間、森を風が駆け抜けていった。まるで、木々が大助の声に答えたように……。
その頃、尚子は全力で走っていた。
泉から崖は、人一人がやっと通れるほどの獣道で繋がっていた。尚子は両脇から迫る木の枝を分けながら、全力で走っていた。
走りながら、ぱっと目についた太めの木の枝を素早く拾う。
足を止めることなく、棒の感触を確かめた。ずっしり、重い――使えるかもしれない。尚子の瞳に強い光が灯る。
作戦なんてない。
男二人を相手に、勝てる自信もない。
でも、助けたい!!
助けて見せる!!
唇を噛みしめた時、目の前に生い茂る木々がいっきに開け、獣道が終焉を迎えた。
(――っ!!)
目に飛び込んできたのは、筋肉質の男が、娘を天高く持ち上げている光景だった。
何も考えずに、尚子は地面を蹴る。男だけを目指して、駆けた。
まるでそこだけ、時間の流れが遅くなったように、一瞬一瞬が止まって見えた。
一歩近づく度に、男の腕がゆっくり下ろされていく。
尚子は握りしめた木の棒に、力を込め、振り上げた。
尚子の気配に気がついた二人の男が、体ごとこちらを振り返ろうとした。しかし、その時には、尚子の振りおろした棒が、大助の頭部に直撃していた。
強打された大助の体がぐらりと揺れる。娘を抱えたまま、尻もちをつくようにして崩れ、そのまま気絶した。
「お、お前は!!」
もう一人の男、小六が叫び、後ずさりした。
その瞬間、小六の体が崖の方へ大きく傾いた。足場が崩れ落ちて、小石がカラカラと音を立てた。
尚子は反射的に小六の腕を掴み、自分の方へ引いた。
小六が地面に転がるのと、その反動で、尚子が崖の方へ吸い込まれていくのが同時だった。
前傾姿勢のまま、ついに、尚子の両足が地面から離れた。
「――――」
翼のように、尚子の着物の袖がはためく。
飛んでいる。
空を飛んでいる。
崖の下から吹き上げる冷たい風を、全身に浴びてそう思った。
自由落下が始まる直前。
「姫さまっ!!」
悲鳴のような小春丸の声を聞いた気がした。
尚子の体は、崖へと引き込まれていった。




