絶対無敵のスーパーヒーロー
アンビバレントは私に興味をなくした。
向かう先はシケモクだ。私のことはもう眼中にすら入っていない。
背を向けている。隙だらけだ。今なら簡単に殺せる。ヒーロードライブの力さえあれば。
なのに。
私の心は、空っぽだ。
何か、ないのか。燃やせるものは。少しでもいい。心を燃やせば、私は、あいつを。私はこの手で、あいつを――。
私は……。あいつを、殺したいの、だろうか。
彼が話していたことは正しい。私を燃やしていたものは復讐心ではなかった。心見くんのために、風来さんのために、天元寺くんのために、彼を殺そうとしていたわけじゃない。
あの三人が死んだのは私のせいだ。私の中に燃えていた黒い炎とは、その実とめどない後悔だ。だからもし、復讐を願うのなら、その相手はアンビバレントではなく、私自身になる。
それでもヤツを殺そうとしたのは――。
あいつが、私とは違う生き方を、選んだから。
後悔の炎に身を焼くのではなく、復讐の炎で世界を焼くことを選んだから。
その生き方は認めるわけにはいけなかった。その生き方だけは、絶対に認めるわけにはいかなかった。
だって、そんなことを認めてしまったら。
私は。ヒーローに憧れた太陽と、ヒーローに理想を抱いたソラのために。ヒーローに支配されたこの世界を焼き尽くさなくてはいけない。
だから、私は。
私の心は燃え尽きてしまった。空っぽの心には、静寂だけが満ちている。
後悔は燃え尽きた。殺意は揺らいで消えていく。それ以外はもう、何も残っていない。
忘れてしまう。この後悔を忘れてしまう。太陽は私が殺したのに。ソラは私が殺したのに。心見くんも、風来さんも、天元寺くんも、私が殺したようなものなのに。なのに、後悔の炎がもう、これっぽっちも湧き上がらない。
記憶の中で二人が笑う。もういいんだよ、と。追憶の中で三人が微笑む。もう忘れていいんだよ、と。
だけど、嫌だ。それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。お願いだ。失われないでくれ。お願いだから、一人にしないで。一人は寒いんだ。寒くて寒くて、凍えてしまいそうなんだ。だから。
私から――。私が犯したこの罪を、どうか奪わないでくれ。
あるいはその執着は、私の心に残った最後のものだった。これを燃やせば、ヒーロードライブは私に最後の力をくれたのかもしれない。だけど。
これだけは、どうしても、失いたくなかった。
アンビバレントとシケモクが戦う。優位なのはアンビバレントだ。シケモクは元より能力を活かした補助に特化したヒーロー、直接戦闘は得意ではない。
決着はすぐにつくだろう。助けに行かなければ。なのに、私は。
私は、別のことを考えていた。
もしも。もしも、シケモクが死ねば。
私が何もせず、目の前でシケモクが殺されれば。
もう一度。私の中に、黒い炎が、燃え上がるのではないか。
へたりこんだまま、空虚な心で戦いを見守る。
どっちの勝利を願っているのかは、自分でもわからなかった。
「遅れてすまない」
一人の男が、私の肩を叩いた。
力強い手だった。もう大丈夫だと、勇気づけるような。優しくも力強い瞳をした男は、赤いコスチュームを身にまとい、悠々とした足取りで怪人に向かう。
キャプテン・レッド。絶対無敵のスーパーヒーロー。
ヒーローは、いつも遅れてやってくる。
「ひひゃ……! やっと来たなァ、キャプテン・レッドォ!」
待ち望んでいたとばかりに、アンビバレントは狂喜した。
希望の象徴であるレッドを殺せば、ヤツの願いはこれ以上ない形で果たされる。絶対無敵のスーパーヒーローという虚構は、完膚なきまでに打ち砕かれる。
用意周到なヤツのことだ。レッドを殺す手段なんて、いくらでも用意してきたのだろう。
それでも、レッドは。
「下がっていろシケモク。こいつは、私がやる」
キャプテン・レッドは。アンビバレントを正面から迎え撃った。
死闘が始まる。これまでの全てが前座だったと言わんばかりの死闘が。
大怪人と大英雄の激突。私が全力で炎を燃やして、ようやくたどり着けるような領域で、二つの傑物は火花を散らす。
どちらが勝つかなんてわからない。私の目では追いかけるだけでやっとだ。今の私には、もう、あそこに足を踏み入れる資格すらもない。
「はあ……。くそっ、めちゃくちゃ、つええな、あいつ」
どかっと、私の隣にシケモクが座る。息は荒く、ところどころ血を流していた。
「お前もレッドも頭おかしいわ。なんであんな化物とタイマン張れてんだよ。お前らみたいな近接脳筋型のヒーローと一緒にすんなっつの……」
「先生は、どっちが勝つと思いますか?」
レッドとアンビバレントの戦いは拮抗している。これだけの数のヒーローが集まっても敵わなかった相手だ。レッドなら絶対大丈夫だなんて、とても思えなかった。
「夜永。お前はどう思う」
「質問に質問を返しますか」
「教育者の特権だ」
「――アンビバレントが勝ちます」
少し迷って、そう答えた。
「二人の実力は拮抗している。となると、この戦いを計画し、十分に策を練ってきたアンビバレントが勝つでしょう」
「……ま、そう考えるよな」
シケモクはポケットからタバコを取り出し、火をつけた。一服吸い込み、紫煙を吐く。
「それでも、レッドが勝つよ」
「どうしてですか?」
「あいつは絶対無敵のスーパーヒーローだから」
それが虚構だってことは、シケモクだってわかっているはずなのに。
キャプテン・レッドは衰えた。今だってヒーロードライブを駆動して、騙し騙し戦っている。戦いが長引けば、やがて私のように燃え尽きて、最後には敗北を喫するだろう。
「そんなもの、嘘ですよ。絶対無敵のスーパーヒーローなんて、本当はどこにもいません。だって、レッドは、私の友だちを助けてくれなかった」
「……それは、お前がずっと抱えてきたものか」
「そうです。ヒーローなんて嘘つきだ。彼らがどんなに理想を語ったって、私の友だちは死んでしまった」
太陽は死んだ。ソラは死んだ。心見くんは死んだ。風来さんは死んだ。天元寺くんは死んだ。みんな、みんな、死んでしまった。
ヒーローに憧れて、ヒーローに理想を抱いて。いつか自分もヒーローになるんだと夢見ていた彼らは、ヒーローに救われることなく死んでしまった。
「そうだな……。そうかもしれねえなぁ」
シケモクは、否定するでも謝るでもなく、ただ認めた。
「お前の言うとおりだ。俺たちは完璧じゃない。どんなに頑張ったって、この手で救えるものには限度がある。俺も、レッドも、ヒーローたちは色々なものを取りこぼしてきた」
でもな、と先生は言う。
「それでも、その嘘があったから、俺たちはずっとあがいてきたんだ」
キャプテン・レッドとアンビバレントの均衡は徐々に崩れはじめていた。優勢なのはアンビバレントだ。絡め手を駆使し、レッドの不意をつき、狡猾に優位を築いていく。
「夜永。ヒーローはいるよ。絶対無敵のスーパーヒーローは、ちゃんと、この世界に存在する」
とくん、と。
心臓が、跳ねた。
「本当のヒーローに救えないものはない。だけど、ヒーローってやつはいつも遅れてやってくるからな。仕方ないから俺たちは、そいつがやってくるまでヒーローの代わりをやってるんだ」
ヒーローに救えないものはないなんて。そんなもの、誰がどう聞いたって嘘だとわかる。
だけど、どうしてだろう。
私は、ずっと、この言葉を聞きたかった気がした。
「俺たちはヒーローの偽物だ。でも、それじゃあみんなが不安になるだろ。だから、俺たちこそがヒーローだって嘘をついて、一生懸命時間を稼いでるんだ。いつか、本当のヒーローがあらわれるその日までな」
シケモクは私に向き直る。
「だから、頼む」
正座をし、両手を地につけて。深々と、頭を下げた。
「助けてやれなくて悪かった。だけど、もう一度だけ、ヒーローを信じてやってくれないか」
そんなことを言ったって、現実は何も変わらない。
私の友だちはみんな死んだ。アンビバレントは暴れ狂い、キャプテン・レッドは徐々に追い詰められていく。あのままでは、ヒーローが怪人に敗北するのも時間の問題だ。
だけど、なんでだろう。
どうして、太陽と、ソラは。記憶の中のあの二人は。
こんなにも満足そうに笑っているんだ。
――ヒーローになろう。
声がする。いつだって、私の背中を押し続けた声が。
どうして私がヒーローを目指したのか。今になって、ようやくわかった。
太陽の憧れは正しかったんだって。
ソラの理想は正しかったんだって。
二人が目指したヒーローは、ちゃんと存在するんだって。
みんなは、最後までヒーローを夢見たまま、天国に行けたんだって。
私は、それを、証明したかったんだ。
――ヒーローになろう。
声がする。空っぽになったこの心に、意思が満ちる。
――スーパーヒーローになろう。
五つの手が背中を押す。私ならできる、頑張れと。その手に支えられて立ち上がる。
――絶対無敵のスーパーヒーローになって、世界を救おう。
遥かな憧れと、遠い理想が。
私の心に、火を灯した。
「先生」
灯った火を大事に胸に秘めて。
私は、ヒーロードライブを発動した。
「お前……。それは」
「大丈夫です。簡単になくなるようなものじゃないので」
小さな火は炎となり、煌々とこの胸に燃えている。
尽きることのない無限の炎。力強く燃える希望の輝き。あんなにも嫌いだったものが、今は私に力をくれる。
「もう、逃げろはなしですよ」
「止めるものかよ。行ってこい、ヒーロー」
「……はい。行ってきます、先生」
私には、やりたいことがある。
アンビバレントの猛攻の前に、キャプテン・レッドは膝をついていた。勝敗は決したらしい。苦々しい顔をするヒーローに、怪人は勝利の笑みを浮かべる。
「ま、終わっちまうとこんなもんだ。頑張ったんじゃねえか、キャプテン・レッド。かつては無敵を誇っていたらしいが、今のお前には負ける気がしねえ。衰えたな、希望の象徴」
「……それでも、私は」
「諦めろ。お前はこれから絶望の象徴になるんだ。絶対無敵のスーパーヒーローなんて大嘘なんだって、お前がそれを証明するんだよ」
私は、レッドの前に立ち。
アンビバレントに向き合った。
「夜永……くん……」
「下がっていてください、レッド」
キャプテン・レッドは限界だ。力は衰え、胸に残ったわずかな炎を燃やして、騙し騙し戦っている。
そんな体になるまで、随分と無理をしたものだ。
いいよ、レッド。わかったから。あなたが守り続けた希望の火は、私が継ぐから。だからもう、休んでくれ。
「やめとけよ、つみきちゃん。燃え尽きちまった今のあんたに何ができる。用があるのはヒーローだけだ。今のあんたには興味がねえ」
何ができる、か。
私には何もできなかった。太陽が死んだ時、ソラが死んだ時、私は何もできなかった。声が正解を教えてくれたのに、私は彼らを救うことができなかった。
だけど。今の私には、やりたいことがある。
「今なら見逃してやるっつってんだ。死にたいってなら他を当たれ。忙しいんだよ俺は」
「せーのっ」
拳を振りかぶり、元気に一発。
ずうん、と。
空間を歪ませ、次元がひび割れる、絶大の一撃。
アンビバレントは、それを、両手で受け止めた。
「その力……っ! お前、何を、燃やした……っ!」
必死になって拳を止めるアンビバレントを、力だけで押し込んでいく。
何を燃やしたかなんて、そんなものは決まっている。
煌々と光輝く、太陽のように強い憧れと。
高く澄み渡る、空のように気高い理想だ。
「夜永……! 夜永、つみきィ!」
アンビバレントの姿勢が崩れ、私の拳が眼前に迫る。大地は砕け、空気は震え、やつの蛮行に終わりが訪れようとしている。
怪人は叫ぶ。
「もう一度聞いてやる! 名乗れ! お前は何だ! 今のお前は、何者だ!」
名前はまだない。だけど。
私が目指すものは一つだけ。
「絶対無敵のスーパーヒーロー」
私は、この嘘を。
本当に変えてみせる。
「そうかよ……! お前が、それを、名乗るのかよ……! だったら、仕方ねえの、かもなァ……! ぎひゃ、ぎひゃひゃひゃ、ぎひゃひゃひゃひゃひゃひゃ……!」
アンビバレントの哄笑の中で、終わりが訪れる。
力任せに殴り飛ばす。完膚なきまでに叩き潰す。圧倒的な力でねじ伏せる。
それで――。
すべてが、終わった。