・6・ 琥珀色の殺意(2)
◇◆
「なぜだ」
左前方の木陰からの声に、少女は足をとめる。その声の主が長兄であることはすぐに分かった。
彼は常に、少女を見張っている。もちろん、心配という名の善意からだ。
「なぜ、殺さぬのだ」
長身の青年が木陰から姿を現した。優雅な足取りで少女の真正面に立ち、切れ長の銀色の瞳で何かを探るように、見下ろしている。
年は、二十代前半だろうか。木漏れ日が反射して輝く銀髪は、朝露にきらめく蜘蛛糸のように、妖艶な雰囲気を持つ。その完璧までに整った顔立ちの彼の前では、少女の美しさも霞む。誰もが一瞬にして目を奪われ、感嘆の息を漏らすに違いない。
「朧を殺しに来たのだろう?」
兄の問いかけに、少女は明らかに面倒臭そうに、息を一つ吐いた。
「いつから見ていたの?」
「お前が、あの“淡雪の臭い”を追って、駆け出したから、私もそれを追った」
つまり、兄はずっと自分の後を付けて、あの娘と自分が対峙するのを見ていたということになる。
「てっきり、お前は、あの者を殺すのだと思った」
「殺そうと思っていた」
「ではなぜ?」
「殺そうと思って、あの娘に近づいた――でも、できなかった」
長兄の眉がかすかに寄る。
「あの者は、どう見ても、タダの人間だった。我らのような妖でも、術を使う陰陽師の類いでもない。何の力も持たぬ、タタビトであった。それがなぜ――?」
「淡雪の……」
少女はそっと目を伏せた。その表情には、戸惑いが見え隠れしている。
長兄は少女を気遣うように覗きこんだ。その瞳がほんのり優しさに包まれる。
「淡雪は死んだ……ほんとに死んだのよ……」
「見えたのか?」
少女はこくんと頷いた。
「――そうか」
「あの娘を殺そうとした瞬間、淡雪が見えた。あの娘の命を――守ろうとしていた」
「守ろうと?」
「なぜかは、分からない。なんだか、急に――ここが変になった」
あの泉でのことを思い出して、思わず少女は胸のあたりを両手で押さえた。
(ここが――すごく変だった)
それは少女の感じたことがない、感情だった。くすぐったいような、きゅうっと掴まれているような。
(日向ぼっこをしている時みたいに、ここのあたりが暖かくなった)
この感情を表す言葉を知らない。
わかるのは、敵意でもなく、殺意でもない。勿論、食欲でもなかった。
ただ、どこか心地よい――。
この感情は明らかに淡雪のものだ。
淡雪は、死した後も、強力な妖力を娘の体に宿らせるようにして、守ろうとしている。
(でもなぜ、あの娘を? 自分の命を犠牲にしてまで、あの娘を守る理由はなんだというの?)
少女たちの母、朧が唯一認めた妖猫。幾度となく死闘を繰り返し、それでも勝敗が決することがなかった。その淡雪を服従させるような何か特別な力が、あの娘にあったというのだろうか。
(信じられない――あの娘、ただの人間ではないのか?)
少女は、娘の顔を懸命に思い返していた。
確かに、あの時は、淡雪の妖力に包まれていたから、娘自身の妖力を感じ取り損ねたのかもしれない。あの娘が、強大な力を持つ大妖怪である可能性は、無いわけではない。
だが、淡雪を使役するほどの大妖怪であったなら、この朧の森へ足を踏み入れた理由は、一つしかないはずだ。少女たち朧の一族を喰らい、自らの妖力を高める――そのために来たことになる。
(でも、あの娘は朧の名は愚か、淡雪の名も知らないように見えた。いったいどうなっているの?)
いつしか、少女の眉間には深い皺ができていた。
「どうした?」
黙ってしまった妹を心配した長兄が、少女の肩に手を置いた。
「――なんでもない……」
「淡雪が、あの娘を生かしたのならば、我々が手を出せる問題ではなくなる。朧が戻るまでは、様子を見るしかない」
「でも……」
「朧に任せよう」
長兄は静かに、そして、強く言った。
不意に、微かな風に乗って、嗅ぎ慣れた長姉の臭いがした。少女と長兄は同時に、一点に視線を集中する。
「朝霧。何があったの?」
これまた、華麗な美女が姿を現した。白銀の絹糸のようなつややかな髪を、頭の高い位置で一つに縛っているためか、気の強そうな印象を受ける。年は青年とさして変わらないように見えた。
「咲木」
「先詠や炎刈たちが、不安がっているわ」
「大事ない。我々も戻ろうとしていたところだ」
「本当に淡雪だったの?」
「いや――淡雪の妖気を纏った人間が、この森に足を踏み入れただけだ」
それを聞いた長姉も、信じられないことを聞いたというように、顔をしかめる。
そんな兄たちの会話を人ごとのように聞きながら、少女は吸い込まれるように背後に視線を送った。
「もうよい――戻ろう。弟たちが心配しているのだろう?」
「……そうね」
少女は、まだ、視線の先にあるはずの泉に思いをはせている。
(ただの人間に見えた)
でも、自分をずっと凝視していた。
普通の人間は、自分を見ると脅えたように悲鳴を上げ、逃げまどう。
あの娘は、違った。
まっすぐこちらを見ていた。
(あの娘は――何者なの?)
「小夜」
名を呼ばれ、はっとして兄たちを振り返った。
「ゆこう」
「……」
少女は、もう一度だけ泉の方を振り返って、兄たちの後ろに続いた。