・2・最強の男
2 最強の男
さすがの尚子も、落胆するしかなかった。
「ほらぁ~、だから何にもないって言ったじゃないっスか!」
主人に対する不満を飲み込むという慎みの心を全く持ち合わせていない男が、尚子の背中にため息を吐きかけてきた。
「…………」
尚子も返す言葉が無い。
細くとも、なんとか続いていた道は、ついに行き止まってしまった。馬で進めるような道は無い。そう、馬では。
黙ったまま、なおも前方を見つめている尚子に、小春丸がたたみかける。
「まさか、そのケモノ道を進もうとか、ホザきなさるんじゃぁ~ないでしょうねぇ~。まさかね~、だって馬どうするんです? 放置ですか? そんなことしたら、あっという間に山犬だとか、山猫だとか、熊だとか、そらもう牙も爪も、ぴっかーんと光ってるような恐ろしい――」
「まだ行ける」
まくしたてる小春丸を一言で尚子は黙らせた。そして、迷うことなく馬から降りると、小春丸を振り返る。小春丸は文字通り言葉を無くして、口をパクパクとさせていた。
「なんだ? いやならば、お前はここで待っていてもいいぞ」
「あ、本当ですか? な~んだ、それならどうぞ、ご勝手に行っちゃってください」
「うん。夕暮れまでに帰ってこなかった、一人で屋敷に帰ってていいから」
「承知しました。一人で帰ります――――って、そんなわけいくわけないでしょうがっ!! 姫さまを一人で置き去りにして帰ったなんて、殿様に殺されます。ええ、そらもう、ボコボコにされてギッタンギッタンに切り刻まれて、鳥の餌にされちゃいますよっ!!」
「あはは。まさか、そこまではしないだろう」
「いやいやいやいや!!」
突然、小春がは大きな声で尚子の言葉を全否定したので、尚子はびくっとなった。そればかりか、小春丸は、ひょいと馬から飛び降りて大股でこちらに歩み寄ってくる。どうやら、ずいぶんと腹にため込んでいたらしい。
「姫さまは、あの殿さまを全然わかってないっ! 確かに、ぱっと見、爽やかで男前で、腕も立つからモテモテですけどねぇ、あんなドS男は見たこと無いっスよ」
「モテモテ? どえす?? 初めて聞く言葉だが、下総の国言葉か?」
「てゆーか、姫さま!!」
パチクリと、目を丸くする尚子の肩に、がしりと両手を置いたかと思うと、真剣な顔になって小春丸は言った。
「は、はい」
「悪いことは言わない!! あんなエゲツナイ男はやめて、国に帰んな。何も苦労してまで、ドS男の餌食になることないって!」
「え、エゲツナイ?」
「まったく、ほんと納得いかないんだよね~! なんだってあの男ばっかりいい女が寄ってくるかなぁ~? 金か? 権力か? 結局、女ってのは、そういう分かりやすいものに弱いんだよなぁ~。たく、俺だって好きこのんで貧乏な馬番やってるわけじゃないっつうのっ!」
「……こ、小春丸?」
「ああん?」
「お前……いったい、小次郎に何されたんだ?」
それまで、どこで息継ぎをしているのかと心配になるほどしゃべり散らしていた小春丸の口が、とたんに動かなくなった。
「…………」
「…………小春……丸??」
「……………………」
ついに、小春丸は何かおぞましいものが地の底から這い上がってくるような、深く重たいため息をひとつ吐いた。
「わ、悪かった。もう聞かない……聞かないから、もう思い出さなくていいぞ……」
「ご配慮、痛み入ります……俺、姫さまに、な、ら、お仕えできるような気がしてきました。あんまり姫さまが優しいので、俺、できる限りお供しちゃおうかな、とか思っちゃいました、今……」
心なしか、『なら』が、えらく強調されているように聞こえたのは、尚子の気のせいだろうか。
「それはよかった。じゃあ、先に行こうか」
「それは、また別の話っス。さあ、帰りましょうか」
「お前、なかなか面倒なやつだな」
そして、なんか話していると、若干の苛立ちと疲れを感じる気がする。でもどこか憎めないのは、正論を述べているからだろうか。それとも、小次郎にさも酷い目にあわされたのだろうという同情心からだろうか。どちらにしても一筋縄でいかない、心のつかめない男であることは確かだ。
とその時だった。
(――!)
尚子は、はっとした。
「良く言われます。ついでに、なかなか使える奴だなとも言われるっス。だから期待しちゃってくださいね――って聞いてます?」
「今何か聞こえなかったか?」
「だーかーらー、俺ってば、なかなか使える男だからー……もがっ」
再び小春丸が何かほざこうとしたところで、「ちょっと黙ってろ」と、尚子の手が小春丸の口を塞ぐ。
と、同時に尚子の全身を、ざわざわと波立つような悪寒が走った。
(……何か――いる!?)
カサカサと草木が騒ぐ。注意してみれば、二頭の馬もどこか落ち着かない様子で、耳をピクピクと動かし、周囲をうかがっているように見えなくない。
(野犬?)
小春丸も何かを感じたのか、周囲に視線を走らせている。
次の瞬間。
「――――!!」
尚子は、はっきりと聞いた。悲鳴だ。
「こっちだ!」
弾かれたように、尚子はけもの道へと駆け出した。
今のは絶対に悲鳴だった。若い女性の、死に瀕したような、恐怖に満ちた、助けを呼ぶ声だった。
「あ、ちょ、姫さまっ!」
後ろから、小春丸が付いてくるような気配もあったが、構っていられない。伸び放題になっている、草や枝を掻き分け、必死で進んだ。勝手に奥歯に力が入る。
(もう、誰も――)
この手からこぼれおちてしまった、守れなかった村人たちが尚子の頭をよぎる。
尚子と一緒に、笑い合って過ごしていた故郷の民は、一日にして盗賊に命を奪われてしまった。何もできなかった後悔が。なんの力もない自分の無力さが、今も尚子の心に深く刻み込まれていて、何かの拍子にこうして何度も何度も、あの日の記憶に引き戻されていく。
真っ赤な血の海に沈む、動かなくなった村人たち。
人も、家も、人々の希望さえも、全てを炭へと化した恐ろしい炎。
(もう二度と――誰も失いたくない)
不意に視界が開けた。尚子の目に飛び込んできたのは、一匹の山犬に追い詰められて今にも噛みつかれそうになっている若い娘の姿だった。
「――っ……」
娘が尚子に気付き、唸りながら牙を剥く山犬から、一瞬目をそらしたその瞬間、山犬が娘に飛びつこうとするのを感じ取った。尚子はとっさに叫んだ。
「やめろっ!!」
とたん、山犬がビクリと体を震わせて硬直させたのが、はっきりと見て取れた。そして山犬は、まるで雷に打たれたかのように、固まって動かなくなった。
いまだ、と尚子は、山犬と娘の間に自身の体を滑り込ませることに、なんとか成功する。
「…………」
山犬と尚子の静かな睨み合いが数秒続いた。
秋風がすぐ近くの木を揺らし、サワワと囁いた時、勝負は決した。
(――!!)
なんと、山犬がその場で頭を垂れ、伏せたのだ。いったい何が起きたのだろうか。
これでは誰が見ても、尚子の目の前にいる山犬は、尚子の命を待つ忠犬にしか見えない。
(――いったい、どうなっているんだ?)
尚子の脳裏で、先日の牧場で起きたことと、今のこの状況が重なって見えた。あの時も、尚子の言葉に馬たちが一斉に動きを止め、命令に従ったのではなかったか?
「お~い、姫さま? どこですか~い、っと」
と、なんとも気の抜ける男の声が、その場の空気を一瞬にしてぶち壊した。尚子も、ズルリっとずっこけそうになるのを必死でこらえる。
「……小春丸、こっちだ」
山犬から目をそらさずに、小春丸を呼んだ。間もなく、ある意味、無敵な男がひょっこりと、姿を現わした。
「うん? 何してんです? うわ、何、その犬! でかっ、こわっ……というわけで、じゃ俺はこの辺で……」
「オイこらっ! ちょっと待て、どこへ行く!」
と、今登場したばかりだというのに、すっと踵を返して、さっさと撤収しようとする、これまた、ある意味強気な男を慌てて尚子は引き止める。
「いやだって、姫さま。俺ってば、頭脳派で、肉体労働はお呼びじゃない、ていうか無理? そもそも丸腰だし俺。まあ、剣とか弓とか持たされたところで、使えないけど」
「いいからっ!! 黙ってそこに居ろ!!」
「あ、そうなの? 見てるだけなら、かなり得意っスよ。俺の得意技かも、みたいなー?」
「…………」
「でもこの場合、見てるだけって、いないのと同じじゃ?」
尚子は思わず、ギロリと小春丸を睨みつけた。
「……黙ってろって言うのが聞こえないのか」
「へ~い。……あっ、でも」
「もう、うるさいっ!! ちょっとでいいから黙ってろ」
「いや、でも姫さま?」
「だからーーっ!!」
「……犬いないっスよ?」
「――!?」
言われるままに視線を前方に戻すと、忽然と山犬は姿を消していた。
(本当だ……いない……)
もう、気配すら感じない。
いったい、どうなっているんだろう。
何が起きたというのだろう……?
(でも、もう気のせいだとは思えない。あんなの二回も起こることじゃない。あの犬と馬たちが特殊である、偶然、特殊であるとは考えにくいし……)
尚子は、しばらく静かに、山犬が先ほどまで鎮座していた場所を見下ろしていた。その横で、高らかに『最強』男は笑う。
「俺ってそんなに威圧的に見えたんスかね? 明らかに俺を見て、尻尾巻いて帰りましたよ? いや~、俺何にもしてないんですけどね~、はっはっは」
この日、確実に尚子の中で、『最強』の定義が書き換えられたのは、言うまでもない。