第九夜 貧しい心
「あのバイクに乗った時、思いついたんだ。こうすれば全力が出せると」
「祟られました」
「これほどの屈辱を味わわせておいて、情けをかけたつもりか。殺す、おぬしを殺す、餓鬼も殺す、そこで寝てる女も殺す」
「さよならだ」
妖怪、それは人の世に潜む異形の者。
そして人に仇なす妖怪を人知れず始末する彼らもまた、
怪物と呼ばれた──
雨降りの朝、巧は一人歩く。人のまばらな土曜日の街を歩くのは、妹の誕生日を祝うためだった。雨滴が傘を打ち、パラパラと音をたてる。財布の中には小遣い全額、ケーキ一個分のお金が入っていた。背後から声がする。
「巧くん、どこ行くんですか」
そこには、ずぶ濡れの瑠璃がいた。
「ケーキを買いに。妹が誕生日なんだ」
「家族でお祝いですか、いいですね」
「家族っていっても親が仕事だったり寝てたり、結局僕と妹だけでのお祝いになることが多いんだけど」
「そうなんですか。私も行っていいですか」
「ああ」
瑠璃は巧の傘に入る。
「雨の街っていいですよね」
「僕は好かないかな。濡れるし」
「でも、傘があるから濡れない。巧くんが傘に入れてくれるから」
「入れないって言ったら、どうするつもりだったんだ」
「面白い質問しますね。そんなの考えもしませんでした」
目的地に着く。ケーキを選び、会計の時になって気づく。財布がない。どこかに落としたのかと勘ぐり、彼は店を出る。来た道を引き返すと、すぐに見つかった。手を伸ばし、まさに掴もうとするその瞬間、野犬に攫われる。あまりに早く、追いつけない。巧は瑠璃の方に振り返り、言う。
「ごめん、待ってて」
ベルトに円錐を差そうとするが、手を止める。月の円錐は半月になったままだった。力が暴走して以来、彼は恐れていたのだ。狼の速さには頼れず、それでも追う。あと少しで追いつこうというところで、異変が起きた。野犬が土手を転げ落ちていったのだ。そのまま財布もろとも川に落ちる。
「ああ、もう」
巧は川に飛び込み、手を伸ばす。どうにか犬は救えたが、財布は流されてしまっていた。瑠璃のもとへと戻る。
「財布、川に流されちゃったよ」
「それは困りましたね。あいにく私も手持ちがないのです」
彼は考え込む。が、すぐに歩き出した。
巧は陰陽堂の扉を開ける。中には憂介がただ一人、体を鍛えていた。
「どうした、小僧」
「あの、前に給料はちゃんと出すって言ってましたよね。いつ入るんですか」
「要らないって言ってたくせに」
「妹を祝わなきゃいけないんです」
「仕方ないな」
憂介が封筒を渡す。が、巧が受け取った瞬間に窓から突風が吹き込み、封筒が飛ばされる。
「やっぱり、何かおかしい」
振り向くと、和装の老人が浮いていた。服のところどころに継ぎ接ぎがある。
「いいじゃあないか、贅沢は人を堕落させる。幸せは、貧しさの中にこそ埋もれてるものよ」
「もしかして、貧乏神」
「様をつけろ、様を」
「様をつけたら、いなくなってくれるのか」
「考えてやろう」
「貧乏神様、どうか去ってください」
「断る」
「なんで」
「貧しくなることは幸せに近づくことだからな」
「妹の誕生日にケーキを買うのが不幸ですか」
巧が答えたところで、憂介が止めに入る。
「このままじゃ話は平行線だ。どうしても困るなら、始末してしまえばいい」
葬着しようとする憂介を、巧は遮る。
「始末って、誰をですか」
「そこにいる貧乏神をだよ」
「どうして、死ななきゃならないんですか」
「じゃあ、ずっとこのままでいいのか」
「駄目です。駄目ですけど、何かいい方法はないんでしょうか」
「そんな都合いいもんあるかよ」
「じゃあ封印したら」
「駄目だ」
憂介は老人に円錐を突き刺すが、すぐに円錐が砕け散る。
「力が大きすぎて、この中に封じられないんだ。殺すことならできるが」
「そんな」
扉が開く。そこには一人の少女がいた。憂介は中に通す。
「父が、鬼に憑かれたんです。事業が成功してから人が変わってしまって」
「わかりました、すぐに向かいましょう」
「失礼します」
憂介が扉を開け、その後ろに巧がいる。そこは社長室。
「何をしに来た」
部屋の奥から睨みつけられ、恐怖を押し殺しながら憂介は言う。
「あなたに憑いた鬼を祓いに来ました」
「おおかた友子の差し金か。憑かれてなんかいない、ただ気づいたんだよ。世の中金だって。金を手にした途端、人が群がってきた。人が信じられなくなったよ」
巧の背後から、貧乏神が割り込む。
「世の中金か。案外そうでもないぞ」
そして彼にとり憑く。
「解決、ですかね」
「おそらくな」
二人は顔を見合わせた。
その後、屋敷が火事になった。残ったのは家族と少しの財産だけ。保険で小さな家を建てなおし、慎ましやかに暮らしたという。
帰り道、憂介は言う。
「もう昼だが、誕生会の準備はできてるのか。ケーキを買ったり、プレゼントがあってもいいかもな。それから、ご馳走は手作りがいい」
「もしかして作ってくれるんですか」
「いや、お前が作るべきだ。お前が作ることに意味がある。これで材料を買うといい」
給料袋を手渡した。
「憂介さんも来ますか」
「いや、自分以外の調理したもんは食いたくない」
腕輪と円錐を渡し、巧は家に向かう。しかし月の円錐をポケットから取り出すことはなかった。
彼は瑠璃と二人、支度を始める。
「いいですね、こういうの。なんか自分まで祝われてる気持ちになります」
「瑠璃の家では、どんな感じなの」
「何もないですよ。私、両親がいないんです。一応引き取ってくれた人はいるんですが、おじさんは私を避けてるのか話してくれないし」
巧が言葉を失ってしまう。
「大丈夫です、もう慣れたので。それに、巧くん家も大概ですよ」
「そう、かもね」
肯定するような、はぐらかすような返事をした。
夕方、窓から陽光は入らない。暗い部屋に妹が入ってくる。明かりをつけ、クラッカーを鳴らした。
「誕生日おめでとう」
巧と瑠璃が言う。
「今日はご馳走を作ってみた」
テーブルの上には、ちらし寿司があった。それぞれ盛りつけ、手を合わせる。
「いただきます」
妹は行儀悪く飯に食らいつく。
「おいしい、おいしいよ」
ポロポロと、涙をこぼす。
「ありがとう」
二段ベッドの下、妹は言う。
「嬉しかったよ。最後に、祝ってもらえて」
巧は既に眠っていた。
道に迷い、心も迷い、いつの間にやら迷宮入り。
次回「迷い道」
君のいない夜を駆ける。