・5・牧を統べる者(2)
将門は、屋敷から走らせて馬にまたがり、帰路についていた。背後には尚子の穏やかな息づかいを感じる。
ぽこん、ぽこん、と馬が地面と蹄とで奏でる音とは、なんとも心地よいものだ。落ち着く。
尚子を探して駆けてきた往路とはずいぶんな違いだなと、思わず将門は嘲笑を漏らしたが、その心地よさが馬の蹄の音からくるものではないことに本人は気づいていなかった。
(それにしても──)
将門は怪訝そうに眉を詰めた。先ほどから尚子が口を開こうとしないのだ。
彼は神経を九割がた自分の背後に集中させたが、よくわからなかったので、首をわずかに動かして、なんとか横目で背後を盗み見ることに成功する。すると、尚子は難しい顔でどこか一点を見つめたまま、心ここにあらずという様子。何かを深く考え込んでいるのは明らかだ。何かあったのだろうか。
(まさか……)
さっと将門の顔が曇った。もしや、経明が何か言ったのでは、と思ったのだ。だが、それも一瞬のことで、すぐにその考えを打ち消す。
経明はきっと何も語っていないだろう。助言も苦言もしないはずだ。あの男は、この手のことには口を出さず、むしろ面白がって傍観する性質だ。それは長い付き合いである将門が誰よりも良く知るところである。好立ならいざしらず、経明が尚子にちょっかいを出してくるとすれば、女性としての魅力を感じ、口説き落とす価値を見出した時だけだろう。将門がそうであるように。
(まあ、好立にはきつく、しかも直接的に言われただろうが。あの男は、我が一族至上主義だからなぁ……)
それでも尚子ならば、心をへし折られることなく、自らの力で大輪の華を咲かすことができるだろう。その将門の思いは、もはや確信と呼べるものだった。
だが、と将門は再び緩んだ顔を引き締める。
経明は尚子をどのように扱うだろうか。正々堂々と戦えるだけの情報を与えるくらいは、甘やかすだろうか。それとも、いっさいの手出しをすることなく、我関せずを通すだろうか。
どちらにしても、邪険にしたり、妨害したり、排除するようなことはないだろうが。
(経明は本当に面倒くさがりだからなぁ~……)
おそらく、経明が尚子を過度に甘やかすことは、皆無となるだろう。その上、尚子の身の危険や、降りかかる苦難を想定できても、言わないことがあるやもしれない。なぜなら、将門に対しても、経明は過保護になることはないからだ。
この自分ですら考え得るくらいの危機を回避できない者には従えない。命を預けることなどできない。そう経明は将門に明確に示してくる。言葉ではない。全身で、だ。
今までに何度となく、彼のその鋭い視線で、自分の心の臓を射抜かれたような感覚に襲われていた。
“俺の主であり続けたいならば、それだけの力を示し続けろ。俺はいつだってお前を見限り、他に寝返る。忘れるなよ”──と。
それでいい。そんな時、将門はそう思う。
厳しい顔で自分を監視し続ける経明の存在は、なんとも言えない緊張感を生み出した。
かつては、彼に恐怖心さえ抱いたこともある。全てを見透かされそうで。それに、好立の嫌味よりずっと堪えた。
だが、何より経明が側にいる間は、自分は、まだ大丈夫だ──まだ、“人”であれると思えた。
今にして思えば、自分が自分で無くなり、権力という野心の闇の中に落ちていく恐怖と戦い続けてきた将門にとって、経明の存在は最後の命綱であったのかもしれない。
(それにしても……)
いっこうに表情が晴れそうにない尚子に、ついに将門は言葉を投げかけた。
「良き馬には出会えたか?」
「え?」
まるで自分がぼんやりと考え事をしていたこと自体に、気がついていなかったように尚子が声を上げた。
「経明と馬を選んでいたのではないのか?」
将門は前方を見据えたまま、背中の神経を尖らせる。
「経明は──……」
どこまで話したのだ? という言葉が喉元まで顔をのぞかせたが、必死に飲み込んだ。すると、言い様のない苦みが口いっぱいに広がった気がした。
経明がどれだけ尚子を甘やかしたか、それを聞いてどうしようというのか。自分こそ、経明に甘えようとしているではないか。尚子は自力でもがいて道を開こうとしているというのに。
(……尚子のこととなると、俺もなかなか過保護になるようだな)
今までの女性関係ではありえないことだ。そう自覚し、将門はうっすらと笑みを浮かべた。
「この馬は馬具を付けているんだな」
「馬具?」
将門は、予想だにしていなかった問いかけに、不思議そうな表情を浮かべた。そして、首をひねり、尚子を振り返える。
「この国では裸馬にのると……」
尚子の声は、尻つぼみになっていった。
「ああ、経明に聞いたのか?」
「馬に選ばれる者だけが、乗れるのだと多冶殿が言っていたが……」
なるほど。なんだそんなことを考えていたのかと、将門はそっと胸をなでおろした。
この国で生まれ育った将門にとっては、裸馬にまたがることは日常であるが、尚子にとっては驚くべき事だったのだろう。
「確かに、我が国では裸馬に乗る。父上の教えだ」
「良将叔父上の?」
「父上が以前、陸奥鎮守府将軍であった時だ。多くの蝦夷たちを目にしたという。まあ、蝦夷はかの征夷大将軍によって滅ぼされたとはいえ、まだまだ残党は多く、その反乱も多くあったから、当然といえば当然かもしれないが。その蝦夷たちは、馬たちに馬具をつけず、馬にまたがったまま戦いを挑んできたそうだ」
「蝦夷……?」
「なんだ、蝦夷を知らんのか?」
将門が、にやりと笑った。その顔に尚子が顔を引きつらせる。
「知りたいか?」
「な、なに?」
「知りたいんだろう? 馬に興味があるんだろう? 裸馬に自分も乗ってみたいのだろう? 何しろ、蝦夷は女子供も馬に乗る戦闘民俗だからな」
うっ、と尚子は小さく唸った。
その姿に目を細めながら、将門はふと考えた。そもそも、尚子はなぜ牧へ向かったのだろう。何を思い、何を決意し、何を得るために、あの牧へたどり着いたのだろう、と。
「いいだろう。馬のことも、蝦夷のことも、お前が知りたいことは何でも教えてやる。だが、一つだけ約束してくれ」
「…………な、なんだ」
尚子が、心底嫌そうな顔をした。きっと、自分に相当不都合な条件を出されると思ったのだろう。今日一晩、夜伽の相手をせよ、とか。いや、もちろんそれはそれで申し出るつもりではあるのだが。
「尚子」
すっと将門の顔に笑顔が戻る。
「どこへ行ってもかまわぬ。お前を屋敷に押し込めようとは思わないよ。でも、約束してくれ」
「何を?」
「決して一人では出かけないこと」
尚子の顔が、はっとなった。
「ここは俺の国ではあるが、まだまだ俺も把握しきれていない。屋敷の近くならば良いが、盗賊が出ないとも限らない。お前に従者をつけるから、次からは必ず、その者とともに行動するようにしてくれ」
将門が言い聞かせるうちに、尚子の顔は見る見るうちに叱られた子犬のようになっていった。それがまた、将門には愛らしく映る。もっと彼女のさまざまな表情を見たいという衝動に駆られるのは、何故だろうか。
「わかったか?」
将門が尚子の頭に、ぽんと手を置くと、尚子は上目遣いになった。そして、しぶしぶという表情で返事をする。
なんだか叱られた子犬を見ているような気分になってくるなあ、と将門は内心、舌を巻いた。
「……はい」
「わかればいい。それに、その格好も俺は好きだぞ」
そう言って将門が尚子に笑いかけたので、尚子が瞬時に頬を染める。尚子の姿は、いわゆる男装で、長い黒髪を一つに縛り上げているため、“深窓の姫”からはほど遠い。これでは、どこから見ても元服前の小童である。
「……その、馬に乗るには……この方が都合がいいから」
「そうだな。さっきも言ったが、その姿のお前も、好、き、だ」
わざとらしく、語尾を強めて言うと、尚子がそれに再び反応するように真っ赤な顔で口をへの字に結んだ。
「な、何度も言うな!!」
「好きなものを好きと言って何がわるい」
「わかったからっ!! もう、前を向け!」
「そうか? 本当に分かったのか? 伝わっていないと思うがなあ、俺のこの気持ちは。うむ、そうだ、いい事を思いついたぞ!」
「……いいこと?」
疑心に満ちた尚子の目が、ぎろりと将門に突き刺さった。が、将門は気にしない。
「これから、俺がどれだけお前のことを思っているか、とくと語ってくれよう!! そうだ、それがいい!!」
「はっ!?」
「三日間だ、三日間!! たっぷり、しっかり、どっぷり、分からせてやるから覚悟しろよ。わっはっはっはっは」
将門の高らかな笑い声が青空に抜けた時、屋敷の生垣が二人の前に姿を現した。
不意に尚子の顔が曇る。将門はそれに気が付かず、満面の笑みで馬を進める。
この時、将門はもう一度、考えを巡らせるべきであった。尚子がなぜ馬を欲しがったのかについて。
屋敷の入り口に到着し、馬番が二人を出迎えた。
将門は、ひょいと馬から下りる。爽やかな笑顔で尚子を振り返り、手を差し出した。
尚子の手がそろりそろり、将門の手を取ろうと伸びてくる──が、寸前のところで、止まってしまう。
「どうした?」
「……すまぬ、今日だけは見逃してくれ」
何のことだ、と聞き返そうと思った瞬間だった。
尚子が手綱を奪う。そして、馬を翻す。馬が激しく嘶いた。
「さがれ!」
とっさの判断で将門が馬番に指示を飛ばす。
将門も馬番も、間一髪で馬から離れた。下手をしたら馬の前足の強打を受けたかもしれない。
馬上の尚子の顔にも、二人を気遣うような表情が見えたが、尚子はそのまま馬を巧みに操り、将門に背を向けた。そして、全速力で駆けだす。視線だけは、将門を追うようにしたままで。
「どこへ行く気だっ、おいっ!!」
「夕方までには戻る!!」
将門は、遠ざかっていく尚子の黒々とした瞳を、食い入るように見詰めた。
――逃げるわけじゃない。戦うために必要なことだから。だから、行かせて。
尚子の瞳から、そんな強い意志を感じ取った。だから、将門は、喉まで出かかった制止の言葉を、ぐっと堪えた。
それでも、行き場のない感情が出口を求め、体の中で暴れているのがわかる。
危ないから、行くな。
俺の目の届くところにいろ。
それと同時に、この思いが尚子から笑顔を奪うものであることも分かっている。
だからこそ、胸の奥が熱く激しく煮えたぎる。将門には馴染みのない感情で、ますますそれが彼を戸惑いの渦へと導いていく。
これが、人を思いやるということだと、言われてしまえばそれまでだが。だが、頭で理解できても、それを飲み込めるのかどうか、とは別問題である。
「よろしいのですか?」
振り返ると、いつから見ていたのか、好立の姿があった。
「好立か……」
「あのまま実家に逃げかえるなんて都合のいいことはもう望みませんよ、私も。むしろ、良兼殿が姫を返せと言ってきた時に、もう――」
「好立」
たった一言で、将門は好立の言葉を遮った。さすがの好立も言いすぎたと思ったのか、その表情自体も何か別の思惑があってのことなのか将門には判断が付かなかったが、目を伏せ静かに謝罪の意を示したのは見てとれた。だから、それ以上将門は、追及しない。
好立が何を言いたかったのかはわかる。もし、今後、上総の良兼が、娘の尚子を返せと言ってきた場合、尚子を遺体で返すつもりか。そんなところだろう。
娘を口実に、理不尽な要求を吹っかけてきたり、最悪、戦を吹っかけて来た場合、尚子を突き返すという選択肢しもある。その時に、こちらの本位でなくとも、尚子が死んでしまっていては良兼にいい口実を与えてしまう。だから、大切な人質として、好立は丁重に扱うつもりはある、ということを案に言っているのだろう。
「小春丸」
将門は、馬番に向き直った。
「はっ」
それまで、二人のやり取りを静かに見守っていた若い馬番は、将門の意思をその表情から読み取り、深く頷いた。そして、馬小屋に駆け入り、ひらりと馬にまたがると、尚子の姿が消えた方へと馬を走らせた。
その姿を見送りながら、将門は口端をかすかに上げる。
「じゃじゃ馬は、風を切って走っている姿が一番美しいものだ。まあ、もともと屋敷に閉じ込めて置けるとは思っていないがな」
「乗りこなせる自信はお有りで?」
「乗りこなす? 乗りこなすためにあの娘を連れてきたのではないぞ」
将門は、声を上げ短く笑うと、好立に不適な笑みを向けた。自信に満ちた、好立の大好きな表情だった。
「共に駆けるために、連れてきたのだ」
──お前や経明のように……。
ぽん、と好立の肩を軽く叩くと、将門は屋敷に戻っていった。一切の表情を変えることなく、好立もその後を追うのだった。