・8・ せざるを得ない理由(2)
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そよ風よりも速い速度で、妖の少女が再び自分たちに接近していることなど、まったく知らない小春丸たちは、泉を前にすでにお手上げ状態だった。
泳げない尚子を、向こう岸に渡す方法を考えに考えたが、手ぶらな状態では、できることなど限られている。
とりあえず、運べそうな倒木はないか近辺を探すも、世の中、そんなに甘くない。
ならば、落ちてる枝でも集めるか?
村に戻って何か探すか?
さすがの小春丸も、自分の命がかかっていないからか、妙案が浮かばない。
尚子がこのまま諦めてくれないかな、という思いが捨てきれないままだから、浮かばないのも当然かもしれない。
次第に、尚子に焦りの表情が見え始めてきた。
このままでは、いたずらに時間だけが過ぎ、助けられるものも助けられなくなってしまう。そう思ったのだろう。
ふいに、尚子は、意を決したように、泉に向き直り、言い放った。
「もうよい。泳ぐ。簡単に、泳ぎ方を教えてくれ」
「は? 無茶苦茶なこと言わないで下さいよ。無理無理」
「やってみなくては、わからないはずだ」
小春丸は、なんの冗談かと、尚子の言うことをまったく、本気にしなかった。
だが、次の瞬間、ぎょっと目をはる。
「ちょっ!!」
叫び、慌て尚子に背を向ける小春丸。
小春丸が驚くのも無理はない。尚子が突然、自分の着物を脱ぎ始めたのだから。
「なななななにやってるんですかっ!」
「だから泳ぐのだ。着物は泳ぎの妨げになるのであろう?」
そう言う間も、背後ではするすると絹の擦れる音がしていた。小春丸の心臓は破裂しそうなほど、脈打っている。
(なんだこれ!! ヤバいって!! 見ていいの? 見ちゃっていいの? いやいやいや、バレたら絶対殿様に八つ裂きにされて鳥の餌にされるって!! 耐えろ俺!!)
頭をぶんぶん振り回して、煩悩を振り払おうとしていると、じゃぼん、という水音がして、我に返った。
「えっ?」
ぐるんと、体ごと首をひねる。
まず脱ぎ捨てられた着物の脱け殻に目がいく。そして、その中身は、すでに水中に膝辺りまで浸かっていた。
形のよい尻、そこからすらりと伸びる足に釘づけになり、小春丸は思わず息をすることを忘れた。
頭も真っ白だ。
そんな小春丸のことなど、眼中にない尚子は、背を向けたまま、艶かしい真っ白な肌を、滑らすようにして、ずんずん進んでいく。
一足ごとに尚子の体は水中に飲み込まれていった。
「けっこう深い……」
すでに、尚子の体は肩まで浸かっているのだが、向こう岸は遠い。
「歩ける深さはここまでのようだな」
そう呟く尚子の声が聞こえたようなきもした。
それどころではない。
今、何が起きてるんだ?
夢でも見てるのだろうか。
自然と小春丸の喉がごくりと鳴った。
「小春丸、泳ぎ方を教えてくれ」
「――――」
「小春丸?」
呆然となった小春丸は、返事をすることもできなかった。
なんなんだ、この姫は。
本当に姫なのか?
普通の姫は、人前で素っ裸になるものなのか?
いや、誰かに聞くまでもない。
そこらの村の娘だって裾がはだければ恥じらいを見せる。
その前に姫という生き物は、素っ裸どころか、指先やその素顔ですら人目にさらすことを拒むものだと認識していた。
確かに姫の知り合いは、他にいないから比べられない。だが聞いた話では屋敷の奥の奥で、沢山の布で姿を隠し、扇で顔を覆って、おほほ、と暢気に笑っているものであるはずだ。
それなのに、裸体で目の前にいるなど、あり得ない!
「あんたって……」
声が掠れた。
身分とか、女であるとか、恥とか、自尊心とか、そんなものより、彼女にとっては、今、あの娘を救うことの方が大切なのだ。
助けたい――――ただその心に従い、そのために着物と一緒に“姫”という身分をも脱ぎ捨てた。
ただの一人の人間として、自分の受けた恩を返す――いや、それすら考えていないかもしれない。
目の前の消え行く命を助けたい。本当にそれだけなのかもしれない。
(なんてやつだ……)
心の中で呟いたら、ゾクゾクと身震いしそうな寒気を覚えた。
何がそこまで、この姫を突き動かしているのだろうか。
ただ者じゃない。
ただの無鉄砲で世間知らずな姫じゃない。
この姫なら、何かを変える力を持っているかもしれない。不可能を可能にする力を。
知りたいと思った。
この華奢な体に秘めた強い意思の源を。
自分の知る支配者とは、どこか優先順位の違う価値観を持つこの非力な娘の向かう先を。
ふっ、と小春丸の顔に笑みがこぼれる。
(参った。参ったよ、殿様――あんた、たいした男だ。こんな色気のない小娘に惚れた物好き扱いして悪かった)
この時、小春丸は、女性である尚子にではなく、同じ人間として、惹かれ初めていることを、はっきりと自覚した。
「あーあ、負けたよ。完敗だ」
言いながら、小春丸は、するすると自分の着物を脱ぎ始めた。
今度は、ぎょっとしたのは尚子の方だ。戸惑ったように目をそらしてから、間を置かずにくるりと背を向けた。
「そうそう。そのままこっち見ないでね――それから、姫さま、そのまま泉を渡るつもり?」
「……そうだ」
「もし、向こう岸まで泳げたとしてさ、素っ裸であの男二人の前にでるわけ?」
「……しかたあるまい」
「そんなことしたら俺が殿様にぶっ殺されるんだけど、いいわけ? あの娘は助けて俺は見殺し? ひどくねー?」
ついに一糸纏わぬ姿になった小春丸は、泉にじゃぼじゃぼと入り込み、水面を波立たせた。
思った以上に、泉の水は冷たい。つい、声を上げそうになった。
「まったく、そこんとこ考えてねーだろう?」
にやりと含み笑いを浮かべながら、ついに、小春丸は尚子の隣に並んだ。ため息混じりでそう言い終えたのに、勝手に顔が緩んでしまう。むしろ、尚子には嬉しそうに見えたかもしれない。
「そんなことは、私がさせない。お前に罰を与えるなと、私が言い聞かせる」
「甘いよ。そんなんで殿様は納得したりしない」
小春丸は、ふっ、と優しく笑いかけ、尚子をじっと見つめた――胸元は見ないようにして。
(どっからどう見ても、まだまだ発育途中のガキなんだけどなぁ)
「あんたがイイ女に育つのを側で見てたくなった」
「え?」
「いや――……姫さま、よく聞いてくれよ」
すーっと笑顔を引っ込め、小春丸は真顔になる。
「俺は、期待されたり、あてにされるのは嫌いだ。そーゆー態度は、イライラするし、他力本願な奴を見てると、胸糞悪くて吐き気がする」
「――――」
「けどな、自分の限界をぶち破って何とか前に進もうともがいてる奴は、嫌いじゃない。――正直、俺はあんたの生き方は、本当に不気味で愚かだと思うし、真似したいとは思わない」
尚子の顔が徐々に陰っていく。それでも、目をそらすことなく小春丸の声に耳を傾け、見つめ返すその瞳は輝きを失うことはない。
「誰だって損得勘定で、動くのが普通だろ? でも、それを軽く凌駕するほどの、意思の強さと行動力は、誰でも持ち合わせてるもんじゃない。――――だから、これは俺の意思だ。次を期待するなよ」
「意味がわからない。何が言いたい?」
「つまり、こうだ。――――俺は泳げる。俺が、さっきあいつらが乗り捨てていった盥を、向こう岸まで取りに行ってやる。姫さまはそれに乗って向こう岸まで渡ればいいってこと」
「えっ!?」
「だから、さっさと岸に上がって服を着ろよ。姫さまの裸体は、あんたが思ってるより、貴重なんだぜ? 何てったって俺の首がかかってんだからな」
言い終わるが早いか、小春丸は泳ぎ出した。
泳ぎながら、自分も甘いなと思う。
でも、この自分に、ここまでしてやろうと思わせるというのも、一種の才能であろう。
唯一、男として負けたと思ってる将門にだって、命令されたこと以上のことをやろうとは思わないのに。
しかたない。
ここまでさせる、してやりたいと思わせる、何かが尚子にはあったのだから。
背後で、尚子がこちらをしばらく眺めてから、岸へと引き返し始めたのが水音でわかった。
尚子も小春丸も、肌を撫でていく水が、氷のように冷たくて、すでに足の先が冷えきっていたが、それを打ち消して余りある暖かさと喜びを胸の奥で感じていた。