・1・名誉の負傷
1 名誉の負傷
尚子は、背中にひやりと冷たさを感じた。太い柱だ。尻餅をついた姿勢のまま、必死に後ずさりしていたが、それももう出来ないと悟る。これはまずい。
「ま、まって、小次郎落ち着いて……」
四つんばいになり、じりじりと距離を詰める男の目は真剣そのもの。まるで飢えた獣のように、ゆっくり、確実に、近づいてくる。その間合いの詰め方が、尚子に逃げ道のないことを思い知らせた。
「将門だ。将門と呼べといったろう」
また少し、男の顔が近づく。
尚子の喉がごくりと音を立てた。
「もういい加減、観念しろ。そう簡単に俺から逃げられると思うなよ」
男はぞくりとなるほど、低い、心地よい声で言った。
「こ、こんなことしている場合じゃないだろう?」
「こんなこと? まだなにもしてないが、例えばこんなことか?」
男はニヤニヤとしながら、片手を尚子の胸元へ伸ばそうとする。
「い、いやっ!」
慌てて胸元を両手で隠す尚子。鼓動は勝手に早くなる。
「ほぅ……」
しばらく宙でぴたりと止まったままの男の手が、ふたたび尚子の頬へと伸びていく。
尚子はこの時、男の顔から笑が消えたことに気がつかなかった。
「なかなか上手く煽ってくれるじゃないか」
男がまた少し前進して、今にもお互いの鼻が触れそうな距離になる。男の熱い息が唇にかかる。
ち、近い!
このままじゃ……。
身の危険を感じた尚子は両手で力いっぱい男の胸を押して、突き飛ばそうとした。
「煽ってなんかなっ────」
が、既に遅い。乱暴に男が、尚子の唇を奪った。
「んんーーっ!!」
もがいても、両肩を男にがっちり押さえられ、びくともしない。そればかりか、唇から流れ込む男の情熱に、体がしびれて動けない。あっという間に、全身から力が抜けていき、頭が真っ白になっていく。
だめ。
このままじゃ、何も考えられなくなる。こんなことしている場合じゃないのに……。
手放しそうになった正気を、必死に呼び戻し尚子は顔を背けた。自由になった口から悲鳴が上がる。
「いやっ、こ、小次郎っ!!」
「将門。わからんやつだなぁ~」
再び自分の口を塞ごうとする男の唇を、いやいやをしながら避ける。
だが、往生際が悪いな、と言いながら男は尚子の両手首を掴み、背後の柱へ押しつける。
「わかった、わかったからっ!! 待って話を聞い────んんっ……」
文字通り尚子は口をふざがれた。長い口づけに、尚子の腕から力が抜ける。それに気づき、顔を上げた男は、頬を真っ赤に染めた尚子を満足に見下ろした。本当に嬉しそうに。
「お前は俺のものだ」
男が耳もとで囁いた。どんな女性が聞いても、一瞬で陥落するような声で。
百戦錬磨のこの男は、自分の声がこの手のことでは大いに戦力になることを知り尽くしていた。だから、得意げになって男が、尚子の顔を再び見下ろすのは当然といえば当然だったかもしれない。
が、男は相手が尚子であることを再認識すべきであった。
ぶちん。
「……え?」
尚子は完全にぶち切れていた。その音が部屋に響きわたってもおかしくないくらい盛大に。
「私がいつお前のものになったーーーーっ!!??」
尚子の叫び声と共に、強烈な蹴りが男の股間に炸裂する。声も出せずに悶絶する男の手を振り払って、尚子は立ち上がった。
「真昼間から何考えてんだ、大馬鹿野郎ーーーーっ!!」
尚子は怒りのまま吐き捨てると、大股で部屋の入り口まで行き、力の限り木戸を押し開ける。
派手な音と共に開かれた扉――――その扉の向こうに、背の高い男の姿が現れ、尚子は思わず息を飲む。
「…………」
冷ややかにその男は、尚子を見下ろす。その視線の意味を尚子はまだ感じ取ることはできない。だが、その男の瞳に、好意とは真逆の感情が含まれていることは分かる。
「よろしいですか。殿にお話があるのです」
目の前の男は抑揚のない声で言った。
自分はこの男に嫌われている。でもなぜか分からない。
初めてあった時から、なぜか彼は自分に対して激しい敵意を見せた。尚子にしか分からないように。それとなく。
なぜ、こんなに嫌われているのだろう。まったく検討がつかない。
だって、まだ、出会って間もないのだから。
「…………待たせたのなら、すまない」
尚子は搾り出すように言うと、道をあけた。男はちらりと尚子に視線を送るだけで、部屋の中に入っていった。
「殿、失礼いたします」
男は尚子を振り返り、尚子に部屋の外へ出ることを無言で促す。
「……何をされてもかまいませんが、殿の手を煩わすことはお控え願います。では」
言い返す間も与えられぬまま、部屋の木戸が閉められた。
苦々しい後味の悪さだけが尚子の口の中に広がっていく。
何もできない。
今の自分は、ただ飯ぐらいの厄介者。
何の力にもなれない。
自分だけ。
「…………」
尚子はくるりと木戸に背を向けた。
いいんだ。
たしかに自分にはできることは少ない。でも、その出来ることをするだけだ。誰に何を言われたとしても。
それが今の自分なのだから。
それが愛する男に、今自分ができることなのだから。
男は木戸を閉め、小さく、本当に小さく息を吐いた。だが、彼の主はすぐにそれに反応する。
「どうした、好立」
「いえ、さしたることではありませ──」
男──文室好立は部屋の中央で『くの字』になって小刻みに震えている主を見て、ぽかんとなった。
「何してるんですか?」
「め、名誉の負傷……」
好立は、今度はわざとらしくため息をついてみせた。またこの男は、あの娘をからかっていたのだな、と思ったからだ。
あの娘は、なにかと政治に興味をもち、女官や家臣たちに国勢を聞いて回っていると聞いている。
今回はどんなことを、問い詰められたのかはしらないが、この男は話題を変える口実として、あの娘を口説いてからかっているのだろう。いかにも、主のやりそうなことだ。
実際はどちらが口実だかわかったものではない。誤魔化すのが口実で、ただ何も知らない生娘を面白がってからかっているだけではなかろうか。
まったく、こんなことがいつまで続くのか。頭が痛い。
「……出直しますか?」
「いや、いい……」
「そうですか。それにしても、なんとかなりませんか」
「じゃじゃ馬のことか?」
あえて肯定せず、好立は続ける。
「美姫ならこの田舎にだって、いくらかいましょう。なんだって、胸だか腹だかわからないような子供を相手にされてるのですか? まったく……愛玩動物だとしても最悪だと思うのですがね。もう少し躾てもらいませんと、女房(※女官のこと)たちもお手上げ状態ですよ」
「そうか、それは困ったな」
将門はからからと笑った。ちっとも困っているように聞こえない。むしろ、実に楽しそうだ。
これは、何を言っても無駄だな、と好立は悟った。それで、またまた、深い深いため息をつくことになる。
そういえば、このところの自分は、ため息をついてばかりだ。
あの娘が、この滅びかけた国、下総に来た、あの日から────。