その一言が、言えない。
深く考えずにお読みください。
彼との婚約はいわゆる政略的なもので、そこに私達の気持ちは存在しなかった。
貴族の役目だと言われ、意見することすら許されなかった。
貴族として生まれてきてしまった以上、別に反抗する気もなかった。
そうして決定してしまった婚約者との初顔合わせの日。
政略とはいえ婚約者に会うのだからと、精一杯のおめかしをした私に彼は言った。
「俺がお前を愛することはない。」
初めて顔を合わせた婚約者にかけるにはあまりにも冷酷で、容赦のない言葉。
同時にそれは一切の誤りがない、事実だった。
その日の顔合わせが終わり、帰宅した。
私の頭の中には、顔合わせの時に彼が発した言葉が残っていた。
ーーー分かっていた。そんなことは、言われなくても。
“彼が私を愛することはない。”
彼の顔を見た瞬間に浮かんだ考えが明確になっていく。
文字を読むことが出来るようになった時から、違和感があった。
ふとした瞬間に、何処で読んだか、誰から聞いたかも分からない話が脳裏に浮かぶことがあったのだ。
それについて深く考えることがなかったため気付けなかった。
それらは全て、前世の私が読んでいた小説の内容だったのだ。
前世、私が読んでいた小説は恋愛ものが多かった。
その中の一つに貴族の青年と庶民のヒロインが互いに惹かれあい、最終的に真実の愛を誓いあうという内容のものがあった。
ーーーそう。その物語の貴族の青年こそが、私の婚約者。
私はその物語では、ヒロインの命を狙う悪役だった。
二人の愛の物語に、悪役はいらない。
悪役は最後、国の法に基づいて処刑された。
その物語の悪役は、青年を愛していた。
どうしても手に入らない彼の心が欲しかった。
彼女はただ、彼に愛されたかっただけだった。
そこまで考えて、私はそうはなりたくない。そう思った。
同時に、今更だ、とも思った。
既に、心は奪われてしまっていた。
欲しいと思ってしまった。
彼の心を。愛を。全てを。
彼との初顔合わせが終わり、数日後。
今度は、彼とのお茶会に呼び出された。
何度も繰り返されるお茶会。
顔を合わせるたびに言われた。
“俺はお前を愛さない”と。
決して言えなかった。
「私は貴方を愛しています。」と。
そのようなことを言って、彼に捨てられたくはなかった。
きっと彼は嫌悪するだろう。
私から愛しいと、恋しいと伝えられることを。
そして、遠ざけるだろう。
そのようなことを言った私を。
だから私は、伝えられない。
彼が運命の人に出会うその瞬間まで、せめて彼の傍にいたいから。
何度も春が来て、夏になって、秋が過ぎて、冬が来た。
そして春。
彼は、運命の人に出会った。
彼の心を、愛を、全てを捧げたいと思う人に。
彼を傍で見ていたから分かった。
分かってしまった。
それでも、私の、どうしようもないこの想いは消えてくれなかった。
彼の心が、愛が、全てが欲しい。
同時に、悪役にはなりたくないという思いも残っていた。
彼には、少しでも綺麗な私を覚えていて欲しいから。
たとえ、この先、彼が私のことを思い出すことがないとしても、私が婚約者であったという事実が消えることはないから。
(悪役にはなりたくない。)
だから私は伝える。
「婚約を、解消しましょう。」
彼と確実に婚約を解消できるよう、準備はしていた。
婚約解消のための書類も、後は、彼の名前を書くだけだ。
彼の名前が入ったその書類を然るべきところへ提出した後、帰宅した。
涙は出なかった。
いつも通りの一日を過ごした。
ただ、彼が私の婚約者ではなくなっただけ。
夜、バルコニーから見える月を見上げた。
ふと、前世の有名なフレーズを思い出してしまった。
「月が綺麗ですね。」
死んでもよかった。
いや、今も死んでもいいと思っている。
「愛してる。」
その一言が、言えなかった。
正直、主人公をハッピーエンドにするかどうか迷いました。
楽しんでいただけたら幸いです。