第十九夜 凍りつく闇
「ブランクシンボルが、もう残っていないんだ。今の俺にできるのは逃げることと、殺すことだけだ」
「おじさん、気持ち悪いです」
「戻ってきてくださいよ。私だって、憂介さんだって待ってますから。帰る場所は、まだありますから」
「帰りたいよ。僕だって、戻りたいよ」
瑠璃を待つ間、憂介は玄関の前に立っていた。日はすでに高い。人々の暮らしは、少なくとも見る限りではつつがなく回っているようだった。その中で自分たちだけが戦っている。それはひどく孤独なように思われたが、それでも引き下がることはできない。また、多くのものが失われようとしているのだから。
「あれ、雨だ」
突如、予報外れの大雨が降り始める。気がつくと、空一面が雲に覆われていた。太陽が隠され、一気に暗くなったように感じられた。曲がり角の奥から男が現れる。白衣を着た、疲れた顔をした男。
「黒戸、お前」
「受け取ってくれたかな、私の愛のスコールは」
「何のことだ」
「この雨のことだよ。コレを使ったんだ」
黒戸の手には、円錐が握られていた。天板には傘が象られている。
「妖怪・雨女の力ってところか」
「ご明察」
「しかし、分からないな。雨を降らせてそれでどうする」
「私なりの遊び心だよ。雨の中、悲しみの中死んでいくのが君にはお似合いだと思ってね」
「悪いが、俺はまだ死ねない」
「なら、死より残酷な結末をくれてやろう」
憂介が身構える。それを笑うように、黒戸は何をするでもなく佇んでいた。
「そうだ、紹介したい人がいるんだ。いや、紹介したい狸と言うべきか」
曲がり角の向こうから、狸の少年が現れる。そして憂介の姿を見つけると、顔をしかめて吐き捨てた。
「相変わらず間抜けた面してんな」
「なんで、お前がそっち側にいるんだよ」
憂介もまた、苛立ちを露わに叫んだ。狸が言い返す。
「悪いかよ、俺はお前らが嫌いなんだ」
「でも、典子はあいつらが殺したんだぞ。もう負かすことも、超えることもできないんだぞ」
「何を言ってんだよ。典子を殺したのは、お前なんだろ」
「違う、なんで俺が」
「とぼけるな、全部知ってんだよ。ヤツが人を殺して、お前が処分したんだろ。所詮、無理な話だったんだよ。人間と妖怪が仲良くなるなんて。俺なら、俺なら分かってやれたのに」
憂介の胸が、チクリと痛む。自分では典子を分かってやれず、結果として無辜の一般人を死なせた。自分では典子を守れなかったために、彼女を死なせてしまった。妖怪連合に怒りを向けても、結局は自分のせいなのだ。典子を理解してやれたら。守ってやれたら。それはできなかった、そして永遠にできない。ドロドロと、暗い感情が流れ込む。
「典子が死んだのは、俺のせいだ。俺が不甲斐なかったせいで彼女は死んだんだ。それでも、どうか引き下がってほしい。これ以上失いたくないんだ」
「奪うだけ奪っておいて、よくもそんな口が叩けるな。俺は、お前の全てを奪う。後悔しながら死んでいけ」
「まあ、待て」
制止したのは黒戸だった。
「ただ殺すのではつまらない。儀式を始めようというのに、そう勝手な行動をされては困る」
「儀式だと」
憂介の問いにも答えず、黒戸は円錐を取り出す。それは雨を降らせたのとは違う、天板に蝙蝠の象られたもの。憂介はそれを見たことがあった。吸血鬼。かつて相手にした強敵だった。
「お前、まさか」
「そう、そのまさかだ。私は人間をやめる」
自らの胸に円錐を突き立てると、黒戸は変わっていく。鋭い牙、悪魔のような羽。人ではない何かになってしまった。
「なんだよ、これ」
驚きと動揺に、憂介の声は震えている。
「貴様の血を吸い、眷属とする。憎い私のために永遠に生き続ける、それが貴様の結末だ」
そう言うと、黒戸は憂介めがけて飛来する。紙一重で避け、彼はベルトに炎の円錐を、腕輪に氷の円錐を差す。左手を腰の前で構え、回す。モンスター・サプライズド・ユー。
「重葬」
現れた鎧に飛び込む。一秒、氷の剣を振り下ろす。
「葬着したところで、所詮は人でしかない」
黒戸の体が無数の蝙蝠に分かれ、バラバラと散る。刃は蝙蝠の隙間をすり抜け、空を切った。憂介が体を翻す。
「俺だってとっくに人を辞めてるさ。ただ、人であろうとするだけだ」
「理解できんな。何故そうも拘る」
「後悔しながら生き続けることが、せめてもの罪滅ぼしだからだよ」
「なら私の眷属になれば、長く生きられるが」
「そういうことじゃあねぇんだよ」
「なら、どういうことだ」
「お前は人類の敵で、生かしちゃおけねぇってことだ」
二秒、蝙蝠たちが集まっていく。三秒、燃えた拳を叩き込む。
「弱点はもう分かってんだよ。くっついた瞬間なら当たるだろ」
四秒、黒戸が燃えて灰になる。五秒、灰が集まり再生する。六秒、元の形に戻ってしまう。
「効かないな、その程度の炎」
「燃やせば再生もできないだろうと思ったんだがな。なら、これはどうだ」
七秒、蝙蝠を掴み凍らせる。八秒、凍ったそれが地に落ちる。
「凍らせれば、再生はできないようだな」
「ほう、氷漬けにしようというわけか」
九秒、腕輪の円錐を回す。ウルドライブ。腕輪が告げる。
「氷の中で、永遠に後悔してろ」
十秒、黒戸の足を氷が止める。しかし、出力が足りない。十一秒、氷が黒戸の膝で止まる。
「なんだ、その程度か。失望したよ」
黒戸に煽られても、これ以上の氷を出すことはできない。それは我が身までも凍らせる、憂介の嫌う捨て身の行為だったから。瞬間、思考する。吸血鬼の弱点とは。空は黒戸の呼び寄せた雲に覆われている。
「そうか」
十二秒、空に向かって拳を振るう。炎と氷が風を生み出し、雲の中に穴を穿った。陽が差し込む。
「やったか」
しかし黒戸は変わらぬ様子で、ニヤニヤと笑っている。
「どういうことだ」
「伝承が真実とは限らない。確かに今だって陽を浴びて、消滅していってはいるよ。それより速く再生しているが」
憂介の中に絶望が走る。そして同時に確信する。他に方法はないのだと。黒戸が蝙蝠に分裂し、上半身だけでも逃げようとする。憂介は腕輪に差し込まれた氷の円錐を回す。何度も、何度も。ウルド・ドドド・ドライブ。腕輪が告げる。
「凍りつけ」
十三秒、辺りが氷に包まれる。安全装置が作動し、腕輪が吹き飛んだ。両者凍りついているが、憂介の左腕だけは生きている。典子の作った安全装置のおかげだと、薄れゆく意識の中で彼は悟った。
「ありがとうな」
瑠璃が家を後にしたところで、凍りついた憂介を見つけた。まだ息はあるらしい。
「どういうことですか、これ」
病院まで運ぼうにも、成人男性を運ぶほどの力はない。
「どうすれば」
その時、人形が動き出す。憂介を持ち上げようとするが、小さな体ではうまくいかない。そして自分の力だけでは厳しいと悟ると、人形は自身の胸を指差した。
「自分の胸に訊いてみろ、ですか」
人形が首を横に振る。
「じゃあ、どういう」
ふと、気づく。彼の胸に刺さっている円錐は、ベルトにも差せるということに。
「すみません、お借りします」
円錐を抜き、人形をしまい込む。それは螺子の円錐、強靭なフランケンシュタインの力を封じたもの。彼女はそれをベルトに差し、回す。スターティング・アップ。ベルトが告げる。
「葬着」
現れた鎧を纏うと、憂介を抱えて走り出した。
気がつくと、憂介は陰陽堂の中にいた。ソファには典子が寝転がっている。
「おい、これはどういうことだ」
「どうもこうも、見たままだよ」
「違う。典子は死んだ」
「そう、死んだ。これは夢なんだ」
「夢なら、覚めなきゃならん。じゃあな」
「つれないなぁ。遊んでよ」
「悪い、そうも言ってられないんだ」
「いいじゃん。今ここにいる以上、今見てるものが現実なんだからさ」
「でも、あんまり支離滅裂だ」
「いいから、いいから。ゴルフしようよ」
「なんでゴルフだよ」
「ほら、時期的にも丁度いいしさ。一週くらい休もうよ」
「ますます分からん。やっぱり夢だ」
頭を抱え、ため息をついた。
運命が絡みつくなら、斬ってしまえばいいだけのこと。
次回「再生と再殺」
君のいない夜を駆ける。
※来週の「怪物たちは夜を駆ける」は全米オープンのためお休みです。




