第33話 博愛主義者 富士宮 大輔戦③
妙に語尾を伸ばす独特の呼び方で、女の旧姓を呼ぶ人間。彼女には一人だけ心当たりがあった。もう二度と会うことはないだろうと記憶の最奥部にしまっていた“黒髪”の男性。
「水瀬……先輩……ですか……?」
ただでさえつぶらな瞳をさらに丸くして、信じたくない真実に身を震わせる。
「あぁ、やっぱりそうか。久しぶりだね。サイトー」
「髪、染めたんですか……? そんな奇抜な色に」
「いやあ、これが地毛だよ。前は黒染めしてただけ。サイトーも髪短くしたんだ」
……もっと何かあるだろう。感動の再会とは言えずとも、久しぶりの友人との邂逅だ。最悪の別れ方をしたとはいえ。だが、奇妙にも、奇怪にも。目の前の血濡れで服を染めている圧倒的暴威を纏う殺戮者相手に対して出てきた言葉はただの雑談だった。
斎藤がいくつか質問をして、それを銀次も軽く返す。何のことは無い日常の一コマ。しかし、いよいよ不安になったのか、それとも夫がビルを支えるのが限界になっていることを察したのか。本題に入る。
「……もしかして、私も殺されるんですか?」
斎藤は懇願した。ここを生きて帰りたい、と。眼尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。目の前の男は、かつての銀次では、ない。「殺し」を生きる糧としてきた男。何不自由なく、普通の幸せを甘受してきた彼女に思い描くことのできる最も深い闇が眼前にある。
(だけど……)
整合性が取れてしまう。件の一件で彼は堕ちたのだと。
あれから先輩のことは風の噂にも聞くことがなかった。それでも、心に仕舞い込んでも、忘れることなど有り得なかった。
(まさか、こんな形で、会うことになるなんて。私を殺しに、やって来るなんて)
「そういえば、“アレ”でいくらもらったんだ?」
それは斎藤の求める答えではない。しかし、わかってしまう。
何のことを言っているか。
(やっぱりそうだ。私のしたことで、先輩は、今の先輩になってしまった)
斎藤は、事実を口にすることにした。
「ひゃ、ひゃく。100万円です……」
(やっぱり、怖い。まるで私の「命の値段」を言っているみたい)
「100、万か。そうか、たったそれだけか……」
銀次は暫く、目を伏せた。
彼女との付き合いは決して短いものではなかった。研究生を含めて四年間。恋仲でも、親友と呼べるほどの友でもなかった。
しかしそれでも、確かな信頼があった。少なくとも、彼女を取り巻く多くの人間関係の中では、彼女の本質を分かってあげられている、と。銀次がそう思って接していることに、彼女も気づいた上で憎からず思ってくれていると。
(勘違いだったわけだがね)
100万円。
銀次と斎藤の信頼関係に付いた値札に、今や給金端数に過ぎない金額が記載されている。
銀次はやりきれなかった。
「いや……」
銀次は口を開いた。
「違うな。僕も一件100万で、沢山、沢山殺したよ。貧すれば鈍するとは このことなのかな。だったら仕方ないよな……」
顔をあげた銀次に、憤りはなかった。あるのは悲愴だった。
「……『僕』は私怨で人を殺したりはしないよ」
斎藤の全身から、力が抜ける。
殺さない、と彼は言ってくれた。
生きて帰ることが、かなう。
まだ、生きられる。
一般人の彼女に、漸く生きた心地が、僅かに戻ってきた。
感謝の言葉と、謝罪の言葉。それから富士宮を許してもらうことを進言しようと一歩前に踏みでる。
「……私怨では、ね」
「え?」
銀次の右腕が鋭利な槍へと変貌していた。それは斎藤の人体をやすやすと貫き背中から棘を生やした。遅れて、口の端から血液が一本伝う。
「殺しを発見された場合は目撃者を殺害する。これは『私』の業務だ」
■■■ 5年前 北海道大学 医学部 基礎研究科
──────不可思議な雰囲気の奴だった。
ミステリアス、とは、全然違う。むしろあいつは人懐っこい。同輩も後輩も先輩も、教授もなんなら友人の親からも好かれていた。
よく笑い、よく笑わせていた。誰からとなく人が集まり、一人でいるのは、ほとんど見た覚えがない。
しかし何故だか、彼女を見る度、孤独を想起させた。誰にも心を許してはいない。許したくないから、弱さを見せたくないから、人と関わっている。そういう、匂い、というか、感覚的に、僕は彼女をそう理解した。
カーテンの閉め切った研究室に籠りきりで、気のつかぬうちに夜更けとなるのは、ここ数ヶ月珍しくもなかった。その日も、午後から研究室で膨大なデータから、希望する反応を見つけ出すために、22時までパソコンと組み合った所で、外の空気が吸いたくなった。
飽きたわけじゃない。ただうんざりはする。
あと一歩、あと一歩。
そのほんの一歩が、届かない。
研究棟から本館への渡り廊下の中ほどに、庭というのには手入れの無い、テニスコートほどの草っ原への抜け道がある。そこを進んでいくと、これ以上普段着で草をかきわけることのできぬ限界の辺りに喫煙所がある。
喫煙所とは名ばかりで、土間コンクリート敷の上にぽつりとスタンド式の灰皿が置かれ、剥げかけたペンキ塗りの木製ベンチが2脚あるだけで、「質素」と表現するのも躊躇する。一昔前の駄菓子屋の店先を、もう少しばかり煙草臭くしたらこんな具合であろう。非喫煙者の銀次はしかし、ここが存外気に入っていた。
分煙など一欠片も考えずに一切壁を設けず開かれているから、ここは煙草の匂いも少ない。そしてこの時間は特に、人がいない。何よりこうして研究を一時離れてコーヒーを飲む時にまで、文明に囲まれたくはなかった。
古びたベンチに遠慮することなく体重を預けると、文句を言うようにみしりと軋む。
「ふぅ……」
道すがら買った缶コーヒーを一口。いつもの安物の缶コーヒーは、いつも通り美味くはない。吐き出す息は僅かに白く残って消える。少し肌寒い秋風が心地良い。オーバーヒート気味の脳みそを冷やすのには丁度良い。
「先輩」
思いもかけぬ呼び声に銀次はぎくりとした。
「今日も遅いですね」
声のほうを見やると、見慣れた顔に安堵する。
「サイトーか」
「そーですよー」
微笑む斎藤の顔は、昼日中でよく見かける顔よりも少しだけ、弱々しい。弾けるような笑い声も、愛らしい笑窪も、そこにはない。だけど銀次のよく知る、斎藤のいつも通りがそこにある。
笑顔は武器である。
魅惑的ということではない。
他者を踏み込ませないための、武器。
だから銀次は、こういう斎藤の顔が好きだった。
「サイトー。煙草吸ってたっけ」
銀次の記憶には無い。
「いいえー。くさいですもん」
斎藤はあっけからんと応えた。
「じゃ、またなんでここに」
「匂ったんで」
そして時々、齋藤はこうして道理の通らないことを言い出す。
「私、鼻が利くんですよ」
なんだか誇らしげである。
「尚更なんで来たんだ……いや、まあいいか」
突き詰めれば「何故いるか」など、大したことでは無い。知らぬ仲でも無い。大方こいつも「残業」に嫌気が差したのだろう、と銀次は考えた。
「……いいんですか?」
それにしても、今日の斎藤は奇天烈なことを言う。
「いいさ」
「ふーん……」
そう言った斎藤の顔は、言葉の割に忙しない。銀次と二人でいる時に、これほど豊かに表情を変えるのは新鮮で、銀次は暫し斎藤の顔に見入ることにした。
「……なんですか」
「新鮮だ」
「……なにがですか」
「サイトーのそんな顔、初めて見た」
「……そんな顔ってどんな顔です」
「そういうのも、いいな」
「……話聞いてますか!」
あんまり必死になるもので、銀次は可笑しくなって噴き出した。それきり、斎藤は俯いてぶつぶつ言い始めた。
「サイトー。悪かった」
「…………別にいいですよ」
ちっとも良くなさそうである。
「ジュース1本でどう?」
「バカにしてますね」
「要らないか?」
「要ります」
銀次はまたしても可笑しくなったが、今度はコーヒーに口をつけて誤魔化すことができた。
■■■
温かい。
流れる血液の、その体温に近しい温かさが、歪に変形した水銀の槍を伝って、銀次に生々しい程の実感を与えていた。
(髪、切ったんだな。それで分からなかったのか)
銀次は自分が場違いなことを考えていることを自覚していたが、それを止めることはできなかった。
(そうだ、こいつ、こんな顔してた)
血液が、水銀を伝って、銀次の肘を濡らす。
もう、少し冷たかった。
「……サイトー」
斎藤は、こちらを見ている。銀次の腕が、その変形した槍が、彼女の胸を確かに、貫いている。
(そうだ。私が、僕の手で、僕が殺すつもりで、斎藤の胸を刺し貫いた)
『なぜ?』
(それが僕の仕事だからだ)
『なぜ?』
(そうするだけの力を得たからだ)
『なぜ?』
(神の悪戯だろうか)
『なぜ?』
(これ以上なんの疑問があるのか)
『なぜ?』
(何も無い)
『なぜ?』
(……何も、無い)
(何も、何も)
(僕はどういう訳か選ばれて、それで人殺しで金を稼ぐことにした。大した理由なんてない。今回もそうだ。そういうプロトコルだ。能力の露見も、暗殺課という存在の漏洩も、看過できない。看過できないのだから、殺す。そうだ。そこに一切の、疑義は無い)
『なぜ?』
(いったい、これ以上、何が分からないッ)
『なぜ?』
(やめろ)
『なぜ?』
(やめろッ! 理由を問うのをッ!)
『なぜ?』
(これ以上、これ以上)
(これ以上、分からせようとするなッ!!)
「どうして、そんなに苦しそうなんですか、先輩……?」
「……なにをいってる?」
斎藤の顔からは血の気が失せ、元来の白皙はもはや死相に近い蒼白さとなっていた。
「…………ばかでしたね。わたしも、先輩も……」
「…………なんだ、いったい、何を」
ぐん、と。銀次の右腕に掛る重みが僅かに増した。
「サイトー」
返答はない。
「サイトー」
もう、返答はない。何も答えることはない。目の前の女からはそれきり、何の反応も得られない。それは銀次のよく知る「いつも通り」である。いつも通りの、何の変哲もない、昼下がりのランチに味噌汁がついてくるか否かほどに些細なはずの、「死」だった。
「…………あぁ、気分はよくないな」
「うぉ、おぉぉオォオオッッ!!」
銀次の掠れた独り言をかき消すかのように、富士宮は慟哭する。すでにビルを支えている両腕は限界を迎えており、少しずつだが傾いてきている。その肉体的負荷に彼が叫んだのではない。
(最愛の人を目の前で殺された。これは俺が選んだ結末だ。このビルが倒壊すれば中にいる人間が100は死ぬ。だから、俺は、彼女を見殺しにしたのだ。それが、博愛だ)
「……吠えて強くなるならば、私も叫んでいるよ。意思の力でどれほど人間が耐久できるのか、興味深くはあるけどね」
銀次は槍に刺さっている斎藤を振り払い、死体となったそれに何の敬意を払うこともなく、無造作に投げ捨てた。ネクタイを整えながら口に火のついた煙草を咥え、富士宮のもとに歩いてゆく。
「愛というものにあまり語れるほど経験もないが。素人意見ながら語らせてもらうよ。……すべてを愛す。ということは全てを愛さないと同義だ。何故ならば愛とは相対的なものなのだからね。天秤の片方に錘を置けば、もう一方はつり上がってしまう。お前は一見すべてを愛しているように見えて、その実すべてに頓着はなかったのさ」
「そんな、ことは。無い。俺はこの多数の命を救う。たとえ、たとえッ。彼女を死なせてでも俺の両手が届く範囲の命は愛し続ける!」
「それが矛盾だと言っているに、未だ気付かないのか。……まあそういったものに目を瞑って生きてきたんだろう。哀れだな、お前は。私と比肩するほどに」
銀次は細長く息を吐き、憐憫の瞳で再度富士宮に視線を送る。
「……私は一般人を基本殺さない。人質もとらない。君には無法の殺人鬼や悪逆非道の魔王に見えていたか?」
「君が今支えているビル。“無人”だよ」
「は?」
□□□
【プランC】シエラ隊が能力者と交戦した際のプロトコルの一つ。隊長である銀次が戦闘を行い、狙撃手が援護射撃をする。手の空いた残りの4名は即座に現場から人払いを行う。すでに決定的瞬間を目撃、撮影された場合は殺害するしかないが、そうでない一般市民を戦禍から守るよう「銀次の善意」で立案された作戦の一つである。
□□□
「じゃ、じゃあ。俺は一つの命も宿っていないビルのために、最愛の人を見殺しに……」
「そうなるな」
銀次は声色を変えることなくそう吐き捨て、攻撃を開始する。再び飛ぶ斬撃が、ビルを支えている腕を切り落とす、再生が始まるが今度は足を切断。それはどこか当てのない怒りを彼にぶつけているようにも感じられた。
切断、切断、切断。再生能力が間に合わない。ビルが傾き、富士宮側に倒れてくる。そこで銀次はマグナムを生成し、防御手段を失った富士宮の頭部に発砲。着弾し脳漿が飛び散る。同時に連絡を取る。
「ウコン。爆破」
瞬間、倒れかかっている無人のビルは、爆音とともに無数の瓦礫となり富士宮の体に降り注がれる。哀れな博愛主義者の墓標となった瓦礫の山を一瞥したのち振り返り、通達する。
「『身体強化』能力者討伐。みんなご苦労だった。怪我した人はいないよね? 帰るぞ。私たちの家へ」
■■■ 横浜 拠点アパート
「先日、川越市で起こった大規模テロの爪痕は大きく、未だ現場では犯人の特定と爆破されたビルの残骸撤去作業が……」
銀次は自室でテレビを見ながら座っていた。暗殺課以外のCIAも事態の収拾に尽力してくれたのであろう。CIAの「し」の字も出ない。当然防衛省の特務は気付いているだろうが、それも問題はない。大衆の目につかなければどうとでも真実は捻じ曲げられる。……かつて自分がそうされたように。
銀次は一人車を走らせ拠点から遠く離れた公衆電話へ向かい、とある番号に電話をかける。
■■■ 埼玉県 川越市 事件現場
「おーい。ショベルこっちに回してくれ」
「あいよ」
このビル残骸の撤去には自衛隊が派遣されている。まだ生存者がいた場合の心配を「形だけでも」しなくては国民に言い訳ができない。いないとわかっている生存者を探す、賽の河原のような苦行。それが現場の隊員に知らされていないことは彼らにとって幸福であっただろう。
その瓦礫の山の頂点から一本の手が伸びる。
瓦礫を払いながら立ち上がる大男。その目は爛々と憤怒の色に染まっていた。博愛とはかけ離れた悪意に染まった黒瞳だ。涅色のそれは泥のように濁り、ここに新たな復讐鬼の誕生を祝福するかのように昏く輝いていた。
♦「元」博愛主義者 富士宮 大輔 能力名【不死身】




