第四部 幻想の箱庭に咲く華《三》
誰もいなくなった宿坊の中に響き渡るのは、玄奘の双剣と女の剣鞭がぶつかり合う音のみ。
女は前方が剣であるにも拘わらず、鞭をぐるぐると旋回させつつ確実に一瞬の隙をみて、玄奘に攻撃を仕掛ける。彩蝶双飛と言われるその技は、身体の左右それぞれの側で旋回する鞭が、蝶が花の間を舞うさまに似ていることから名付けられている。
柔軟な本体である鞭を使用しているにも拘わらず、その動きはあたかも棒状の武器を回転させているようにも見え、すばやい回転は相手の幻惑を誘い、また攻撃力へも生かすことができるのだ。
この女の力は周囲に同化する。だとすれば、今のこの女の力は自分と同じだ。とは言え、若い女の身でありながらここ迄容易く鞭を使えるとは。鞭だけでなく、剣の腕前も相当なものだ。この歳で、どれだけの特訓を受けてきたのか。だが、
「潜り抜けできた修羅場の数が違う」
自分が今まで歩いてきた道のりを想い、玄奘が呟いたその時
「お前のようにぬくぬくと庇護されてきた者に、身を削りながら生きてきた私達が、負けるはずがない!」
と、女が言った。そう、本当にこの女達は、身を削りながら生きてきた。身を削り取られながら息絶えた弟。自分に斑としての力、“周囲と同化する” この力があるともっと早くわかっていれば、弟は生きていられたかもしれない。いいえ、死なせはしなかったのに。
「ぬくぬくと庇護、だと」
玄奘は、目の前に立つ女を見た。自分は、御師匠様と兄弟子達の血の上に成り立っているのだ。だから、自らが血濡れることを厭わない。
「ぬくぬくと、庇護…か」
玄奘は、乾いた笑いを浮かべた。
「玄奘三蔵、お前の首を取る。そして、天上の桜の鍵を貰うわ」
この世界は力がすべて。力さえあれば、栄耀栄華は思いのまま。望む世界を、望むものを、すべて手に入れることができる。
それが、天上の桜を手に入れることにかかっているのだとしたら、それを手に入れるために手段は選ばない。女は、鞭を握り直し玄奘を見た。そして
「参る」
そう言うと、女の鞭の剣先が玄奘の身体目掛けて放たれた。
「ぴゅ」
そのたった一鳴きに、“うわ〜、立派な観世音菩薩だね” と言いきった玉龍は、供え物が置かれた長い台の上に乗り、光輝く観世音菩薩の仏像を見た。
中央に置かれた長い線香には火がついており、辺りは線香の香りに包まれている。宿坊では激しい戦いが繰り広げられ、人々は命からがら逃げているだろうに、此処は何事もなく静かで、まるで別世界のようだ。
どれくらいの時を置いてか、琉格泉がするりと入ってきた。そして間を置かずして、八戒と悟浄が白水観の黄丁香と数人の弟子達を連れて入ってくる。
「沙麼蘿」
「連れてきたぞ」
八戒と悟浄の言葉に、観世音菩薩の仏像を見つめていた沙麼蘿はそっと振り返り
「鼠が、また増えた」
と、言った。この道観には、少し離れた場所とはいえ孤児院もある。
「全員を、何処かに避難させた方が」
そう問いかけた八戒に
「適は少数精鋭、狙いは玄奘のみ。黄丁香と李緑松以外は、人質に取る気はない。それ以外には玄奘の心は動かない、そうわかっている」
そう、敵の数は少数だ。玄奘のいる場所以外に、奴らがやってくるとすれば此処のみ。こちらの方が守りやすい。
二手に別れることにはなるが、この翡翠観と丁香の白水観には護りがいる。此れからも、天上の桜の鍵を手に入れるため、緑松と丁香を人質に取らないと、誰が言いきれる。
だから、二つの道観には護りがいるのだ。おいそれと、この場に入ることが出来ない護りが。沙麼蘿は、じっと観世音菩薩の仏像を見た。
「玄奘と緑松は、大丈夫なのかい」
丁香達は、翡翠観の前までたどり着き長い階段を上ろうとした所で、大神と会った。その後、緑松の所へ向かった玄奘と悟空と別れ、丁香の所へやってきた悟浄と八戒に連れられ、裏から翡翠観に案内され今に至る。
此処にくる道すがら簡単な今の状況は聞いたのだが、二人はどうなっているのか。
「今の所は、な。だが心配はない、悟浄と八戒が行く」
「玄奘と揃いも揃って人使いが荒い」
「行きますよ、悟浄」
あの時、離れを出た悟浄と八戒は玄奘から “黄道士を頼む” と言われ、丁香の元へ急ぎ向かい守りながら此処へ連れてきた。だが、沙麼蘿は事もなげに “行け” と言う。
そして、出て行った悟浄と八戒と入れ替わるように、悟空が緑松と数名の弟子を連れて駆け込んできた。
「遅くなった。でも参拝者の避難と、お弟子の人達の避難も終わった! オレ、玄奘の所に行ってくる」
今きたかとおもえば、悟空は直ぐ様踵を返し、さっさとこの場を後にする。
「丁香、此方に来ていたのか」
「あぁ、緑松は無事だったかい」
「何とか、な。御使い様」
この場に来て丁香と無事を確認しあった緑松は、沙麼蘿を見つめた。
「この翡翠観と白水観には護りが必要だ」
事あるごとに、翡翠観と白水観を狙われ人質として取られては、余計な手間が増えるばかりだ。
「しかし、如何にして」
緑松の言葉に、沙麼蘿は静かに口角をあげ供え物が置かれた台を飛び越えると、
「こうしてだ」
と、高く上げた右の腕を観世音菩薩の仏像の胸元に振り下ろし、飾りつけられていた瓔珞をその手で掴んだ。
容易い→わけなくできるさま、容易である、やさしい
修羅場→血みどろの激しい戦いや争いの行われる場所。しゅらじょう
庇護→弱い立場のものをかばって守ること
乾いた笑み→人間味や人情の温かみを感じさせない笑みや笑い声。冷たい感じの笑い方などを形容する表現
栄耀栄華→今を盛りと時めくこと、また非常にぜいたくなこと
参る→「行く」「来る」の意の謙譲語、「行く」「来る」の意の丁寧語
精鋭→強くて、勢いのいいこと。また、そのさま。えり抜きのすぐれた人・兵士
踵→かかと
如何に→状態などについての疑問を表す。どのように、どんなふうに
次回投稿は23日か24日が目標です。




