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迷いながらでも歩いて行こう


 吐きそうだった。

 最低で、最悪の気分だった。


 私はヒーローが嫌いだ。大嫌いだ。それでもヒーローを目指すのは、声がそう命じるから。私にとって声は絶対で、逆らってはいけないものだから。だから私は、嫌々ながらにヒーローを目指していた。

 その声が、本当は自分の中から出ていたものだと知って。ヒーローになろうという夢は、私自身が考えた末に出した結論だったと知って。


 自分という存在が加速的に矛盾して。この空虚な心すらも信じられなくなって。

 私が、バラバラになってしまいそうだった。


 シケモクの前から逃げ出して、校舎の中をさまよい歩く。すでに本鈴は鳴り、次の授業は始まっている。かまっていられなかった。

 否定したかった。だけど、どんなに考えても否定材料が見つからない。それどころか、とても嫌なことに気づいてしまう。


 あの山岳訓練の時、私の声は、どうしてあんなに素早く指示を出していたのだろう。

 私は……。本当は、誰かを助けたかったのだろうか。


「う、くっ……げ、ほ」


 吐きそうだ。耐えられない。とてつもなく気持ち悪い。

 そんなはずがない。そんなはずがない。私が誰かを助けたかったなんて、そんなことはありえない。


 太陽を殺した私が。ソラを殺した私が。なんのためにそんなことをする。贖罪のつもりか。そんなことをして、己の罪を忘れようとでも言うつもりか。

 ふざけるな。そんなことは許さない。あの二人を忘れるなんて、絶対に許されるはずがない。


 忘れるな、夜永つみき。何があっても、忘れるな。

 太陽とソラを殺したのは――。


「夜永……さん……」


 後ろから、声をかけられた。

 振り返る。

 心見瞳。


「夜永さん……。その……」


 本当に、間が悪い男だ。

 前にもこんなことがあった。今だけは誰にも会いたくないという時に限って、私の前にあらわれる。

 だけど、今は、都合がいい。


「……心見くん」


 彼には聞きたいことがある。


「私の心は、どんな色?」


 心見くんは、恐れの混じった目で私を見ていた。

 その反応でわかった。今の私がどんな色なのか。きっと、彼をしても、見たこともないような色をしているのだろう。


 忘れるな。刻み込め。それが私だ。私という人間の本当の色だ。

 私は、ヒーローから最もほど遠い人間だ。


「夜永さんは……。ヒーローが嫌い、なんだよね」

「嫌い。大嫌い」


 感情を抑えられない。制御できない。ぐちゃぐちゃな心が荒れ狂って、触れるものすべてを傷つけようとする。


「ヒーローなんて、何も救ってくれなかった」


 口をついて出るのは憎悪の言葉だ。

 ヒーローがどんなに理想を語ろうと、どんなに輝かしい未来を指し示そうと、私の過去は塗り変わらない。太陽もソラも死んでしまった。ヒーローに憧れた彼は、ヒーローに理想を抱いた彼女は、ヒーローに助けられることなく死んでしまった。


「私はヒーローが嫌いだ。心の底から大嫌いだ。それでも声がそう言うから、何もかも捧げてヒーローを目指した。なのに、それが、本当は自分の願いだったなんて――」


 受け入れられるはずがない。

 飲み込むにはあまりにも大きすぎる矛盾。私はもう、この声すらも信じられない。

 何が思考の省略だ。一体どんな考えを省略すれば、こんな結論を導き出す。


「それでも……。僕は、夜永さんに、ヒーローになってほしい」


 私の心は見えているだろうに、心見くんはそんなことを言った。

 それはミキサーの中に手を突っ込むような行為だ。私の心に手を触れようものなら、たとえ彼であろうとも容赦できない。

 私が放った剣呑な気配に、彼は拳を握りしめた。


「夜永さんはヒーローになるべきだ。この前、遭難者を助けられたのは夜永さんのおかげだよ。シケモク先生は色々言ってたけど、裏を返せばそれだけ夜永さんの活躍が大きかったってことじゃないか」

「そんなこと……。私は、したくなかった。誰かを助けて、それで満足なんて、そんなものは望んでいない」

「だけど、あの人は救われた」


 吐き気がする。ぐちゃぐちゃになる。

 そうだ。私がどんなにぐちゃぐちゃになっていたって、それで救えたものはあったんだ。


 勘違いするな。私は、自己満足のためにあんなことをしたんじゃない。間違っても、自分のためにあんな真似をしたんじゃない。

 ただ、助けを求める人がいた。だから助けた。それでいいじゃないか。


「夜永さんには、誰かを助けられる力がある」


 私は私を許さない。だけど、私が私を許さないことで、誰かを見殺しにするのは違う。

 太陽は死んだ。ソラは死んだ。そして私は壊れてしまった。


 だからこそ。

 これ以上、誰かが死んだり、悲しい気持ちをするのは、嫌なんだ。


「きっと、夜永さんは、誰よりも優しいヒーローになれる」


 急造の上に矛盾だらけの自己証明。

 人殺しの罪を背負い、ヒーローを心の底から憎悪した上での、人助けの肯定。

 自分でも思う。ひどく醜いと。自分に都合がいいだけの、その場しのぎの理由付けだと。


「夜永さんだからこそ救えるものが、この世界にはあるんだよ」


 それでも、なんとなくわかってしまうのだ。

 きっとまた同じ局面が訪れた時、私は同じことをするのだろう。


 太陽、ごめん。ソラ、ごめん。


 私はヒーローになりたくないけれど。

 誰かが不幸になるのは、どうしても嫌なんだ。



 *****



 喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつだった。

 ひどく苦しんだような気もするけれど、一度飲み込んでしまえば過去になる。そうすれば後は受け入れるだけだ。


 思えば私、ソラが死んだ時だって、死にたくなるくらい苦しんだ。だけど時間が経てばなんだかんだで持ち直すことができていた。

 壊れてしまった私の心は、これで結構修復力があるらしい。何日か寝て起きて、ご飯を食べてお風呂に入れば、それなりに人間ができるくらいには戻ってこられた。


 とまあ、そんなことができたのは。

 友だち、ってやつのおかげなのかもしれなかった。


「夜永さん。今日は元気そうだね」

「……昨日の私はダメだったってこと?」

「そう取るかぁ」


 苦笑する心見くんに、冗談だよ、とひらひら手をふる。


「つきみん、何かあったら言うんだよ。瞳ちゃんはいじめっ子だから」

「うん、ありがとう。ところで風来さん。そのつきみんっての、本気で定着させる気なの?」

「僕もなんだかんだ流してたけど、瞳ちゃんってなんだよ。女の子か」

「あれ、こっちに矛先向いちゃった?」


 風向きが悪くなった風来さんは、ちらちらと逃げ道を探しはじめた。


「夜永ァ! 今日も! 俺と! 勝負!」

「今日の実習、女子は水泳だけど」

「なら泳ぎで勝負だ!」

「だから男女別なんだって」


 イノシシ少年天元寺は、今日もとりあえず勢いだけはある。元気でいいな。


 入学以来、特につきあいのあるこの三人。私たちの関係性は、友だちってやつなんだろう。

 正直、友だちを作るのには怖さがあった。私の友人はどうも悲惨な死を遂げる傾向にある。また大事な人を失ったらと考えると、誰かと親交を深めるのにはどうしても臆病になってしまっていた。


 だけど、今度は大丈夫。きっと、今度こそ大丈夫だ。


 私たちはヒーロー候補生。怪人に対処する方法を、毎日一生懸命学んでいる。もしも突然に事件が訪れたって、私たちならきっと適切に対処できるはずだ。

 それに、私だって強くなった。弱かったあの頃は、ただ逃げることしかできなかったけれど。今の私には戦う術がある。あの時とは違うんだ。


「ところで瞳ちゃん」

「夜永さんまで瞳ちゃんって言う?」


 ある時、私はふと気になって心見くんに聞いてみた。


「心見くん。私の心、今でも黒い?」


 日常の中の、冗談まじりの確認。この頃は自分でもうまくやれている自信はあった。

 心見くんはぱちぱちと目をまたたく。


「最近はたまに明るい色もするよ」

「……たまにかぁ」


 まだまだ前途は多難そうだ。

 二人のことを忘れようとは思わない。だけど、ちゃんと受け入れて、私は前に進みたい。


 ヒーローはやっぱり嫌いだけど、この力で誰かが助けられるなら、私は迷わずそうしよう。

 世の中の不幸ってやつは、もっと少なくていいと思うから。


「ふふ、あははは……」


 心見くんは、こらえきれなかったとばかりに笑っていた。

 すわこの男、ついに本性をあらわしたか。そう思って身構える私に、心見くんは目元に浮いた涙をぬぐい、ごめんごめんと謝った。


「なんかさ。夜永さんがそういう顔するの、すげー嬉しいんだ」


 ……そんなことを言われても。

 今度は、私が目をまたたく番だった。


 そんな友人たちが暖かくも楽しく支えてくれたおかげで、私は、逃げずに自分と向き合うことができた。


 私は、どうしてヒーローを目指すのだろう。


 どんなに考えても、答えはわからない。私はヒーローに何を求めているのだろう。正解を教えてくれるはずの能力は、こんな時に限って仕事をしてくれない。

 とは言え、卒業までまだまだ時間はある。ヒーローになる日まで、ゆっくり考えればいいだけだ。


 焦ることはない。いつか私は、答えにたどり着く。

 今はただ、一歩ずつ前に向かって進めばいい。

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