第十一夜 闇を裂いて
「ありがとうね、餌を誘いこんでくれて」
「父親が娘を助けに来るのは、当然のことだろう。逃げよう」
「だから人を守ると。それは自己満足じゃなくって」
「君が思うほど、僕は面白い人間じゃない」
妖怪、それは人の世に潜む異形の者。
そして人に仇なす妖怪を人知れず始末する彼らもまた、
怪物と呼ばれた──
暗い部屋の中、典子は闇と対話する。
「ようやく、私の願いが叶う。さよなら」
「それは寂しいことだ、そして同時に癪でもある」
「止めても無駄だよ」
「それでも、やれるだけのことはするさ」
典子が鼻で笑う。扉が開き、電灯が点けられた。闇が消え、かわりに憂介が現れる。
「おはよう」
「ん」
彼女は眠そうに返事する。
「畑、行ってくる」
「そうだ」
呼び止める。彼は訝しげに振り向いた。
「今日も仕事入ってたっけ」
「ああ」
「今度、仕事が落ち着いたらさ、何か美味しいもの作ってよ」
「任せろ」
昼になり、一人の来訪者があった。警察の制服を着ている。
「この近くで起こった殺人事件なんですが、どうも妖怪絡みらしいんです。同じ時間、同じ道で異常犯罪が起こっている」
「わかりました、調査しましょう」
「報酬のことですが」
「もらえませんよ、いつも事後処理を任せてしまっているので。本当なら逆に支払わなきゃいけないくらいです」
「賄賂ですか」
「勘弁してください、捕まったら良いご飯が食べられない」
「まあ、いつ捕まってもおかしくないんだけどね」
典子が割り込む。
「守秘義務って知ってるかな」
警官は少し間をおき、答えた。
「綺麗事だけでは、人は救えませんから」
「ああ、これが最善なんだ」
憂介の声は震えていた。
空が藍色に染まりゆく夕方、巧は十字路の中心に立っていた。人通りはない、死んだ街。女が現れる。顔の下半分を手で覆った女は訊く。
「私、綺麗」
「綺麗ですよ」
「これでも、綺麗って言うの」
女が手を外し、裂けた口が露わになる。
「ええ」
「嘘つき、本当は怖いって、気持ち悪いって思ってるんでしょ」
包丁を持って襲いかかるが、彼は一歩も退かない。そしてその背後から、憂介が円錐を突き刺す。封印され、ただの人間に戻った彼女は倒れ込んだ。日が沈んだ闇の中、パトランプの光がサイレンとともに向かってくる。パトカーが停まり、中から昼間の警官が現れた。
「やはり、妖怪でしたか」
「事件の原因は封印しました。これで解決したはずです」
「さて、今度は上にどう説明したもんかな。とりあえずこの子は保護しないと」
彼女を連れ、パトランプが遠ざかっていく。あたりに闇が戻ってきた。と同時に憂介は見た。暗闇の中、静かにこちらを睨む眼を。近づいて正体を確かめようとするが、体が動かない。足元から闇が侵食していく。景色が暗転し、自分以外の何も見えなくなる。
闇の中にいたはずの憂介は、気づくと過ぎ去ったあの日にいた。白髪、白スーツの男が、牛の怪物を封じた場面。彼がその円錐を使い、葬着しようとした場面。そして封印したはずの牛鬼に、体を乗っ取られた場面。
「やめろ」
目を覆いたくても体が動かず、映像は続く。かつての優介が、典子からベルトを受け取る場面。牛鬼と化した彼に、円錐を突き立てる場面。彼の亡骸に駆け寄る場面。優介が師を殺め、人を失ったあの日の映像を見せられていた。視界が再び闇に還る。そして闇の中から、かつて師と仰いだ白髪の男が現れる。襲いかかる彼から身を守るため、憂介は葬着する。モンスター・サプライズド・ユー。ベルトが告げる。
「葬着」
真白な鎧に飛び込んだ。氷で盾を作り、防御する。が、少しずつ押されていく。
「闇を解放しろ。生き抜く力が欲しいならな」
「嫌だね。俺はあんたみたいにはならない」
「なら今ここで死ね」
ついに決定打を入れられ、憂介はダウンする。トドメを刺そうと男が迫るが、力を振り絞り立ち上がった。
「お前は仁さんじゃない。偽物野郎なんかに、情け容赦は要らないよな」
腕輪に円錐を差し、回す。モンスター・サプライズド・ユー。腕輪が告げる。
「重葬」
一秒、足の車輪で加速する。二秒、氷の剣で両断する。
「俺は、力を手にした。闇に頼る必要なんかない」
「素晴らしい、暗闇を切り開くような覚悟だ。が、その力が及ばない時お前はどうするかな」
三秒、あたりの闇が晴れていく。四秒、黒く染まった狼を見つける。五秒、巧がこちらに襲いかかる。六秒、防御するが防ぎきれない。鎧が破壊され、葬着が保てなくなる。憂介は典子の方を向き、問う。
「何が起きた」
「巧が闇に呑まれた」
「闇って、妖怪か。どんなやつなんだ」
「闇そのもの。人の心の闇につけこんで、思いどおりに操る」
「どうすれば元に戻る」
「彼の月にかかった闇を払えば、あるいは」
巧のベルトに、真っ黒なベールがかかっている。そこに飛び込んだのは、動く人形だった。少し遅れて瑠璃が現れる。彼はちょこまかと跳ねまわり、巧を翻弄する。そして闇のベールに触れた瞬間、逆流した闇に染まっていく。人形が地に落ち、それきり動かなくなった。
人形は闇の中にいた。周囲には人の群れ、彼に向かって石を投げつけてくる。怪物は消えろと、呪いのような言葉を吐く。あまりの痛みに暴れ出そうとした時、誰かの声がした。
「お前なんかを殴ったら、あいつの気高い魂が汚れる」
「オイラは」
彼は叫ぶ。
「オイラは、人間だ。怪物じゃない」
と同時に、人々の影が消えていく。そこは元の景色だった。
「巧くん、なんで」
瑠璃が巧へと駆け寄る。巧の反撃を躱そうとするが、避けきれない。拳をぶつけ、それを防いだのは人形だった。彼にかかった闇はすっかり晴れている。巧が怯んだ。その一瞬の隙を突き、闇に手を伸ばす。景色が闇に包まれてゆく。
気がつくと、彼女は暗い部屋にいた。ブラウン管が砂嵐を映し、薄明かりで部屋を照らす。オカルト雑誌が散乱している。窓もドアもない部屋。
「何ですか、ここ」
不安に駆られ、出口を探すも見つからない。ふと、本の一冊の下敷きになった人形を見つける。
「これって」
円錐を差すと、それは動き出す。そして彼は、壁を殴り始めた。何度も、何度も。百回ほど殴ったところで、外界から一条の光が射す。
「ありがとうございます」
彼女はその光を追い、走り出す。はるか遠くの淡い光。走って、どこまでも走って、たどり着いたのは一軒の家だった。自分が何をすべきか、彼女はすでに直感していた。雨樋に掴まり、二階のベランダによじ登る。窓は開いていた。
「お待たせしました」
黒いベールの向こう、満月が輝く。巧の瞳に光が戻る。
「僕は」
返身を解く。
「ありがとう」
「いえ、私がしたかったからこうしただけです」
街の明かりが彼らを照らしていた。
暗い部屋の中、典子は闇と対峙する。
「まったく、いつも余計なことするよね」
「それにしても、闇に呑まれない人間がいるとはな」
「それが人間の強さだよ。だから私は人間に賭けた」
「理解に苦しむよ」
「それはこっちの台詞だよ。妖怪である限り私には勝てない、なんで分かってくれないかな」
それきり闇は沈黙し、声がすることはなかった。
次回、典子編最終回
抗いようもなく、壊れていく日常。
壊してしまってまで、守ることができようか。
次回「百年の狐独」
君のいない夜を駆ける。