プロローグ
こちらの作品はファンタジック将門記シリーズ序章『赤い月が見ている』の続編となってます。
ですが前作をご覧になってない方でも、本作から楽しみいただけるよう執筆しています。もし、本作がお気に召しましたら、小次郎と尚子の出会いの話『赤い月が見ている』もご覧いただけますと幸いです。
がさがさという葉の擦れるような音で彼女は目を覚ました。
あたりは真っ暗だ。いくら今日が満月だからといっても、彼女の今いる洞穴の奥まで照らすことはできないでいる。
彼女は眠そうに目をこすりながら上半身を起こし、あたりを見回した。すると、そばにあるはずの母の姿が見当たらない。
「朧?」
周りで寝息をたてている兄弟たちを起こさないように注意しながら立ち上がり、彼女は洞穴の入口へ向かった。母親はすぐに見つけることができた。
「朧?」
彼女が母の背に声をかける。母はまるで娘が起きて来ることを知っていたかのように、驚く様子もない。ただ空高くに上りきった満月を、静かに見上げているだけだった。
「どうしたの?」
彼女は声をかけると、労るように、その小さな手を母の体に添えた。
母が、それに答えるように、幼いわが子に視線を送る。黒曜石のような母の瞳に、柔らかな色が灯った。
「…………泡雪の気配が消えた」
「泡雪? また気配を消しているのではないの?」
「奴がどんなにうまく気配を消したとて、我には分かる。奴とは久しく会っておらぬが、いつもあの巨大な妖気を直ぐそばに感じておった。じゃが、今しがた、それがぷつりと消えた」
「死んだの?」
「わからぬ。だが、そうだとすると、ちと困るのぅ」
そう言ってから、まるで自分を嘲笑うように、ふん、と鼻を鳴らすと、母は秋風の香りを嗅ぐように、夜空を見上げた。
娘は、そんな母の横顔を伺いながら、不思議に思った。
なぜ、朧はそんなに泡雪を心配するのだろう。
普段の母からは、泡雪のことを好意的に思っている様子はうかがえない。むしろその逆だ。母がいつも自分に語ったのは、泡雪との死闘の数々だった。たしかに、母の頬には今も消えない切り傷がある。それを刻み込んだモノこそが泡雪であった、と。
『いつか、息の根を止めてやる。今度会ったら、あの首を噛み切って、奴の自慢の尾を引きちぎってやる。いいか、もしもお前が奴に鉢合わせするようなことがあったなら、噛み跡の一つも付けてやるのだぞ』
娘は物心ついたころから、そう言い聞かされたものだった。
だから、娘にはなぜ母がそんな泡雪の身を案じているのか理解できなかったのだ。
「今宵は冷える。中に戻れ」
母が不意にそう言った。彼女は返事をする代わりに母の目をじっと見つめた。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで、母が崖下へと身を投じた。そして、軽やかに、まるでつむじ風そのものとなったかのように、音も無く絶壁を駆け下りると、あっという間に森深き山中にその姿を消してしまった。その間、彼女が瞬きを数回する程度の時間しか要していないのだが、そんな母親の姿を見慣れているのか、娘はさして驚く様子もなく、再び洞穴へ寝に戻っていった。それどころか彼女は、暗闇だというのに全てがはっきりと見えているかのような迷いのない足取りで、難なく先ほどまで眠っていた場所に腰を下ろした。そして、同じようにそこで眠る兄弟たちにぴたりと寄り添うようにして横になった。
「朧は?」
すぐ隣の兄が身動きせず、声だけを投げかけてきた。
起きていたのか。背中から伝わる兄の鼓動に、眠気を誘われながら、娘は面倒くさそうに言った。
「泡雪が消えたって」
「……泡雪が?」
兄の声に、微かな驚きが加わる。
「消えた? 死んだのか?」
娘は小さくアクビをし、瞼を閉じた。
「それを確かめに行ったのだろう……朧は……」
娘はそれだけ言うと規則正しく寝息をたて始めた。
「……まさか、あれほどの山猫が……?」
兄の独り言が、静かに洞穴に響いた。