・6・ 琥珀色の殺意(1)
6 琥珀色の殺意
「とにかく、歩こう。歩きながら話す。このままここにいては、危険だ」
尚子は立ち上がると、小春丸を促す。
「どこに行くんです?」
「泉だ。ここを真っすぐ進むと、森の中に泉があるという。そこに、しばらく身を潜めていろと言われた」
「言われたって――あの娘にですか?」
「そうだ」
「信用できるんですか?」
返事をする前に、尚子は足を進める。
「あの娘が、私たちを助けてくれた。それだけは事実だ。ならば、それを信じるしかないじゃないか」
「それはそうッスけど……でも、先に娘を助けたのはこっちッスよ? なのに、命の恩人である俺らを売り飛ばすとか、意味わかんないッスよ」
「……」
押し黙った尚子の顔を、小春丸が覗き込む。
「何か知ってるんだったら教えてくださいよ」
「……どうやら私たちは、禁を犯してしまったようだ」
「禁?」
「私たちがあの娘を助けた場所は、禁足地だったそうだ」
「禁足地?」
「いわゆる、聖域だな。この森には犬神が住んでいる。あの村の者たちは、代々、その犬神が生活する領域に、何者か入りこまなように見張っているのだという」
「番犬の村だったんすね」
「そう言うな。その使命と、大上村という名を、村人たちは誇りに思っているようだ」
「ふーん――――でも、俺たちが、禁足地に入ったのは不可抗力じゃ!? あの娘が先に入ってたんすよ!?」
「そうだな」
小春丸がはっとした顔になる。
「――――だから、あの娘は自分たちを助けたっていうんですか?」
「そうかもしれないな」
「…………」
「見ろ、あれじゃないか?」
尚子が進行方向を指差した。
きらきらと、日光を反射した水面が、木々の間から微かにのぞかせていた。
近づくにつれ、その全貌が明らかになる。
「けっこう大きいな」
泉を前に、尚子は呟いた。
泉は直径が二十メートルはあろうか。森林において、そこだけぽっかりと青空が見えるので、まるで異世界にたどり着いたような明るさを感じた。
水の透明度も高い。
青空が写り込んだ水面を、小魚が泳いで行く。
まるでそこには水が存在しないかのように見えて、思わず手を差し込んでみる。
――冷たい。
手首まで入れてみたが、水底に届く気配はない。案外深いのかもしれない。そう思うと、急に、吸い込まれそうな泉の美しさが怖くなってきた。
「奥にまだ道がありますね」
顔を上げ、小春丸が指差す方を見た。確かに、泉をはさんでちょうど反対側に、けもの道が続いている。
周りを見渡しても、泉の反対側へと続く道はない。ということは、この泉を泳いで渡るしか、あのけもの道へはたどり着かないということだ。
「ここは、本当に安全なんッスか?」
「あの娘の話では、ここならば村人は追ってこない、とのことだ」
「追ってこない?」
「ああ」
「それって――」
「何だ?」
「……だって、ここまで来るのに、ちゃんと道があったじゃないですか」
「ああ。一本道だった」
「なのに、追ってこない?」
「何が言いたい?」
「わかんないんですか!? 道があるけど、追えない。追ってはいけない」
「――禁足地か」
「そうですよ!!」
「だから、この泉にしばらく身を潜め、村が落ちついたころを見計らって、来た道を引き返せと言ったのか」
ならば、やっぱりここは安全なのだ。
あの娘は、自分たちを助けようとした、それだけは間違いないということだ。
信じてはいたのだが、どこかほっとしている自分がいる。
尚子は、そっと苦笑いを浮かべた。
だが小春丸は、いっそう切羽詰まった声を上げる。
「何落ち着いてるんです!!」
「むしろ、何を慌ててるんだ?」
「禁足地ですよ!!」
「そうだと言ってるじゃないか。ちょっとは落ちつけ」
「だって!! 姫さま、忘れたんじゃ!? 祟りですよ、のろいですよ、疫病ですよっ!! ほら、結局、さっきのおっきな犬に俺らは食べられちゃう運命なんスよっ!!」
「……飛躍しすぎだ」
「うがあああああああ。俺の桃色の人生!! カンバーックっ!!」
立ち上がって、小春丸を振り返った。
その時だった。
――――ざわわ……。
尚子はその草木の、微かなざわめきに、はっ、となった。
視線を感じて、勢いよく振り返る。
琥珀色に輝く瞳とぶつかった。
「――――」
少女が泉の対岸に立っている。
さっきまで、誰も居なかった。それは確かだ。
いつからそこに立っていたのだろう。何の気配も感じなかった。
たった一人で、年端もいかない少女が、じっとこちらを見据えている。
小春丸の息を飲む音が、背中越しに聞こえた。
再びそよ風が、草木を揺らす。
「――おまえだ」
鳥が鳴いたのかと思うほど美しい声で少女は言った。
「おまえから泡雪の匂いがする」
美しいが抑揚のない声だった。
まるで人形のようだな、と尚子は思った。
腰まで伸びた、絹のように艶やかにきらめく黒髪。
小ぶりで、少女には不釣り合いなほど鮮やかな紅色の唇。
それに、雪綿のような白い肌には、藤色の着物がよく映えていた。
その姿を見る限り、裕福な貴族の、大切に育てられた幼い姫君のように思える。
――この場所が、村人もほとんど足を踏み入れることのない深い森であることと、その大きな琥珀色の瞳を覗けば。
「そなたは何者だ?」
尚子は、少女から目を離すことなく問う。
少女は答えない。
「あの村の者か?」
再び問う。
「――――」
少女はこちらの質問に答える気がないようだ。
とたんに、少女の美しさが恐ろしいものに思えてきた。尚子は、食道と胃のあたりをすーっと氷水が通ったような、そんな寒気を感じ始めていた。
少女は、いっさい瞬きをせず尚子を凝視したまま、静かに足を前に進めた。
「!」
尚子は目を見張った。
すー、すー、と足を繰り出し、少女は近づいてくる。
「う、うあっ! 歩いてる!!」
その少女の様子を指差し、小春丸が腰を抜かした。
無理もない。尚子だってその場から逃げ出したいほど驚いている。
なぜなら、少女は泉の水面の上を“歩いて”いた。
だか、その驚きよりも、少女の視線が、まるで金縛りにあったかのように尚子の足を動けなくしていた。
(な、なに……?)
少女は、異常なほど自分だけに関心を示しているのが、はっきりと見てとれる。
関心。
興味。
そんな、なま易しいものではない。
感じる――。
全身の肌がびりびりするほど感じる。
隠す気もない、まるで獲物を見つけた獣のような――これは殺意だ。
逃げろ。
逃げるべきだ。
尚子の全身の毛が逆立つようにして、危険を告げていた。
少女が、また一歩、前に足を出す。そのたびに、水面が波紋を作った。
尚子の喉がなる。
「おまえ、泡雪を殺したのか?」
少女は言った。
微かに少女の目が妖しく光ったような気がして、ぐっと息を止めた。次の瞬間、少女は、どうやったのか、あっという間に尚子のすぐ目の前へと移動した。
突然のことに、尚子は悲鳴をあげることもできずに、ただ、驚きに目を見張った。
すぐに、その驚きは芽生えていた恐怖を増長させ、自分ではどうすることもできない震えが指先を襲い始める。それでも懸命に少女を見据えた。
相手から目をそらしたら敗けだ。そんな自然界の掟に本能的に従っていた。
「間違えない。おまえから、泡雪の匂いがする」
一瞬何を言われたのか分からなかった。完全に恐怖に支配された脳は、うまく働いてくれない。ただ、その場にへたれこみそうなのを必死に耐えていた。
「……あ、泡雪……?」
やっと出た声は、勝手に上ずる。
「殺したのか?」
言いながら、少女の琥珀色の瞳が徐々に上昇していった。自然に尚子の視線もそれを追う。ついに尚子の顔の高さと少女の顔の高さが揃う。
少女の背が急激に伸びたのではない。少女は空中に浮いていた。
尚子は背中を嫌な汗が流れていくのを感じた。
(ア、アヤカシか……!)
ごくりと尚子の喉が鳴った。
「それにしてはおかしい。おまえに、それほどの力があるとは思えない。どういうことだ?」
「……」
妖しげに輝く琥珀色の瞳が、尚子の体中を舐め回すように上下に走る。生きたまま切り刻まれ、その肉片の一つ一つ、細部まで覗かれているような気分だった。
最後に、少女の瞳が、尚子の怯える瞳を捉え、微かに赤く光った。
全身が瞬時に氷つくような殺気に、尚子の心臓が飛び出そうなほど、強く脈打った。
――喰われる!
そう思った。
人間によく似たこの美しい異形のモノは、彼女の縄張りを侵した自分を喰らいに来たのだと思った。
瞬もできないほどの緊張――。
息の仕方も思い出せずにいると、意外にも、少女は、すーっと目をそらした。
「――立ち去れ」
それだけ言うと、こちらに背を向けてしまう。
「えっ……」
訳がわからず、尚子の目が泳ぐ。
「――――泡雪は朧が唯一、認めた相手。ゆえに、おまえを生かそう」
「ま、待てっ!!」
少女がそのまま消えてしまうような気がして、尚子は慌てて引き止めた。少女は少しだけ尚子を振り返った。
「……何のことだかわからない! 泡雪とはなんだ! 朧とは───」
「――立ち去れ」
ふわりと風が巻き起こった。尚子の長い髪が揺れる。
まるでその風に、かき消されたかのように、少女の姿は消えていた。そこに確かに存在していたという事実さえ、残さぬように――。
ふいに、どこかで鳥が囀ずった。
柔らかなそよ風に、木漏れ日が揺れた。
明らかに、泉は日常を取り戻していた。
「――――」
緊張のあまりからからに乾いた口の中を潤そうと、唾を飲み込もうとしたが、唾なんて出てきそうにない。
(助かった……のか?)
ほっとした。
ほっとしたら、体中から力が抜け、へなへなとその場にへたれ込んでしまった。
ほぼ同時に、背後でドサッという音が聞こえた。小春丸も腰が抜けたらしい。
────『泡雪は朧が唯一、認めた相手。ゆえに、おまえを生かそう』
“生かす”いうことは、やはり、あの娘は自分を殺そうとしていたのだ。
体中を無数の羽虫が這うような悪寒が走る。
脳裏に焼き付いて離れない、あの琥珀色の瞳。
あの少女はきっと、アヤカシに違いない。あんな妖しい色の瞳を持ち、宙に体を浮かせる人間を、尚子は知らない。
尚子は少女が先ほどまで立っていた場所を見やる。足跡一つ残されていない。
唯一、残されたのは、少女が自分に投げかけた言葉。
――『泡雪を殺したのか?』
少女の声が、生々しく思い出された。
(泡雪……誰なんだ……)
尚子は、じっと、泉の対岸を見つめたが、答えは返ってくるはずもなかった。