・8・ せざるを得ない理由(1)
8 せざるを得ない理由
「知恵を貸せっていわれてもねぇ――姫さま泳げるの?」
「わからない」
真顔で答えた尚子の顔を見ながら、小春丸は頬をひくつかせた。思った通りだ。
だが、尚子は、深さもわからない大きな泉を目の前にしているというのに、平然と続けた。
「泳いだことがない。だからわからない」
「そうですよね。泳いだことがないから、わからないですよね。でも、それを人は泳げないと言うんですよ?」
「ならば、泳げない」
「はっはっはっ。素直なことで」
(居直りやがったな)
思わず、小春丸は舌打ちした。
きっと、教えてもらえれば、なんとかなるだろう。そう思ってのことに違いない。
実際、尚子の運動神経の良さは、祖国の家臣たちから定評があった。だから、初めてだって、このくらいの泉は泳いで渡れるにちがいないと思っていた。だって向こう岸はすぐそこに見えてるんだから、と。
だが、そんな浅はかな考えは、小春丸には全部お見通しだ。
(おおかた、乗馬の練習で、「姫さまは女にしておくのが惜しいですな!」とかなんとか誉められまくったんだろうよ)
祖国の家臣が誉めるのは当たり前だ。家臣なのだから。自国の姫を「なんて不器用な姫様なんだ、まるでなってない」なんてけなす家臣なんて聞いたことがない。
それに気がついていないということが、甘い。
所詮、“箱入り”の姫。どんなにお転婆で、じゃじゃ馬で、無鉄砲だとしても、箱の外を知らない。
箱の中で自分がいかに、危険から、悲しみから、傷つけられないように手厚く守られて生きてきたか知らないのだ。
(それを、どーやって俺ひとりで守れって?)
地の底まで沈み込みそうな深いため息をついて、わざとらしくしゃがみ込んでみせた。
「姫さん、顔洗うくらいで、水に顔つけたことないだろ」
「ない」
「水の中って息できないの知ってるー? 苦しいんだよー?」
「ばかにするな。そのくらいは知っている」
「…………今は秋。水も冷たいよー?」
「……耐える」
「着物は水を吸って重い。泳ぎなれてても溺れることだってある――わかってんの、姫さま?」
さすがの尚子も、言葉が出なかった。
「それでも――」
そこで言葉を切ると、小春丸はまっすぐに尚子を見た。
「それでも行くんすか? 向こう岸に泳ぎ着いても、男二人を相手にしなきゃなんない。それでも助けにいくわけ? たった一人で、そうまでして、行かなきゃなんないの?」
畳み掛けるように質問を浴びせた。現実を突きつければ、諦めてくれるのではないかとちょっとは期待していた。だが、尚子の瞳は、一つ、また、一つ、問いかける度に力強く輝いていく。
「それでも、だ。――あの娘も、自分の命を危険にさらしてまで助けてくれたのだ。放置することなどできない」
「……」
尚子に表情には迷いが感じられなかった。
迷っているのは小春丸の方だ。ぽりぽりと頬を指でかきながら、視線を反らした。
確かに、この姫の度胸には感服する。馬鹿でもない。むしろ聡いほうだろう。
しかし、自分が命を懸けて守るに値するかと問われれば、全力で首を横にふる。こんな無鉄砲な主君の護衛など、命がいくつあってもたりない。無事に屋敷に帰りついたら、何がなんでも、明日からの護衛を辞退させてもらうつもりだ。
でも――。
(姫さまの言ってることも、今回だけは、ありかなあーとかも思うんだよなぁ。あんなにボコボコにされたとこ見ちゃうと、後味わるいし。かわいそーだなぁーとか思う。思うけど――それでまた俺が死にそうになるのはごめんだし。俺以外の誰かが、あの娘を助けてくれれば、なーんも言うことないんだよなぁ)
独りごちながら、ちらりと尚子の顔を見る。その眩しいほどの目の輝きに、負けた。
「わかりましたよ……」
この姫は、本当に、助けに行くつもりだ。本気も本気。
きっと何か作戦があるわけでも、勝算があるわけでもないに違いない。ただ、助けたいという思いだけの、無謀な賭けだ。
(でも――)
もし、本当に一人で娘を助けて帰ってきたら。
(――そしたら)
そこまで、やりとげられたら、それはすごいことなのではないだろうか。同時に、そこまで無鉄砲で怖いもの知らずを突き通し、わがままに生きて、生き抜く力があるということは、実に素晴らしいことではないだろうか。
「……わかりました。溺れないで向こう岸に渡れる方法を考えましょーかね」
でも、と小春丸は思う。何だかんだ言って、自分は単に、この姫に仕えるための言い訳を自分にしたいだけかもしれない、と。
◆ ◇
そよ風が木々の間をすり抜けていく。その風の中心には、常人の目に留まらぬ早さで駆け抜けていく3つの人影があった。
先頭を行く二つは後ろに続く小柄な影を気遣うように道を選んで進んでいく。
不意に、小柄な影の足が、ぴたりと止まった。
先頭の二人も足を止め、背後の妹を振り返る。寝ぐらにしている洞穴は、すぐ目の前だというのに、妹は来た道をじっと見つめたまま動かない。
「――行こう」
「……」
「小夜」
兄には、妹が後ろをしきりに気にする理由がわかっていた。
先ほど、泉にいた人間とは別の人間の匂いが近づいてくる。匂いは3つ。泉を渡り、こっちに向かってくる。
でも、それは珍しいことではなかった。
人間たちは、たまにあの泉を渡り、こちら側に侵入する。だが、ここまでたどり着いたものはいない。
何故なら途中の崖に用があるからだ。人間の身長3人分の幅の崖で、自分たちには軽く飛び越えられる距離のものだが、そこに彼らは自ら飛び込んで死んでいく。正直、理解に苦しむ。
落ちた死骸を、低級な野良犬どもが騒ぎたて、食い荒らし、こちらの縄張りを汚すのもいい気がしない。
人間たちが何をしたいのか、さっぱりわからない。
「小夜」
もう一度、促すように妹の名を呼んだ。
「あの娘が……まだ泉にいる。なぜ立ち去らないの?」
「娘?」
「待って……こっちに来ようとして……いる?」
「小夜」
「やっぱり、近づいてくる」
兄には、何故それほどに、妹があの人間を気にするのか理解できなかった。
「どのみち、泉を渡っても、崖から先には進めない。心配するな」
「でも」
「小夜。おかしいぞ。どうしたというんだ。泉にいたのは人間だったのだろう?」
「人間だった」
いい終えて、初めて妹が兄を振り返った。
「でもただの人間ではない! 妖気を纏った人間だった!」
「妖気を纏っていても、人間は人間。我ら妖とは違う」
言った瞬間、妹の瞳が刃物のように鋭く光った。
「そう。あの娘は、人間の器に妖気を宿していた。だから――確かに、朧や朝霧たち妖とはちがう! 人間でも妖でもない、私みたいに!」
少女の兄と姉の顔が、同時に、はっとなった。その隙に、もと来た方へと少女が駆け出す。
「小夜!」
兄と姉の声が重なった。




