第一夜 運命の車輪
妖怪、それは人の世に潜む異形の者。
そして人に仇なす妖怪を人知れず始末する彼らもまた、
怪物と呼ばれた──
少年と少女は堤防に腰かけ、夕日を背にして海を見ていた。熱を帯びた頰を、潮風が優しく撫でる。夏が過ぎ、暑さはすっかり影を潜めていた。少女が切り出す。
「もうすぐ日が暮れるね。今日は満月なんだって」
「ごめん、もう帰らないと。日が沈む前に」
「行かないで」
立ち去ろうとする彼の手を取り、彼女は続ける。
「今、ここで言わなきゃならないことがあるから」
「じゃあ、今言ってよ」
「今夜は月が綺麗ですね、って言いたかったんだけどなぁ。好き、巧のことが好き」
驚きと動揺に、しばし彼は言葉を失う。
「えっと、あの、それは」
「ようやく言えた。思ってたのとは違う形だったけど」
彼の表情が怯えに変わっていることに、彼女は気づかない。日が完全に隠れ、月が妖しく輝く。彼は慌てて目を覆うが、その時にはすでに遅かった。彼は一瞬のうちに獣に変貌してしまったのだ。
夜が明けた。港には二人の男女が立っている。男が呟いた。
「こりゃひどい」
一人の少女の水死体が引き揚げられた。それだけなら不幸な事故として処理されたのだが、そうはいかない。遺体が凄まじい力で引き裂かれていたのだ。それはまるで、巨大な獣に襲われたように。そういうわけで、怪異の専門家であるところの彼らが呼び出されたのだった。細長い身体を震わせている喪服の男に、幼いが落ち着き払った白衣の女が言う。
「ひどいって、いい加減慣れないの」
「何度見たって怖いもんは怖いし、辛いもんは辛い」
「憂介が怖がりなのは知ってるけどさぁ。そう毎回毎回震えられても目障りだよ」
「じゃあそれにも慣れてくれ。大事なのは事件を解決することだろ、典子」
「それもそうだね。彼女が消えた日は満月が出ていた。これはおそらく狼男の仕業。満月を避けて暮らす彼らがその日その場所にいたのには、ただならぬ事情があったんだろうね」
「事情って」
「それは犯人だけが知ってること」
頭脳労働は典子の担当だったが、人の心には疎かった。少し考え込んだ後に憂介が言う。
「どうしてもそこにいたかったから、だろうな。例えば被害者のことが好きだったとか」
「どういうこと」
「好きな人とは、いつまでも一緒にいたいものだろ。で、そうこうしてるうちに夜が来たと」
「何それ、もしかして実体験」
「一般論だよ。俺なんかはむしろ逆で、好きな人ほど近づけない。傷つけてしまうのが怖くて」
「ということは、こんなに近くにいる私のことは嫌いなの」
「もちろん」
と、一人の少年が彼らの方に向かってくる。
「アキが、見つかったんですか」
「遺体でね。ご愁傷様」
彼は自分の心を整理するように、慎重に言葉を選ぶ。
「どんな様子でした」
「傷だらけで、それはもうひどい有様だった」
少年が言葉を失ったところで、典子は問い返す。
「どういう関係だったの、あの子と」
「幼馴染でした。でもそれだけじゃなくて、好きでした」
「この場所にはよく来てたの」
「はい、よく二人で海を見ていました」
「三日前の夜、何をしていたか教えて」
「すみません、よく覚えてないんです」
「そう、ありがとう」
話を切り上げようとしたところで、少年は言い放った。
「どうして、アキは死ななきゃいけなかったんですか」
典子が何か言おうとしたのを察し、憂介が割って入る。
「はい、とても残念です」
「そうじゃなくて、あなたがた警察じゃないですよね」
「いえ、公的な捜査です」
「そんな妙な格好の警察がいますか。アキの死に、何か普通じゃないところがあったんでしょう」
少年に詰め寄られ、憂介はたじろぐ。
「わかりました、本当のことをお話しします。彼女は何者かに殺されました。それも人間ではない何者かに」
「どういうことですか。あるんですか、そんなこと」
「はい。どうしたら信じていただけますか」
「そうですね、例えば」
「長い」
しびれを切らした典子が、少年に円錐形の部品を突き刺す。
「おい、それ、大丈夫なのかよ」
「大丈夫でしょ。人ひとり殺しても日常に戻れるくらいなんだから、ここに放置しといてもいいって」
「そういう問題じゃないだろ。もしただの人間だったらどうするんだよ」
「もし普通の人に刺しても、気を失うだけ。それに」
円錐の天板は、満月のように輝いていた。
「私の勘は、当たってたみたいだしね」
雨が降り始める。
少年を、巧を車に担ぎ込み、憂介が発進させる。
「何か、暑くない」
「エアコンつけようか」
「あと、焦げくさい」
バックミラーから異変に気付く。この車が燃えているのだ。
「降りろ」
憂介は素早く車を停め、後部座席から巧を引きずり出す。典子は銃を構え、何者かの襲撃に備えている。さびれた町の上空に、燃えて回転する車輪が笑っていた。
「輪入道。気をつけて、ヤツは姿を見た人間の魂を奪いに来る」
典子が数回発砲するが、すぐに当たらないことを悟った。彼女は円錐を差し出し、憂介がそれを受け取る。眼の描かれた三角形のバックル、その中心に円錐を差し込み回転させる。モンスター・サプライズド・ユー。ベルトが告げる。
「葬着」
天板の満月が輝く。空間上に鎧が現れ、そこに彼は飛び込む。封じた妖怪の力を自らのものにする、それが彼らの戦い方。憂介が振り向き言う。
「その少年を連れて、逃げてくれ」
「そんなに強いの」
「いや、だが万一のことがあったら困る」
「わかった。生きて帰ってきてね、ベルトと実戦データを持って」
「やっぱりそっちかよ」
巧を背負い、彼女は歩き出した。
輪入道が急降下し向かってくる。憂介は間一髪でかわすが、反撃を入れることができない。空中を漂うそれをめがけて跳躍し、振るう拳は空を切って落ちる。お互いに仕掛けても決定打は入らない、一進一退の攻防。そして、四分四四秒が経ったところで均衡が崩れた。ベルトが弾け飛び、元の姿に戻されてしまう。葬着できる時間を超えると強制解除されてしまうのだ。
「万事休す、か」
巧が目を覚ます。
「ここは」
「逃げてるの。ちょっとまずいことになってね」
「確か、妙な器具で気絶させられて」
「仕方なかったの。そうするしかなかった」
「お前、敵だな」
そう言って彼は逃げ出す。そして逃げた先には、宙を舞う車輪から逃げ回る男がいた。
「駄目」
典子が追いかけ止めようとしたが、その時には遅かった。輪入道が、巧の方に飛んでくる。本能的にそうしたのだろうか、彼は落ちていたベルトを巻き、円錐を差し込み回転させた。満月が輝き、鎧が体に纏わりつく。
「それを使ったら、人に戻れなくなる」
彼女の叫びも、もう届いていない。モンスター・サプライズド・ユー。ベルトが告げる。
「返身」
ベルトの満月を通じて、彼の中に狼としての記憶が流れ込む。毛に覆われた身体に、鋭い爪と牙。足元の水たまりに映った姿は、獰猛な狼そのものだった。咆哮が響く。それは威嚇とも嘆きともつかないものだった。ただならぬものを感じ、輪入道が上方に飛びのく。狼はひと跳びのうちにそれを捕まえる。重さに耐えきれず落ちる車輪に、憂介が空の円錐を突き刺す。天板が車輪の形に変わっていき、辺りの火が消える。後に残ったのは古びた車輪だけ。何事もなかったかのように怪異は封印されたのだ。憂介が苦い顔で呟く。
「厄介なことになっちまった」
ベルトを外し、巧は言う。
「全て、理解しました。僕のせいだったんですね。だから償わせてください。この力を、正しいことに使わせてください」
「こっちは地獄だ。多くのものを失うし、奪うことにもなる」
憂介の言葉には、苦しみが滲んでいた。
「それでもいい。このまま日常に戻るなんて、そんなことはできないから」
「なら否定はしない。が、こいつは預けておけない」
ベルトを引ったくり、その代わりに四つ折りの紙片を投げる。二人は車に乗り込み、そのまま走り去ってしまった。巧が紙片を拾い上げる。そこには地図が書かれていた。
二段ベッドの下から、三つ下の妹が巧に問いかける。
「お兄ちゃん、大丈夫」
「大丈夫だよ。そりゃ辛いけど」
「ほら、お兄ちゃん変に真面目だからさ。自分だけ幸せになったらアキさんに悪いとか言って、自分の人生を棒に振りそうで」
「しないよ」
闇の中に沈黙が流れる。
「もし、僕が」
反応はなく、寝息だけが聞こえる。彼女はすでに眠っているらしかった。
自分の罪に凍えるならば、誰かのために身を焦がせ。
次回「雪ぐ罪」
君のいない夜を駆ける。