・7・ その命で(2)
◆◇
泉を包む、はりつめた空気を一掃したのは、小春丸の呟きだった。
「……何だ今の……うそだろ……」
呆然としていた尚子も、はっとしたようにこちらを振り返った。その、尚子の青ざめた顔が、すべて現実に起きたことだと告げていた。
「……待て待て待て!! ありえないだろう。だって水の上を歩いてたぞ!」
しかも宙に浮いていた。目は、怪しげな黄色から、燃えるような血の色に変化した。
それにこの背を流れる汗。尋常じゃない。まるで滝のようだ。
体が本能的に命の危険を訴えているとしか考えられない!
「人間じゃねぇ……」
声が震えた。信じられないものを見たという驚きよりも、恐ろしさが勝っていた。
「化け物だ……化け物がっ……」
殺されるところだった――。
そう思ったとたんに、ぞくりと寒気が走った。
(だから俺は止めたんだ!!)
なのに、なんでこんな目に!?
自分は、命の危険とは無縁の、むしろ別次元で、のほほーんとしながら、美人の妻とムフフな生活を送っている予定なのに!
(おかしい! ありえない! 何がどうしてこんなところで、こんな色気のないじゃじゃ馬と、死にそうにならにゃーいかんのだ! 俺の完璧な幸せ人生設計はどこで狂った!?)
独り、論点がずれてきた小春丸は、ついに頭を抱えて項垂れてしまう。
「妖の子供……」
ふいに尚子が真っ青な顔のまま、呟いた。
再び尚子の顔をすがるように見つめると、その大きな瞳が小刻みに揺れているのに気がついた。何かを思い出した、といった表情だ。
小春丸は胸の奥底から、じわじわと込み上げてくる嫌悪感に必死に気づかないふりをしながら、口を開く。自分の嫌な予感はよく当たる。
「……姫さま、まさか……」
「私は何も……本当に泡雪なんて名前……」
尚子は、頭をふりながら、懸命に声を絞り出しているようだった。
(泡雪? そうだ! 思い出した!)
あの化け物が何度も口にしていた名前だ。その泡雪とかいう人物を尚子が知っているようなことを言っていた。
(いや、待てよ)
小春丸は腕を組み、顎をさすった。頭をこれ以上ないくらいフル回転させる。
(そもそも、あの化けもんは、姫さまを探してたみたいだったじゃないか? ――――つまり、もともと姫さま一人を狙ってたってことか?)
「まじかよっ! 冗談じゃねぇぞ!!」
自分のたどり着いた結論に、思わず立ち上がり叫んでしまった。
その大声にびくりと反応した“災厄の塊”を、冷ややかに見下ろしながら続ける。もう我慢も限界だった。
「やっぱり、あんたのせいか。全部、全部、何もかも、あんたが元凶だ」
普段、本心を見せない小春丸の言葉の、一言一言に力が入る。
「小春……――」
「だいたいあんたは、何がしたいんだ? なあ、教えてくれよ、お美しい隣の国のお姫さまに、いったい何ができるっていうんだ?」
「――」
「何にもできないくせに何だってこんなところまで来てるわけ? 隣の国のことに、首、突っ込んでんじゃねぇーよ。殿様に見初められたんだろ? 何もしなくても、うまいもん食って、綺麗な着物来て、笑って生きてられんだろ? 殿様の機嫌とって、子作りでもしてればいいじゃねーか!!」
「落ち着け、小春丸」
「俺は落ち着いてる。俺は正気だ、まともだし、普通だっ! 普通じゃないのは姫さま、あんたなんだよっ! 普通、刀もろくに使えない女が、犬に食われそうになってる女を助けるか? 運よく犬が逃げたからよかったものの、そうでなければ今頃――――……ちょっと待てよ」
小春丸の眉が寄せられる。
「犬が、しかも、餌を目の前にした野犬が……尻尾巻いて逃げるか?」
信じられないモノをみるような小春丸の視線が尚子に降り注ぐ。
「それに……あんたも俺と同じように、縛られていたはずだ。どうやって逃げ出したんだ? 本当にあの女が逃がしたのか?」
「――何が言いたい?」
睨み返す尚子の目が揺れた。今までのような、人を射抜くような、息をのむ凄みが、その瞳にはない。
だから、小春丸は続けた。迷いもなく。遠慮なく。
「あんた、本当に人間か?」
尚子の目が見開かれていく。
「なっ……」
「だってそうだろう? 普通の人間は、あんな化け物に探されたりしない。あんた、あの化け物の仲間か?」
「違うっ!」
「その証拠は?」
「証拠……?」
「あんたが、化け物じゃないっていう証拠だよ。さっきの小娘も、見た目は人間だった。どっからみても人間のガキだった。浮いたり、水の上を歩いてなけりゃ、俺も気づかないさ。つまり、あんたらは人間に化けるのが得意なんだろう?」
「――――」
尚子は、言葉を探すように視線を彷徨わせてから、目を伏せた。
(ほら、言わんこっちゃない)
皆、この容姿に騙されているに違いない。
自分は人畜無害ですっていう顔で、今日一日でどれだけの害を自分に被らせたことか。
「殿様も間抜けだな。化け物に騙されて、骨抜きにされてよ。あー、やってらんねぇ」
とっとと、こんなところから、退散しよう。化け物の娘を護衛しろなんて、そんな命令聞いたこともないし、守る義理もない。
(むしろ、ここに捨てて帰るのが、世のため、殿さまのため、俺のためってもんじゃないか!? そうだろう。どう考えても、こんな天然危険物、持ち歩くもんじゃないし!!)
そうだ、そうだ、と自分で自分に相槌を打ち、尚子に背を向けた。だが、すぐさま、腕を掴かまれる。
「待て! 本当に違うんだ!」
「放せよ」
心の蓋から溢れた嫌悪感からか、力一杯振り払ってしまい、尚子の体が簡単に吹っ飛んだ。
一瞬、しまったと思った。相手は、仮にも姫の姿をした女性だ。女性に優しくをモットーとして生きている小春丸の顔に心配の色が浮かぶ。
(いかん、いかん。これは化け物だ)
くそう。人間の、いや、男の心の弱いところを上手くついて、美人に化けるなんて、なんて性悪な化け物なんだ。そう思うと、だんだんと、腹が立ってきた。
痛そうに腕を押さえながら体を起こす尚子に、ますます嫌気がさし、舌打ちせずにはいられない。
今度は痛い素振りか?
そんな嫌みすらも、言う気が失せる。
「おまえになんと言われても、本当に……わからないんだ。泡雪という名前にもまったく覚えがない!」
「じゃあなんで、あんたを探しに来る? 俺だって化け物の世界はよく知らん。でもよ、ヤツラは、何の関係もない、ただの小娘をわざわざ探しに来るほど暇なのか!?」
「もしもっ!」
小春丸の容赦ない罵声にも臆することなく、尚子が腹のそこにズシンと響くような太い声を出した。そして、自分の心を静めるように、深く息を吐いてから、再び口を開いた。
「もしも、妖の少女が私に会いにきたのだとすれば、私が過去に妖の子供を助けたことと関係があるのだと思う」
「妖の子供?」
「その子供も、先ほどの少女のように、外見は何一つ人間と変わらなかった。育ての親だろうな、家族を村ごと焼かれ、自らも死のうとしていたところを、屋敷に連れ帰った」
思い出しているのだろう。尚子の顔が、徐々に穏やかな、柔らかい笑顔になっていくのがわかった。
その表情に、小春丸はなぜか懐かしさを覚えた。なんでだろう。こっそり自問自答する。
「よく働き、よく笑う、普通の子供だったよ。ひとつをのぞいて」
「――――」
「ある日、火の中で眠ってるその子を見た」
「火の中って、ごうごうと燃える炎の中か?」
思わず話に聞き入り、聞き返した小春丸に、尚子はこくりと首を縦に動かした。
「それで、すべて合点がいった。だから、村人が全員焼け死んだその村で、火傷一つすることなく、あの子は生き残ることができたのだと」
「火の化け物なのか?」
「おそらく――今となっては確認しようもないけれど」
「死んだのか?」
尚子は目を伏せ、顔を歪めながら首をふった。
「わからない。でも、この国に来る途中で、彼の本当の姿を見た。挨拶に来てくれたんだ――こんなに小さくて、でもちゃんと暖かくて……」
胸の前で、両手をお椀のように広げながら、尚子は微笑む。
「『一緒にいけない。後のことは心配らないから幸せになれ』と背中を押された。それが皆の願いだから、と」
小春丸は、なぜかその時、尚子は泣いているのだと思った。
顔は笑っている。本当に、柔らかな自然な笑顔なのに、それを見ていると、自分の胸が痛い。
この姫は、実はとてつもなく強い女性なのではないだろうか。自分がどんなに泣きたい時も、心配させまいと笑顔を見せる。そんな女性なのではないだろうか。
不意に、尚子と視線が交わる。心臓が、どきり、と跳ねた。
尚子の顔から目を離せなかった自分を隠すように、ぼりぼりと頭を掻きながら、視線をずらし、言葉を絞り出した。
「ふ、ふーん……化け物にもイイヤツがいるんだなぁ……」
もしかすると、人間と同様に、妖怪の世界にも良し悪しがあり、生活があるのだろうか。野山に生きる動物たちが、そうであるように。
「でも、本当にそれが泡雪とかいう化け物なのか? 火の化け物なのに“雪”って変じゃねぇ?」
「わからない。だが、他には思いあたらないし、あの少女は、泡雪が私を助けたと言っていたから、あの子供の妖のことだとしか考えられない」
「ふーん。じゃーさー、その助けてけたっていう泡雪みたいに、さっきの小娘の姿した化け物も姫さまの味方なんすかね?」
何も考えずに、口から出たのだが、それを聞いた尚子はくすりと笑みを溢した。
「な、なんすか?」
「口調が戻ったな」
「…………うるさいっスよ」
そう言えば、怒りも嫌悪感もいつの間にか鎮火していた。いや、鎮火させられたという方が正しいだろう。
自覚している。自分は美人に弱い。特に、気の強い美人と、意思の強い美人には、めっぽう弱い。最弱だ。
(あ、あれー!? もしかして、これって、殿さまにハメられたってやつ? ていうか、なんであの人は俺の女の好み知ってんのー!? マジありえねーし!!)
ちらりと尚子に視線を送ってみた。頬笑み返される。
(うっ。何この、前にも増した、信頼切った目)
「わかってくれれば、それでいいんだ。私はお前を失いたく無い」
(失いたくないって……あーた、照れるからやめて)
「お前の頭の回転の良さは、さっき立証済みだ」
(ああ、俺の“頭が”必要なのね)
「森を抜けるには、小春丸、お前が必要だ。一緒に帰ろう」
(――――)
小春丸の息が一瞬止まる。
(わ、わざとやってるのこの子!? ねえ、わざとなの!?)
心臓の音がだんだん大きくなっていくような気がした。勘違いであってほしい。
だが、不覚にも“お前が必要だ”という単語だけが厳選され、頭の中で、ぐわん、ぐわん、共鳴し続ける。
(やめてよ、やめてよ! ほんとやめて! 何この展開! 要らない、ほんと、要らない!! ラブコメのライバル的な役どころは、別の人にして、ほんと、いやーーーっ!!)
主人に対する『してやられた感』とその他諸々の雑念を払拭するために、頭をぶんぶん振り回し、さらに、髪をワシャワシャと掻き毟ってみた。
「ど、どうした?」
「…………」
無理。全然、払拭されない。
「小春丸?」
かくして、がっくりと、肩を落とした小春丸は自分の輝ける未来が、すでに鬼畜な屋敷の主に握られていたことを知った。