・7・ その命で(3)
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小春丸が一人、敗北の白旗を上げた頃、尚子はまったく別のことを思案していた。
――『あんた、本当に人間か?』
その質問を浴びせられた時、一瞬言葉につまった。なぜなら、誰よりその答を一番知りたいのは、尚子自身だからだ。
小春丸は野犬のことしか知らない。
もう何も言わないところを見ると、あれは偶然だったのかもしれないと思ったのだろう。
でも、尚子にはそれは無理だ。
二度も、“普通考えられないような偶然”が重なるというのは、それこそ、普通では考えられないというもの。だからあの時――村の古い納屋に閉じ込められていた時、尚子は確かめようと思ったのだ。自分には動物と意思を通じあう能力があるのかどうか。
でも、ネズミだと思った小さな物音は、人の仕業だった。尚子が助けた、あの娘だ。
あの納屋の木製の壁は、所々いたんでいて、大きな穴が空いていた。その穴の修理は、外から大きな板を一ヶ所打ち付けただけの手抜き修理だったようで、そこを支点に板がくるりと回転し、簡単に出入りできてしまう。おかげで、娘が尚子を助け出してくれたというわけだ。
娘の顔を見た瞬間、正直、拍子抜けしたのと同時に、ほっとした。自分が“普通の人間ではない”と確定しないで済んだ。そう思った。
でも、その疑惑自体が晴れたわけではない。靄のように、今も尚子の脳裏にまとわりついて離れようとしない。
確かめるのが怖い。このままでもいられない。
自分自身が何者なのか。人間なのか――自信がない。
そんな、もやもやとした不安を小春丸に悟られまいとするのが、今の尚子の精一杯の強がりだった。
だから尚子は、異変に気づくのが少し遅れた。
「――!」
ぼーっとしている尚子の腕が強い力で引っ張られた。突然のことに声をあげそうになったが、それも小春丸の掌が許さない。強引に雑木林へと引きずり込まれ、頭を押さえつけられるまま、地面に伏せた。
ところが、口を被う馬番の手をひっぺがし、何事か、と問う前に、人の気配を感じた。開きかけた口をゆっくり閉じる。
がさっ。
がさっ。
道を彩る落ち葉が、音を立てている。その音がゆっくり近づいていた。
一人じゃない。かなりの人数が歩いてくる。
(どういうこと?)
思わず小春丸の顔を見る。ギロリと睨まれた。
『やっぱり騙されたんじゃ? 助けるふりをして、あの娘にハメられたんスよ!』などと、空耳まで聞こえてきそうだ。
もう脱走がばれたのだろうか?
しかし、追っ手だとしても、今さら逃げることもできない。ここから村までは一本道だった。
息を潜めてやり過ごすより他にない。
しかし、自分たちを追ってきたにしては、様子がおかしい。足音は、落ち着いているように感じる。
二人が、尚子の膝がすっぽり隠れるほどの背丈の草から、じっと様子を伺っていると、ついに数十名の男たちが二列にならんで歩いてくるのが見えた。
その整然とした歩みは、異様だった。
泉に到着した一行を首を傾げつつ見守っていると、数名人の男が大きな荷物を担いでいるのがわかった。
(あれは――)
尚子と小春丸の眉が同時に寄る。
男二人は巨大な盥を持っていたが、最後の一人は違った――人だ!
(あの娘だ!)
心の中で叫びながら、いっきに頭から血の気が引いていくのを感じた。
担がれていた娘は体中、傷と土まみれで、所々血が滲んでいた。顔も赤黒く腫れ上がり、痛々しい。腕は折れているのだろう、不自然な角度で曲がり、だらりと垂れ下がっていた。男の歩く振動で傷が痛むのか、たまに呻き声を上げている。
あまりの酷さに、尚子は直視できなかった。
(なんてことを……私のせいか――私たちを逃がしたから……)
胸がぎゅっと締め付けられる。
村人に暴行され、泣きながら助けを請うたに違いない。
どんなに痛かったろう。
どんなに苦しかったろう。
また――私のせいで。
悔しさと。
申し訳なさと。
情けなさと。
言葉にできない感情が、ぐちゃぐちゃと混ざりあい、行き場を求めて、涙となって込み上げてくる。
泣くものかと思った。
泣いて何になる、と思った。
目を見開いて、現状を頭に焼き付けろ。
結局己のしたことは、この娘を更に苦しめたにすぎないじゃないか!
「――っ」
歯を食いしばって、滲んでくる視界に抵抗した。
「俺と大助が行く。皆は先に戻れ」
リーダーらしい、体格のいい男が言った。見覚えのある顔だった。尚子たちを捕らえた男だ。
泉に、男たちが運んできた盥が二つ並べられ、その一つに娘は乗せられた。その後、二人の男が、それぞれの盥に一人ずつ乗った。他の村人から、櫂(※オールのこと)が渡され、二つの盥は対岸へと進みだした。
残された村人たちは、その盥が向こう岸にたどり着くまで見守っていたが、やがて、もと来た道を戻っていった。
再び泉に平穏が戻る。優雅に落ち葉が舞い、着水した音が、尚子の耳に聞こえた気がした。
尚子は立ち上がり、向こう岸を見る。
「生け贄ですかね……」
小春丸の声がかすれた。普段、テキトーで軽口ばかりの小春丸もこの時ばかりは、動揺を隠せなかったようだ。
「――」
尚子は無言で向こう岸を睨み付けたまま動けない。その瞳には、もう涙も弱音もない。
――助けたい!
きっと、こうなることを、知っていて、それでも自分たちを救ってくれたのだから!
このまま、屋敷にもどって、のうのうと暮らすことなど私にはできないっ!
ぐっと拳を握りしめ、決意の表情で小春丸を振り返る。
小春丸は何も言わずに尚子を見つめ返した。そして、肩をすくめ、やれやれと言うように首を左右に振る。
「止めたって無駄なんでしょ、どうせ?」
尚子は、こくりと頷いた。
「俺は、手を貸しませんからね。何があっても」
「かまわない。だが――」
にやりと口端を上げてから、尚子は続けた。
「――知恵は貸せ」
小春丸は顔をひきつらせ、密かに思った。尚子は殿様に似てきてないか? と……。