・1・祟り村
1 祟り村
「どうかされましたぁー?」
その一言で尚子は我に返った。自分は、また牧に見惚れていたのだな、と小さな笑みがこぼれる。
声をかけてきたのは、尚子と同じくらいの年齢の男、小春丸だった。先日から、どこへ行く時も、へらへらとした笑みを浮かべて尚子の後をついてくる。その表情が、どこか軽薄な印象を与えていたが、悪い男ではなさそうだ。受け答えに、心がこもっていない点を除けば。
それにしても、将門には舌を巻く。はじめは、どうしてこんなにひょろひょろっとした頼りなさそうな男を自分の護衛に付けたのだろうか、と眉をひそめたものだ。
だが、すぐにこの男の特性に気づかされた。カンがいい。頭の回転が速い。だから、臨機応変に動き回る。特に、苦を回避すること、手を抜くことにおいては、驚くほど知恵が回るらしい。
使い方次第だな、と尚子は思う。そして、使いこなせるだろう? という小次郎の憎たらしい顔も見え隠れする。
それに、このあたりは馬無しでは何もできない。だから、尚子はどこへ行くにも、まず厩に寄る。
と、当然そこで目付役の小春丸に見つかる。つまり尚子の見張り役として、馬番が適任ということだ。
「どうもしない――――いくぞ」
「へいへい」
尚子は馬の頭を北へ向かせ、腹を蹴った。
「――で、今日はどちらへ? まさか、また集落廻りですかぁー? 勘弁してくださいよぉ」
もううんざりだと、こちらまで脱力しそうな声で小春丸が訴えてきた。
「……」
尚子は返す言葉を懸命に探してみたが、無理だった。
よく考えれば、初めてかもしれない、と尚子は思う。これほどに、自分の伴を嫌々行う者を見たことがない。
上総に居た時、“姫様”として自分に使えていた従者も女官たちも、皆、それは渋々だったこともあっただろうが、決して顔には出さなかった。誰一人として、だ。
それなのに、この下総に来てからというもの、仏頂面の冷血漢、文室好立を筆頭に屋敷の者の反応が薄い。まるで尚子がそこに存在しないような振る舞いをすることだってある。
自分に対してだけ、つれない。そう感じる毎日だった。
が、それでも、彼ほどはっきりとした“なんでこんな女のお守を自分がしなきゃいけないんだ”という態度で尚子に接する者はいなかった。
でもどこか憎めないのはなぜだろう。少しだけ考えて、尚子は一人納得する。
(自分がごまかせないのかもしれないな、この男)
言葉と腹のうちが違うよりもずっといい。今の尚子には、清々するような気持ちすら湧いてくる。
(このくらい思っていることが顔にでる男の方が、今は気が晴れる。誰も私に本当のことを言おうとしないからな)
邪魔だ。
なんで下総にいる。
とっとと帰れ。
屋敷の人の笑顔の下に、そんな言葉が隠されているような気がしてならない。
「今日は、牧からもっともっと東北へ向かう」
尚子は自分の下向きな気持ちを振り切るように、遠くに見える山を指差した。かなり大きな山だ。その山を中心に未開の森が広がっている。樹海と呼ぶにふさわしい。
「向こう……ですか」
明らかに嫌そうに、顔をひきつらせると、小春丸はがっくりと肩を落とした。
「遠いし、あっちは何もないっスよ。それに、あの山の方は殿さまの領地じゃないですぜ。行くならもっと西とか南にしましょうよ。遠出がいいなら、相馬なんてどうです!?」
森とは反対側の南の方角を指差しながら小春丸が早口で言いたてる。どうにかして尚子の気を変えようという作戦らしい。
「相馬……?」
相馬という言葉に尚子が反応したので、小春丸は顔を輝かせた。だが、尚子の顔はなかなか晴れない。
(相馬……小次郎の母君のご実家があったはずだ)
「そうです! 殿さまは相馬の方の守谷というとこにもお屋敷がありますよ!」
「そうなのか?」
「殿さまの母さまがそちらにお住まいのはずです。そちらは香取の内海が近くて、ついでに船でも見てきましょうよ! ねっ! ねっ!!」
前のめりになりながら小春丸が尚子を覗き込んでくる。
「……船か」
当時、現在の利根川下流、霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼などが、広大な内海となっていて、『香取の海』と呼ばれていた。もちろん、尚子は上総のお屋敷近辺しか出歩けなかったので、海を見たことがない。大きな商船や交易船を見てみたい。そんな誘惑に駆られる。
「それに――」
わざとらしく言葉を切って、小春丸が意味深なため息を漏らす。迷いが見え隠れする尚子に、だめ押しをして心変わりさせようという魂胆だろう。
「あの辺には、昔から犬神様が住むって有名なんですわ。人が足を踏み入れればタタリが起きるっていう言い伝えがあるんです」
「タタリ?」
「そうなんですよ。あのあたりの土地は肥えてて、殿さまを含めて、ここら一帯の豪族は皆狙ってるんです。でも、未だに誰も手に入れることができないでいる。なんでだと思います?」
尚子はあえて返事をせず、小春丸に続けるように促した。
「それは、言い伝えのせいです。祟り村の話しりません?」
「祟り村……?」
「オイラも大ババ様に聞いた話です。大昔、あの森の入り口にある村の男が、森の木を斬り倒して田んぼにしようとしたそうです。ところが、突然の疫病になり死んでしまった。そればかりか次々に村人に疫病が感染しはじめ、ばったばった、と死に始めたから、さぁー大変」
尚子はその凄惨な村の情景を想像して、思わず眉をひそめた。それをうけて小春丸の語り口調にますます熱が入る。
「このままでは村が全滅すると思った村長は、犬神様の怒りを沈めるために若い娘を生け贄に捧げたそうです」
「それで、疫病はおさまったのか?」
「そうなんです! 生け贄を捧げた次の日、疫病はコツゼンと姿を消したそうです」
たった一日で疫病が終息するとは考えにくい。きっと人伝の上、尾ひれが二、三枚ついているのだろう。
それよりも、尚子には気になることがあった。
(肥沃な土地――それを手に入れることができれば)
今まで誰も手にすることができなかった、未開の土地を開拓できれば、米の取れ高は増え、必然的に国力増加につながるはずだ。
どうにかして、手に入れる方法はないだろうか。
(いや、まずは使える土地か視察するのが先だな)
静かに、ひとり結論に達した尚子は小春丸に声をかけた。
「その話は、何年前のことだ?」
「知りませんよ、そんなこと! とにかく、そんな恐ろしい森に行くなんてやめましょうよ」
「つまり、そうやってほとんどの人が噂を信じて、あの森に手を付けずにいたわけだな」
「だって、だって、犬神様ですよ!! 祟りですよ!! そらぁ~うちの殿様だって、やめとけって言うにきまってるじゃないですかっ!! さ、さ、帰りましょうっ! ええ、帰りますとも!!」
尚子は小春丸を振り返る。そして、擦り切れるのではないかと思うほど、手をこすり合わせる小春丸に、にっこりとほほ笑みかけた。
「小春丸、いいことを教えてくれた。森に行くぞ」
「ええ~!! 今の話の流れだと、どう考えても行かない方向ですよね。恐ろしいから、やめましょう。そういう方向ですよね。なのに、なんで真逆の結論になるんですぅ? さっっっぱり理解できないなぁ~~」
「お前の言うように、村の疫病がおさまったのなら、今もちゃんと村は存続しているかもしれないだろう?」
「そんな在るか無いか分かんないような村に何の用があるっていうんです?」
「グダグダ抜かすな、男のくせに! ほら、行くぞ!」
問答無用で尚子は馬の腹を蹴った。馬が駆けだす。
小春丸は、がっくりと肩を落とし、仕方なく尚子の後に続くしかなかった。
こうして、尚子と小春丸が乗る二頭の馬は、一列になって小道を進んでいた。
行けば行くほど道は細くなっていく。その両側では広く枝を伸ばした木々が立ち並び、小道から徐々に光を奪い、同時に二人の心に、覆いかぶさるように立ち込める恐怖感が口数を減らしていた。
気がつけば、遠くに見えていても大きく見えていた山が、今では二人を威圧的に見下ろしているかのようだ。
もう、どのくらい来ただろう。
人の住んでいる気配などいっさい感じられない。
「もう帰りましょうよ~」
後ろからついてくる小春丸の懇願を尚子は一瞥で切り捨てる。
少々、川から離れていくが、奥に行けばいくほど高台になっていくようだ。もう少し進めば、嵐の時も洪水を免れることができる魅力的な土地にたどり着くかもしれない。それに、小春丸のいうように、そこが肥沃な土ならばこれを見逃す手はない。
「もう少し道なりに行こう」
そう言ってからふと思った。
(そうだ、道!)
道があるということは、そこを通る者がいるという証拠ではないか。どうして気がつかなかったのだろう。
村があるのだろうか。
その疫病で滅び損ねた、古い古い村が。この道の向こうに。
(……もしその祟り村があったら、それならそれでいいじゃないか。人手だって欲しい。小次郎の力になってもらうように、説得すればいいだけだ)
自分に言い聞かせるように尚子は心の中で呟いたものの、口の中がからからに乾いていることは隠せない。
緊張しているらしい。
カサカサと風に揺れる葉が奏でる乾いた音が、ますます尚子の恐怖心を煽っていった。
◆◇
匂う。
少女はぴくりと眉を動かした。
この匂いには覚えがあった。忘れようと思っても出来ない。
だが、ありえないことだ。
どう考えてもありえない。
「どうした?」
後から声がした。驚きを顔に出すことなく、少女は視線だけ動かす。すると、いつの間にか背後にいた長兄が心配そうに少女を覗き込んできた。
表情に出した覚えはないし、そもそも背後からだというのに、長兄は妹の僅かな心のさざなみを敏感に感じ取ったようだ。
いつも長兄は少女を気にかけてくれている。それは分かるが、時にはそれが息苦しく思うこともある。だが……。
(…………)
一人で泉にくることも出来ないとは。ゆっくり水浴びを楽しもうと思っていたのに。
少女はうんざりしながら答え、泉から上がる。
「なんでもない」
軽やかな水音が、水面を流れるように跳ねた。日の光が波紋を滑り、キラキラと光りながら少女の透き通った肌を撫でていく。
「この匂いのことか?」
長兄の低い声に少女の瞳孔がかすかに広がった。
(やはり……)
長兄も気がついていたのか。ならば、気のせいではなかったようだ。
少女は兄を振り返ることなく、衣服を身につけた。するすると布が少女の肌の上で鳴く。
が、すぐに少女の手が止まった。
また誰か来た。そう悟った少女は、ふうと息を吐かずにはいられない。
「泡雪であるはずがない。妖気も気配もないのに、匂いだけなんてどういうことなの?」
長姉の声だった。
少女は、また過保護なのが現れたと思ったが、すぐに意識はだんだんと強くなる匂いのほうへ持っていかれた。
「近づいてくる」
少女たちは一斉に、南西の方角を向いた。目を凝らしたところで、深い森の向こうに何が見えるというわけでもない。
「あの山猫を食い殺した妖か? それならば匂いがついていてもおかしくはあるまい」
「それには、妖気を感じない。泡雪ほどの妖を狩れる妖ならば、何かしら気配を感じるはずだもの」
姉が腕を組み直しながら、兄に反論した。
「いや、それほどの妖ならば、我らに悟られぬように気配を殺すことなどたやすいだろうよ」
「……そんな……まさか朧を……」
姉の声が震えたような気がした。一呼吸置いて兄が口を開く。
「ああ。朧を喰らいに来たのかもしれないな」
兄が唸るような声でそう言うのを聞きながら、少女は思った。
本当にあの泡雪が死んだのだろうか。
「泡雪を殺せるほどの妖……」
少女の静かな呟きに、兄と姉が少女を振り返る。
そんなものが存在するのだろうか。
あの森に住まう、大きな大きな猫の姿をした────幻覚を操る妖。恐怖や快楽で、どんな生き物も支配することができる。何百年生きる少女たちの母が、唯一苦戦した好敵手。いや、友と呼んでもよい相手なのかもしれない。
そんな強大かつ聡明な妖に勝るものが、本当にいるというのだろうか。
「行こう」
兄が少女を促す。少女は返事をするかわりに、兄を振り返った。
ふいに強い風が周囲に巻き起こり、木々がざわめく。その風の力を借りて一枚の葉がひらひらと舞い、波立つ泉の水面に静かに着水した、その時――もう、その場には誰も居なかった。