前夜 怪物が生まれた日/後夜 黄泉孵る怪物
あまりに強い力を持っていた彼女は、死してなお意識を保っていた。地獄の釜が開き、風と共に流れ出す。懐かしい現世の景色を見て、彼女は思い出していた。
彼女はかつて生きていた。気の遠くなるほど長い時間を。彼女がどこから、どのようにして生まれたか、彼女自身も覚えていない。気がついた時には妖怪で、何よりも強い力を持っていた。はじめのうち、彼女は山に住んでいた。しかしそれも長くは続かない。過ぎた力は恐れを生み、やがて彼女を孤独にしていった。山を降り、人に化け、人として生きていこう。彼女の企みは、やはり上手くいかなかった。人の一生は短すぎる。愛そうにも、憎もうにも、すぐに死んでしまうのだ。ただ無慈悲に時だけが過ぎ、数えきれないほどの季節が巡り、一人の男と出会う。
「君、人間じゃないな」
あまりに鋭い言葉で、彼は彼女を呼び止めた。人波の中、二人だけが止まっている。
「どうして、そう思うんです」
「見ればわかる。これでも、妖怪の研究をしていてね」
「へぇ、すごいですね。その研究のこと、詳しく聞かせてください」
彼は照れたように、薄毛の頭を掻いた。それから二人は小さな建物に向かう。五分ほど歩いたところにそれはあった。
「僕はね、妖怪と人間の架け橋を作りたいんだ。雪女は雪女として、ドロタボウはドロタボウとしてしかこの世界と関われない。それを壊せるかもしれないのがこいつだ」
男は五芒星のベルトと幾つかの円錐を取り出す。
「運命の女神の名前をとって、スクルドライバーと呼んでいる。人間を一時的に半人半妖に変える装置だ。これを使えば、化かす化かされる以外の関係が築けるかもしれない」
「やめてくださいよ。化かすつもりなんてないのに」
「ごめんごめん、話を戻そうか。これは、下級霊の力を封じたもの。これを差せば」
そう言うと彼はベルトを巻き、円錐を差し込み回す。天板の人魂が回転する。スターティング・アップ。ベルトが告げる。
「葬着」
現れた鎧に飛び込む。白く透明で不完全な姿。
「さらに、こうすれば」
円錐を回転させる。フルドライブ。ベルトが告げると同時に、彼の全身に電流のようなものが駆け巡る。その痛みに耐えきれず、ベルトを外した。
「この機能はまだ不完全なんだけど、さらに融合率を上げることができるかもしれない」
「あの」
彼女は考えた。人と妖怪を繋ぐもの、人と妖怪が混ざり合った何かを生み出す機械。これなら、私を殺すに足るかもしれないと。
「私を、弟子にしてください」
「いいよ。ちょうど寂しくなったところだったんだ」
「ありがとうございます」
「そういえば、名前は」
彼女は考え込み、それから口を開く。
「たしか、天狐って呼ばれてました」
「テンコ、かぁ。じゃあ辞典の典に子供の子で典子ってどう。その方がきっと色々と都合いい」
「好きに呼んでいいですよ」
「そうそう、僕は君島繋。よろしく」
彼女は人真似が得意だった。一度見ただけで手順を覚え、三日目にはすっかり師匠に追いついていた。
「本当にすごいよ、この短期間で」
「ありがとうございます」
「恵まれてるなぁ、ウチには才能ある奴が集まってくる。学会では狂人扱いされてる僕なのに」
「他にもいるんですか」
「ああ、君が来る少し前まではね。まあ今では破門したから、他人なんだけどさ」
「破門って、いったい何が」
「あいつは技術こそ優れていたが、やり方があまりに過激だった。そして奴は、人体実験に手を出した」
彼の表情は暗く、声は震えている。
「僕たちが研究するのは知識欲を満たすためでも、誰かを傷つけるためでもない。誰かを救うためだ。それでも、科学は時に人を傷つける。だから、決して間違わないでくれ。間違うような奴に、科学を奪われないでくれ」
彼女もまた彼の技術を悪用しようとする一人だったが、嘘に慣れきった心は動かない。それでも、この暮らしが嫌いではなかった。ひどく脆く、すぐに崩れた平穏が。
またある日のこと、出かけていた彼が帰ってくる。なぜか全身が泥まみれだった。
「街で悪さをしていた狐を捕まえてきたんだ。ちょっと手こずっちゃったけど、いいサンプルがとれた」
手には、天板に狐が象られた円錐が握られている。
「さっそく実験しようか」
「その前に着替えましょうか」
と、玄関のドアが叩かれる。彼が応対し、その後ろで彼女は見ていた。来訪者はごく冷静に、淡々と何事かを告げる。彼の怒鳴り声が聞こえた。そしてついに、取っ組み合いの喧嘩になる。破裂音が鳴った。彼が倒れ、その奥に煙を吐く黒鉄が見えた。倒れ込んだ彼の眼に、もはや光はない。血がドクドクと流れる。数えきれない「死」を見てきた彼女は、胸を痛めても涙が出ない。その代わりに、叫んだ。
「師匠を、返せよ」
殺気に気づいた来訪者は、外に停めてあった車を発進させる。彼女はそれを追うが、届かない。静かになった家へと帰る。彼を埋葬し、ベルトと円錐を持って歩き出した。彼女の中にあるのは、彼の後を追って死んでしまいたいという感情だけ。彼の握っていた狐の円錐だけが無くなっていた。
それから彼女は、もう一人の男と出会う。霊能者を名乗る、丸腰で妖怪と戦う男。あの時、彼にベルトを貸したのは間違っていたのだろうか。消えそうな意識で彼女は考える。きっと間違っていたのだろう、すべては自分のためだったのだから。それでも、運命は廻りはじめた。できるのは祈ることだけ。
「まあ、あいつらなら大丈夫でしょ」
夕焼けに照らされた田園を、一台のパトカーが走り抜けてゆく。そして一軒の建物の前で停まった。「陰陽堂」の看板が出された建物。警官は車を降り、入口への階段を駆け上がる。扉を開くと、中には二人の男がいた。一人は杖をついた黒服の男、もう一人はローブをまとった男。ローブの隙間から、毛むくじゃらの皮膚がのぞいている。黒服が口を開いた。
「それで、どのようなご用件で」
「テレビ局がジャックされました」
「それは警察の仕事ではないんですか」
「それがどうにも人間業じゃないらしいのです。どうやら犯人は単独で制圧したらしく、そのうえ入口に巨大な蜘蛛の巣が張られていて」
「それが破れない、と」
「はい。突入することもできず、犯人からの声明もなく、事態は膠着しています」
「分かりました、行きましょう」
二人は立ち上がり、奥のエレベーターに向かう。それを見た警官が言った。
「ずいぶん羽振りがいいんですね」
「バリアフリーってやつですよ。必要な投資です」
三人はエレベーターに乗った。警官が口を開く。
「そういえば、世間はお盆なんですよね。忙しくて忘れそうになりますが」
「むしろウチとしては書き入れ時なんですよ、不謹慎ですが。お盆は死んだ魂が帰ってくる、幽霊がよく出る時期ですからね」
「なるほど」
エレベーターが到着し、一階のガレージに降りた。黒服は左手で義手を付け替え、バイクに跨る。そのままバイクを発進させ、テレビ局へと向かった。ローブを脱ぎ捨てた彼も、後を追って駆けだす。それを見届けた警官はパトカーに乗り込み、同じ方角へ向かっていった。
到着した男はバイクを降りた。義手を付け替えると、ベルトに円錐を差し込み回す。車輪の円錐が回転する。モンスター・サプライズド・ユー。ベルトが告げる。
「葬着」
現れた鎧へと歩いてゆく。熱く攻撃的な姿。燃える車輪に乗り、屋上に乗り上げた。円錐を差し替え、カマキリの円錐を回す。鎌になった左手で、床に円形の穴を開けた。再び車輪の円錐に差し替え、車輪に乗って穴から降りる。そこかしこに蜘蛛の巣が張り、人が絡めとられていた。
「燃やすのは、ちと不味いか」
カマキリの円錐に変え、鎌から衝撃波を出して蜘蛛の巣を切り裂く。蜘蛛の巣の多い方にゆっくりと進む。と、爆弾を見つける。
「物騒なものを」
氷の円錐に変え、爆弾を凍らせた。壁に掲示された地図を見つける。
「スタジオは、あっちか」
「ちょっと、憂介さん。置いてかないでくださいよ」
後ろからローブの男が走ってくる。
「やっと来たか、巧」
追いついたところで、二人は歩き出した。突然、体から力が抜け倒れ込む。意識が途切れる瞬間、モニターに映された魔方陣を見た。
同時刻、街の至る所でテレビに魔方陣が映された。そして地上に生きている全ての者が倒れ、跡形もなく消えた。消えた彼らの代わりに現れたのは、かつて生きていた者たち。スタジオの中、彼は告げる。
「やっと会えますね、師匠」
スタジオを出て、屋上から街を見渡す。それから何かを見つけると、街へと出ていった。一人の中年のもとへ駆け寄り、話しかける。
「師匠、お久しぶりです」
「相田、何故こんなことをした」
相田は怒鳴られ、胸ぐらを掴まれた。
「だから、誤解ですって。師匠を殺したのは僕じゃなく、あれを悪用しようとしてた勢力がいたんですよ」
「そうじゃない、今のこの状況だ。死者を蘇らせるために、何人の生者を犠牲にした」
「そんなの、いいじゃないですか。今こうして会えたんだから」
「だからお前は駄目なんだ」
殴られ、吹き飛ばされる。相田は拳銃を取り出し、銃身に蜘蛛の円錐を差し込んだ。
「わからないなら、いいです。わかってくれるまで待ちます」
蜘蛛の巣を撃ちだし、師匠と呼ばれた男を捕まえる。そのまま攫おうとするところに白髪の男、仁が立ちはだかった。
「おいおい、人さらいは犯罪だぜ」
「こんな状況で司法が働くと思うのか」
「だが、俺が見てる。そういうのは見逃せないタチなんでね」
走り出す仁を、相田が迎え撃つ。飛びのいて躱し、銃弾が辺りの地面やビルの壁に当たった。着弾地点に蜘蛛の巣が広がり、背後が塞がっていく。
「これで逃げられないだろう」
「逃げられないなら、ぶっ飛ばすまで」
仁は振りかぶり、踏み込む。その瞬間、相田が銃身を引いた。銃の先端から尖ったものが露わになる。それを自らの腕に突き刺し、円錐を回した。ラニング・オン。銃が告げる。
「Fit gears.(ギアよ、我がもとに集え)」
彼の身体に、蜘蛛の鎧が融合する。八本の足でカサカサと動き、仁の後ろに回った。そのまま糸で絡めとる。
「くそ、動かねぇ。やっぱ俺じゃ駄目か」
「いいや、よくやったよ」
典子が飛んできた。尻尾を飛ばし、糸を切り裂く。そのまま尻尾を相田に刺そうとするが、蜘蛛の巣の弾丸で迎え撃つ。尻尾が動かせなくなり、そのまま逃げ去ろうとした相田の前に巧と憂介が現れた。
時刻は少し遡る。巧が目を覚ますと、どこか知らない世界にいた。釜茹で、血の池、針の山、そこはまさに地獄と言うべき場所。辺り一面に倒れている人の中に、憂介を見つける。
「悪い、起き上がるのを手伝ってくれ」
巧の手をとり、憂介が立ち上がったところで鬼が来る。
「お前ら何をしている。地獄服はどうした」
「地獄服、ですか」
巧は困惑した様子で返答する。
「地獄に私物は持ち込めないはず、それは私服も同じだ。なぜ裸で地獄に落ちてこなかった」
「どういうことですか、ここは地獄なんですか。僕ら、死んだんですか」
「私だって分からない」
両者ともに困ってしまって何も言えない。沈黙を破ったのは憂介だった。
「落ち着け、巧。何が起き、何を見たかを整理しよう」
「確か、テレビ局で倒れましたよね。その時に変な模様を見た気がします」
「ああ、あれは西洋の黒魔術に使われるものだ。いわゆる魔方陣の一種だな。奴がテレビ局をジャックしたのが、街中のテレビに魔方陣を映すためだったとしたら」
「とんでもない魔法が使える」
憂介は首肯すると、鬼の方を向き尋ねた。
「あの、そこの鬼のお方。何か失くなったものはありませんか。黒魔術は何かを犠牲に何かを得る術、おそらく私たちは何かを現界させる生贄にされた」
「そういえば、元々死んでいた奴らがいなくなっている」
「わかりました。それともう一つ、どうしたら地上に戻れますか」
「この時期なら地獄の釜が開いているから、霊体なら簡単に出られる」
「しかし、私たちは実体がある」
「大丈夫だ。あの山のてっぺんからなら出口に届く」
「わかりました、ありがとうございます」
憂介は葬着し、車輪に乗って飛んでいく。跳躍した巧が車輪に掴まり、二人は地獄を脱することに成功したのだった。
現れた二人に、蜘蛛が襲いかかる。跳躍する巧、糸を這う相田。両者の速度は互角。迫る狼を蜘蛛の糸が迎え撃つ。巧は紙一重で躱すが、それ以上近づけない。
「どうすれば、どうすればいい」
「大人しく退いてくれればいい。今なら八つ裂きで許す」
「そうはいかないんだよ」
懐に入ろうとする巧に、相田が喰らいつく。振り払うと歯型がついていた。
「毒を流し込んだ。じきに動けなくなる」
「ならその前に倒す」
しかし毒は回りはじめていたようで、巧が目眩を起こす。その一瞬の隙に、蜘蛛の巣弾を撃ち込まれた。手足に絡みついて身動きがとれない。
「憂介さん、この巣をどうにかしてください」
「そうまで絡みつかれたら、焼くのは少し危険だな。なら」
葬着し、巧を巻き込まないよう慎重に糸を切る。
「すみません、あとはお願いします。蜘蛛の巣を焼き払える憂介さんの方が有利なはず」
「いや、今の俺じゃ奴のスピードには追いつけない」
「なら」
「こうすればいい」
憂介は葬着を解き、ベルトと車輪の円錐を手渡した。巧はそれを受け取り、ベルトを巻く。車輪の円錐を差し込み、回す。モンスター・サプライズド・ユー。ベルトが告げる。
「葬着」
鎧に飛び込む。燃える狼が、蜘蛛へと突っ込んでいく。蜘蛛の巣弾を焼き払い、思いきり殴り飛ばした。銃が彼の手を離れ、元の姿に戻る。相田はすでに気絶していた。
「一件落着、かな」
体の制御が効かなくなった巧が倒れこむ。
「どうやらここまでみたいです」
「巧、気を確かに持ってろ」
そう言うと憂介は相田の銃を拾い上げ、自らの体に刺した。蜘蛛の円錐を回す。ラニング・オン。銃が告げる。
「Feel guts.(勇気なら胸の中にあるはずだろ)」
憂介の体に、蜘蛛の鎧が融合する。
「奴は自らの毒に倒れなかった。そう、奴の体内には解毒物質があってしかるべきなんだよ」
巧に噛みつく。すると、体の痺れが抜けていった。
「さあ、テレビ局に向かおう」
「はい」
巧が立ち上がると、憂介は典子に手を振った。
「じゃあな。地獄でも元気でな」
「早く来てね」
「こっちの用事が済んだらな」
「では、また」
巧も遅れて挨拶する。憂介が、足元に転がっている仁を見つけた。
「仁さんも、お元気で」
そして歩き出す。ふと、巧は目の端に誰かを見つける。それは死んでしまった、彼が殺めてしまった、彼の幼馴染。
「すみません、憂介さん。先に行っててください」
「どうした、会いたい人でもいたか」
「はい、ちょっと」
「ゆっくり話してこいよ」
憂介が去るのを見届け、彼は彼女へ駆け寄る。
「アキ、久しぶり」
彼女の言葉は、彼の想像したものとは違っていた。
「来ないで、化け物」
怯えた表情で逃げ去っていく。それを追う気力もなく、とぼとぼとテレビ局の方へ歩いていった。
世界が、元に戻りはじめる。次々と倒れていく死者の中で、アキは呟いた。
「さよなら、巧。こうでもしないと、ずっとこのままがいいなんて言い出しそうだからさ」
意識が途切れ、地の底へと還っていった。