・7・ その命で(1)
7 その命で
「そのくらいにしておけ、死んでしまうぞ」
「死んだって構うもんか、こんなヤツっ!!」
「そうだ、こいつがヤツラを逃がしたせいでっ!!」
最後の男の声と一緒に、痛恨の一蹴りが、娘の脳天を直撃した。その衝撃で、地表を半回転し、そのまま背中で着地した。受け身を取れぬまま着地したため、激痛が全身を駆け巡り、一瞬、息が出来なくなる。目の前がチカチカして、意識が遠退きそうになった。
「ああ、もうこの村はおしまいだ」
「なんていうことだ」
「おしまいだ。皆、殺されてしまう。犬神様は絶対に我らを許したりしない」
「ああ、殺される! 皆、殺される!」
仰向けのまま動けないでいる娘の頭上で、無数の男たちが口ぐちに騒ぎ立てている。
「村長に報告しろ。村長ならば、何かいい案がおありかもしれん」
「そうだな、村長に報告だ!」
「俺がいく」
「俺もだ!」
遠ざかっていく数人の男の足音が、右耳近くで聞こえた。それでも、娘は指一つ動かすことができないでいた。
どのくらい殴られたのだろう。
もう、途中から記憶がない。意識がもうろうとしていた。
お腹やら背中やらを、集団で殴られ、蹴られ――かろうじて生きている。呼吸ができている。
そんな状態だった。
「お前のことは、可愛がってやっていたつもりだった。それが――とんだ裏切りだ」
吐き捨てるように、聞きなれた声が頭のすぐ上から降ってきた。視線をやっとの思いで動かし、顔を確認する。
(……大助さん……)
娘と視線があった大助は、ばつの悪そうな顔で、目をそらした。
確かに、大助はこの村の男たちの中では、親切だった。だが、その理由は不純なものであることを、娘は知っている。
「お前の母さんの立場を考えてやれ」
大助は小声で言った。
その、引きつった顔を見て、娘はやっぱりな、と思った。
大助は母が好きなのだ。だから、その娘である自分に優しい。それだけのこと。
自分のことを大切に思ってくれているわけではない。むしろ、邪魔に思っているに違いないのだ。
そう、思っていたが、どこかで自分のことも、実の娘のように思ってくれているのではないだろうか。そんな微かな期待を消しきれなかったのは確かだ。
それが証拠に、今、胸が切り裂かれるように痛む。
――微かではなかったらしい。
(……大助さん……)
娘は、ぐっと唇に力を込めた。
「大助、村長が来たぞ!!」
「おお、村長だ!」
「村長っ!!」
男たちは、まるで、すがる子供のような、情けない声を出して、老人を迎えた。
「話は聞いた――大変なことをしてくれたな」
村長が、背筋が凍るような冷たい目で娘を見下ろした。
憎悪。
侮蔑。
とても、同じ人に向ける視線ではない。
「しかたがない。――おまえが、その命を持って、すべてを償え」
いっせい、その場にいた者が息を飲んだのが分かった。恐ろしいほどの静寂があたりを包む。
「そ、それはつまり」
誰かが問う声も、もう娘には、遠くの方で聞こえる人事に思えてきた。
「この娘を、犬神様に捧げるしかなかろう」
「そ、それで我々は助かるのですか!?」
「本当に、森に入り込んだよそ者でなくても、犬神様のお怒りは鎮まりますか?」
期待から声が上ずる男たちに、村長は深く頷いた。
「大丈夫じゃ。かつても、同様なことがあったが、犬神様はこの村をお許しになられた。だから、村は今日まで、存続しておったのじゃ」
「おお!!」
「助かった!!」
「信じられぬ!! 我らは助かるのか!!」
もはや、娘の命を心配する者など、誰もいない。泣きながら、抱き合いながら、大喜びする村人たちを、娘は、仰向けのまま、視界の端で受け入れた。
――空が、青かった。
『命を持って償え』
つまり、自分は生贄にされるのである。
犬神が住むと言われる森に足を踏み入れた者は、犬神の怒りを買う。怒った犬神は、森の生き物という生き物を食べつくしてしまうという。森の美しい湧水も、川も枯れ果て、森はあっという間に死してしまうという。
今日、娘は野犬に追われ、いつのまにか禁じられた森へと足を踏み入れてしまっていた。そこを、よそ者の娘と男に助けられた。
あの者たちが、なぜ、あの場に居合わせたのかは分からない。
でも、自分には、あの者たちが生贄となるのを黙って見ていることは出来なかった。
第一、よそ者が森に侵入しただけで、森の守り神たる犬神が、森を殺すなどというのもおかしい。ただの言い伝えにすぎないのではないだろうか。
だから、二人を逃がした。
自分のために、必要かどうかも分からない生け贄として、彼女たちを見殺しにすることはできないから。
(これでいい――)
娘はそっと目を閉じた。
自分は間違ったことをしたとは思っていない。
村人を裏切り、あの者たちを助けた自分を、母ならば、きっと許してくれるはずだ。
(だって、これは母さんが、いつも、いつも、私に教えてくれたこと)
『我らは、誇り高き民族。たとえ倭人に捉えられ、俘囚と呼ばれ、奴隷のように蔑まされようとも、心まで犯されることはあるまいよ』
母はそう言っていた。
自分の心を信じよ。
自分に恥じぬ生き方をせよ。
それが、我ら――気高き北方の民族――だと。
(だから、私は私の心に従う。私の命を救った人たちが――私を助けたせいで殺されるのを黙って見てなどいられない。これが私の強き心)
だから。
これでいい。
たとえ、生きたまま、生贄として崖から突き落とされようとも。
その死した体を、野犬が食い散らし、鳥が啄ばもうとも。
自分は後悔しない。
(私は、私の心に恥じることはしない――でも……)
娘は小さく息を吐き、重たいまぶたを押し開いた。
すがすがしいほどの青空を、もう一度だけ、目に焼き付けようと思った。
――きっと、もう見ることのできない、母の笑顔の代わりに……。