・6・宝の山(3)
尚子は自分の心が凍りつく音を聞いた。
頭から、いっきに血の気が引いてく。
暗闇の中、几帳の上に顔を出したのは、尚子の想像していた女官ではない。明らかに男性だった。
「――――……」
その姿が、いっきにあの赤い月夜の出来事を呼び覚ます。みるみるうちに、尚子の脳裏でその几帳の男性の影と、あの男の顔が重なっていく。
あの男。
憎らしい、あの男。
扶────!!
「あ……っ……」
尚子は小さく声を上げ、ガタガタと震えだした。そして、あっと言う間に、悲鳴を上げるどころか息をすることすらできないほどの、強い恐怖に飲み込まれていった。
まるであの日を再現している感覚にとらわれる。
あの男の手が、尚子の体を無理やりに引き倒し。
着物を剥ぎ取り。
馬乗りなって。
ざらりとした不気味な舌で。
尚子のやわ肌を、心をぼろぼろに犯していく────。
(いやああ、助けてっ!! 助けてーーーーっ!!)
何か様子がおかしい。将門はそう思った。
「尚子?」
将門の声がかすれる。気づけば、喉がからからに乾いている。
返事がない。
油さしの小さな明りでは尚子の表情がここから確認できない。小さなさざ波を心に感じながら、ゆっくりと足をすすめ、寝具に座りこむ尚子の隣に腰を下ろした。
「尚子?」
やっと確認できた尚子の顔は、完全に凍りついていた。
(俺が何をしに来たかわかったってことか? そんなに緊張するなよ……)
心の中で独りごちながら、将門の顔に笑いがこぼれた。
この屋敷に尚子を連れてきてから、尚子が自分を男として意識をしている印象がなかったので、若干焦っていたところもあった。でも、こんな尚子の様子を見れば、尚子には申し訳ないとは思いつつ、ほっとする。
「尚子……」
尚子をなだめようと、そっと手を伸ばそうとし、はっとする。
(──泣いてるのか……?)
一瞬、そんなに自分と夜を明かすのが嫌なのか、と思ったが、すぐに、明らかな異常を尚子から見て取った。
がたがたと大きく震える肩に、虚ろな瞳は見開かれ、大粒の涙がぽろぽろとこぼれていく。
これは、明らかな拒絶。一つ救いなのは、自分を拒絶しているのではないということ。なぜなら、尚子は先ほどから自分を一度も見ようとしない!
「尚子……どうした?」
将門は、尚子を覗き込む。
ゆっくりと尚子の焦点が自分に合ってくる。
「あ……」
「そうだ、俺だ。わかるか?」
「小次……郎……」
後から後からあふれてくる涙に、尚子は上手く言葉が紡げない。
「そうだ、俺だ。俺だから、落ち着け。泣くな」
「ほんとに……小次郎?」
(なんだ? 誰だと思ったんだ?)
思わず聞き返しそうになった。だが、まずは尚子を落ちつかせるのが先決だと考え、将門は素直に頷いてみせた。そして、そっと尚子の右手を両手で包む。
「俺だから、安心しろ。どうして泣いてるのか言ってくれ。俺まで泣きたくなってくる」
少しおどけた様子で将門がいうので、尚子はかすかに泣き笑いになる。
「うん……」
「突然、泣きだすから、俺はかなり傷ついたぞ」
「……ごめん、もう大丈夫だ」
将門を安心させようと思ったのか、やわらかに笑って見せた。その笑顔に、将門は心のざわめきを覚える。その不安を払拭させるために、自分も尚子にやさしくほほ笑みかけた。
「もっとそばに行ってもいいか?」
「────」
「お前に触れてもいいか?」
返事がないのを、了承と受け取った将門は、そっと尚子の頬に手をのばす。指先が少し触れたとたん、尚子がびくりと体を震わせた。
「怖いか?」
尚子はぎゅっと掛け布を握りしめたまま、動かない。
(やっぱり……そうなのか? あの男なのか?)
先ほどの胸騒ぎが、将門の脳裏に、あの赤い月夜の記憶がよみがらえせていく。
あの男。常陸の豪族である源護が息子、源扶。
尚子は上総の自分の部屋で、意にそぐわない相手──扶に組み敷かれ、喉から血がでるのではないかと思うほど必死に泣き叫び、助けを求めていた。心が裂けて粉々に壊れてしまうのではないかと思った。それほどの悲鳴に、将門は助け出すことができた自分を褒め称え、間一髪間に合うことができた運命に、心から感謝したい気持ちでいっぱいになったものだ。
だが、尚子はその時にはすでに大きな心の傷を負っていたのだ。全然、間に合ってなどいなかった。だから、こんなに怯えているのではないだろうか。
(俺でも……駄目なのか? 俺も拒絶するのか?)
将門は、胸をぎゅっと握りつぶされたような痛みに襲われる。
「俺はお前に触れていたい。嫌か?」
自分も尚子に拒絶されるのが怖いのかもしれない。自分だって、男だ。このまま尚子の体を自分のものにすれば、尚子は心を失ってしまうのではないだろうか。そんな不安と焦りが将門を幾度となく襲う。
「尚子?」
だが、将門の願いに反し、尚子の瞳から大粒の涙が再び落ちてきてしまう。それを見た瞬間、将門の胸は、どんな矢で打ち抜かれた時よりもずっと、激しい痛みに押し潰されそうになった。
「尚子……泣くな。お前が望まないことを俺はするつもりはない。だから泣くな」
将門は、そっと尚子の腕を引っ張った。尚子のか細い体は硬直したまま、腕の中にぽすりと収まる。ついに尚子は泣きじゃくりだしたので、いよいよ将門はどうしていいかわからなくなった。
「どうした。泣いていてはわからないぞ。言ってみろ」
子供をあやすように、ぽんぽんと背中をさすり、将門は問う。
「俺が怖かったか?」
尚子が首を横に振る。
「俺とこうしているのは嫌か?」
再び尚子は首を横に振る。
少しほっとした。
「じゃあ、嫌なことを思い出したか?」
少し間があって、尚子はこくりと首を縦に動かした。
(やはり――)
やはり、あの晩のことが、心に深い深い傷となっているのだろう。あの男が尚子を襲った状況と、今の状況がどこか酷似していたのかもしれない。あの男は、こうやって夜遅くに突然尚子の部屋へ訪れ、乱暴を働いたのかもしれない。
(くっそう……)
湧きあがる怒りをどこへぶつければよいのか。
(尚子に心の傷を負わせた罪、そして、今この俺の幸せな家族計画を邪魔する罪。どうしてくれようか)
脳裏に焼き付いて離れない、憎らしい男の顔を、どうにか消し去ろうと将門は試みた。だが、消そうとすればするほど、深く刻みこまれていくような気がする。
それにしても、もう一発、股間を蹴り飛ばして、使い物にならないようにぶっ潰してやればよかった、と悔やまれて仕方ない。
将門はすべてを吹き飛ばすように、大きく息を吐いた。
「もういい。今日は何もしないから、こうして枕を並べて朝まで一緒にいよう」
「……?」
そっと尚子から体を引き離し、いたわるような口づけをその瞼に降らす。
「俺はお前と一緒にいたいだけだ。だめか?」
尚子は、じっと将門の顔を見上げた。その大きな瞳に吸い込まれそうな自分を、必死で抑えながら、将門はやわらかくほほ笑む。
それでやっと尚子も安心してきたのか、ひきつった笑顔を見せた。
「誓って、何もしない。な?」
将門は、尚子から、ぱっと手を離し、これ以上は何もしないと強調するために両手を上げる。
「だめか? 俺とは一緒にいたくないか? あ、まて。そんなことはっきり言われたら、俺はぐれるぞ。よく考えて答えろよ?」
冗談交じりに将門が言うので、尚子はついにいつもの太陽のようなまぶしい笑顔になった。そして、ゆっくり首を横にふる。
「私も一緒にいたい」
その笑顔に、将門の心がほんのり温かくなった気がした。それで、十分だと思った。
今は、これでいい。
この笑顔が、自分の生きる理由であり、自分が一番守りたいものなのだから。
「よし、では朝まで一緒にいるとしよう」
が。
どうしたことか、いつもの調子を取り戻した尚子がにやりと笑って言った。
「何もしない、そう言ったよな?」
「な、なにぃ?」
言葉を失っている将門に、尚子はたたみかける。
「男に二言はないよな」
「…………」
「返事」
誰だ、さっきまでめそめそ泣いていたのは。将門は、してやられた気分になりながら、渋々答えた。
「ああ、いいだろう。今日は何もしない! お前が俺を望むまで、助平な気持ちでお前には触れない! これでいいかっ!!」
もう、やけくそだ。腕を組んで、ふんと鼻を鳴らす将門に、尚子は満足そうな笑みを浮かべた。しかし、将門も負けっぱなしで黙っていられる性質ではない。
(最後に笑うのはこの俺だ、わかったか尚子)
にたりと尚子に笑いかける。
「だがな、尚子」
「ん?」
「俺の唇を拒むことは、絶対に許さん」
「え……――わっ!」
将門は、ぐいっと尚子の顎を上に向かせ、唇を奪った。
長い、長い口づけ……。
名残惜しそうに尚子の唇を解放すると、わずかに呼吸が乱れ、ほんのり頬を染めた上、潤んだ瞳で自分を見つめる尚子に、身震いがした。
早くも後悔している。
(何もしない? ……拷問だ)
もう笑うしかない。