第六夜 化け狸
「血を吸われました」
「恵のいない世界に価値はない。恵のところに行きます」
「帰ってくれ。君の求めるような僕はもういない」
「こんなところで折れる巧くんは見たくない」
妖怪、それは人の世に潜む異形の者。
そして人に仇なす妖怪を人知れず始末する彼らもまた、
怪物と呼ばれた──
街灯のない夜道を、典子は歩く。彼女の前に一人の男が立ちふさがった。小柄で恰幅のいい少年。
「おい」
彼女は意に介さず素通りする。
「待てよ、どこに行く」
「悪いけど、君に構ってるほど暇じゃないんだ」
「そうやっていつも、つまんなそうな顔してるよな。本当にいけ好かねえ」
「それで何の用。手短に、できれば三秒以内でお願い」
「お前らを一泡ふかせてやるって、そう宣言しに来た」
「諦めたんじゃなかったの」
「機をうかがってただけだ。俺は諦めが悪いんでな」
「そう、あんたには無理だろうけど」
「できるさ。震えて眠れ」
「対抗意識を燃やすのは勝手だけどさ」
彼女の背中から生えた尻尾が、彼に勢いよく向かう。彼の頰を掠め、表皮を裂いた。
「分をわきまえな。じゃなきゃ、いつか命取りになるよ」
震える彼の横をすり抜け、彼女は闇に消えた。
朝が来たらしかった。巧が目を覚ます。体のどこにも異常はないはずだったが、どうにも気分が優れない。ふらふらと扉まで歩き、部屋の鍵を閉める。それからは床に座り込み、天井を眺めていた。窓の外に視線を向けるが、彼女が現れることはなかった。その代わりに、黒服の男が立っていた。
「憂介さん、なんで」
「腕輪を回収しに来た」
「どうして、ここが分かるんですか」
「悪いな、尾けさせてもらったよ」
「今、取ってきます」
巧は窓を閉め、それきり顔を出すことはなかった。手首に巻いてみるが、すぐに外してしまう。床に倒れ込み、そのまま眠ってしまった。
その頃、憂介と典子は昼食をとっていた。
「新米が穫れたので、栗ご飯を作ってみた」
「ふぅん」
いただきます、二人は言った。典子はガツガツと口に掻き込む。憂介は箸で一口分を取り、香りを楽しんだ後に食べる。
「どうだ、新米の味は」
「普通」
「言うと思ったよ。いつかは美味いと言わせたいね」
「楽しみにしてる」
「そういえば、あの小僧の場所わからないか」
「なんで私に訊くの」
「腕輪に発信機とか仕込んでないのか」
「あの精密機械にそんなもの入れたら、壊れちゃうからね」
「となると、夜になるまで動けないか」
ごちそうさまでした、二人は言う。憂介は食器を片付け、洗い物を始めた。
俯いて歩く瑠璃のもとに、彼は現れた。
「久しぶり」
「巧くん、よかった。ようやく立ち直ったんですね」
「うん、完全復活した。行こうか」
彼女の手を引く。
「なんか、おかしくないですか」
「普通だよ、いつも通りだよ」
「絶対おかしいですよ」
「確かに、おかしいかもね」
彼の口元が歪み、瑠璃の首元めがけて一撃を繰り出す。彼女は紙一重で躱し、彼の方を向き直る。
「やっぱり、偽物でしたか。妖怪変化というやつですか、興味深いです」
人形に円錐を差すと、それは動きはじめる。鎧を纏った人形は振りかぶり、殴ろうとするが止まってしまった。
「ひどいなぁ、何するんですか」
瑠璃の姿をしたそれは人形に手を伸ばし、円錐を抜く。眼前の事象に理解が追いつかない人形は、無抵抗のまま無力化されてしまう。彼女は逃げ出すが、すぐに異変に気付く。走れど走れど同じ道に出るのだ。疲れ果てて止まったところを捕らえられてしまった。
巧が目を覚ますと、部屋の中に一枚の紙が落ちている。
「女はあずかった。返してほしくば、今日のごご五じ九ばんそうこに来い」
たどたどしい字で書かれていた。彼は床に置かれた腕輪を見る。指定された時刻までにはまだ時間があった。腕輪を拾い、巻く。立ち上がり、部屋の中を忙しなく動いていたが、やがて支度を始めた。
午後五時、空は藍色に染まっていた。人気のない工業団地、倉庫の一つに明かりが点いている。九と書かれた倉庫の扉を、巧は勢いよく開けた。中には恰幅のいい少年と、縛りつけられた瑠璃がいる。
「いろいろ考えたんだけどさ、何もしないなんてやっぱり耐えられない」
左手を胸の前に掲げ、腕輪に円錐を差し込み回す。モンスター・サプライズド・ユー。ベルトが告げる。
「葬着」
天板の蝙蝠が回る。現れた鎧に飛び込んだ。翼の生えた高貴な姿。低空を滑り、瑠璃の方へと向かう。それを阻んだ彼女は、彼のよく知っている姿をしていた。
「久しぶり」
「アキ、なんで」
「また傷つけようとするの。私が死んだ時みたいにさ。巧が動いたところで、誰も救えやしないのに。それどころか、傷つけることしかできないのに」
アキが生きているはずはない、頭ではそうわかっていた。それでも、体が震えて動かない。彼は必死に手を伸ばすが、アキの幻影に邪魔されて届かない。三分ほどが経ち、腕輪が弾けた瞬間に一匹の狸が掠め奪った。狸がアキに化けていたらしい。巧は追おうとするが、すぐに姿が見えなくなる。追いつけないと悟った巧は、瑠璃の捕縛を解く。
「すみません、私のために。大事なものだったんですよね」
「大丈夫。きっと取り返す」
「でも、どうやって」
「どうしようかな」
やがて二人は歩き出す。
憂介が台所から鍋を運んでくる。グツグツと煮えた鍋の中、鶏肉と野菜が躍っていた。
「ちょっと早いが、晩飯にしようか。今夜は忙しくなるしな」
「そうだね」
扉が叩かれる。扉の向こうには一人の少年がいた。
「小僧、お前」
「腕輪を返しに来ました。僕はもう、戦えそうにないです」
腕輪を受け取る。
「そうだ、今から晩飯なんだが食っていかないか」
彼は頷いた。憂介が皆の鍋を盛りつける。憂介と典子が手を合わせたところで、彼は食べ始める。その瞬間、憂介は立ち上がり彼を殴った。衝撃で変化が解け、狸の姿に戻ってしまう。
「なんで、わかったんだよ」
「いただきます、って言わなかっただろ。食べ物に敬意を払えない奴は、誰だろうが殴るさ」
典子が嘲るように笑う。それを睨みつけ狸は言った。
「俺の勝ちだな」
「負け惜しみはやめてよ。見苦しい」
「その腕輪は偽物だよ。本物はその辺の奴にくれてやった。そいつが悪用されたら、陰陽堂は終わりだろ」
「典子、モンスターシンボルを」
憂介はとどめを刺そうとする。典子が円錐を投げるも、狸が跳躍して横取りした。
「そうそう、一つ忠告だ。真に化かすのが上手い奴は、化かされてることすら気づかせない。その女狐にせいぜい気をつけろよ」
彼はそう言い残して逃げ去った。憂介は典子の方を向き、茶化すように言う。
「だってよ、女狐さん」
「疑いたいなら疑っていいよ」
「疑うもなにも、端から信じちゃいない」
「知ってた」
「じゃあ、そろそろ動き出すとするか。そうゆっくりもしてられないらしい」
すっかり暗くなった町へと、彼は歩き出す。闇の中、彼は呟いた。
「ああ、鍋が冷めちまう」
資質とは力か、精神か。
次回「強盗返し」
君のいない夜を駆ける。