いつかのあの日《二》
現れた神剣を握りしめ、沙麼蘿はその漆黒の闇に足末を踏み入れた。
一瞬、沙麼蘿の灰簾石色の長い髪が白金に輝き、同じく灰簾石色の双眸が紅色に変わったような気がした。
足を進めた先には、幾つもの遺骸。すべてが皆、太い竹槍のような物で、身体中を貫かれたような跡があった。音も色すらもないこの漆黒の闇の中で、すべてが見通せるのは、この鬼神の目のためか。
闇の奥深くに、蠢く核がある。
血濡れた天蓬、捲簾、金蝉子も、幾多の攻撃をその身に受けたのか。
この足元に広がる三人の赤紅の海は、まさに泥犂の様。
『ナタ……』
少し離れた、奥に倒れるナタの右手の指先が、微かに動いた気がした。
「ナタ―――!!」
その名を声に出したとたん、鋭く尖った漆黒の太い竹槍のような物が、幾多となく核から現れ、えもいわれぬ速さで押し寄せてきた。沙麼蘿は自らの剣を使い、舞うようにしてそれらを次々と薙ぎ払う。
「ナタ!!」
先に進むことができない程の攻撃。
ナタが右手で己の剣を握りしめ、その剣を地面に突き立てた。そして、上半身を起こし片膝をついて、面を上げる。何かを訴えるように唇を動かそうとするナタを、沙麼蘿は左手の掌を見せることで制した。
核の攻撃は、音のした方へ向けられる。それは、足音でも声でもいい。鬼神の血をひく沙麼蘿の足音はほぼないが、自らが舞い踊るように動き回ることで、ナタへの攻撃を防ぐ。
そんな中、沙麼蘿とナタの双眸が重なり合った。見つめたナタの睛眸にはまだ力があったが、身体は傷だらけで幾つも貫かれた跡があり、左の腕はだらりと垂れ下がり、僅に肩と繋がっているだけに見えた。それでもナタは、立ち上がろうとしていた。
それを見た沙麼蘿は口角を上げ、漆黒に包まれた天を見上げた。
そして、ふっとナタを見て一笑すると、剣を持っていた右手を高く掲げた。
それを見たナタは、驚いたように双眸を見開く。
『駄目だ』
と、その唇が動いた。
「来い、氷龍!!」
沙麼蘿の声に応えるように、氷の粒子が剣の真上に集まり始める。氷龍が現れるまでは僅の間しかない。
だが、しかし……。
その一瞬のすべてを氷龍召還に注ぎ込むことになる。無論その間、自らの周りに結界を張るが、魔相手には力足らずになることは目に見えていた。
それでも沙麼蘿は、迷いなく一笑して氷龍を呼んだ。まるで、そのすべての結果がわかりきっているかのように。
渦を巻き集まる粒子。そしてそれが龍の形に変化し始めたとき、幾つもの漆黒の太い竹槍が結界を突き破り、沙麼蘿の身体を貫いた。
「ナタ、核を……潰せ!! 核だ、ナタ!!」
沙麼蘿の声が、この漆黒の闇の中に響き渡った。
ナタは、唇をギュッと噛みしめると、自らの役目を感じ取り、重い身体を引きずるようにして核の元へと向かった。
氷龍が、凄まじい鳴き声をあげて出現する。
「食らい尽くせ、氷龍!!」
沙麼蘿の頭上に現れた氷龍は、氷の粒子を撒き散らしながら、漆黒の闇のすべてを氷で覆い尽くしていく。
掲げた右手が震え、その力が弱っていく。
『あと……少し。氷龍が、闇のすべてを氷尽くすまで……。ナタが核を打つ、その時まで……』
朦朧としてくる意識の中、氷龍がすべての闇を氷で覆い尽くした。その瞬間、沙麼蘿の手から神剣が滑り落ちる。すると、瞬く間に氷龍は粒子へと戻り消えていった。
氷龍に向けられていた沙麼蘿の氣が、一気に身体中を駆け巡る。
途端、沙麼蘿の身体から大量の赤紅が天華の花びらが舞い散るように踊り出た。そして、沙麼蘿の血を浴びた漆黒の竹槍や足元の暗闇が、悲鳴をあげ消え去っていく。赤紅が舞い落ちたその場所だけが、元の象牙色の石畳に戻っていた。
生けるものすべての命を奪い、草木さえ生えぬ土地にすると言われた、沙麼蘿の血である。
鬼神と聖神がまみえた結果生まれた、心を持たず命を奪う血を持った沙麼蘿。赤紅が広がり、力尽きたように沙麼蘿は後方へと崩れ落ちた。流れ出る赤紅が辺り一面を染め上げ、近くにあった天蓬、捲簾、金蝉子の赤紅と混ざりあった。
「沙麼蘿―――!! どうした、何があったというんだ!!」
赤紅の海の中、その人は迷うことなく足を進めた。そして沙麼蘿の側まで走り寄ると、自らの萌黄色の衣が血に染まることも厭わずに、両膝をつき右手をさしだしてその身体を抱き抱えた。
「すめ……ら……ぎ……」
赤紅に染まった震える右手をあげ、沙麼蘿は皇の頰にそっと触れた。
すべての命を奪うと言われたこの血に触れても、長逝しなかった人。睛眸と睛眸を合わせも、倒れなかった人。
「皇……、生きて……幸せに……なって……。この……、世界……で……」
沙麼蘿の手が、力なく落ちそうになる。
「いくな!! 頼む…、沙麼蘿!!」
皇の、見開かれた双眸から溢れでた大粒の泪が、沙麼蘿の頰桁に、ポロリと落ちた。沙麼蘿が見上げた皇の双眸に映るその姿は、もはや皇や聖宮と同じ色をした姿ではなかった。髪は灰簾石色から白金に変わり、睛眸は紅色だった。そこにあったのは生まれながらの鬼神の姿、偽りの姿を保つことすらもうできないのだ。
その時、咆哮が聞こえ、何かがパリンと割れる音がした。周りにあった氷で覆われた漆黒の闇はひび割れ、霧散した。ナタが、核を潰し消滅させたのだろう。
闇が消え去って見えたのは、美しい蒼穹。そしてその蒼穹に、あるはずのない桜の大木が見えた。皇が住む離宮にある、あの桜の木。沙麼蘿は、桜に向かって指先を伸ばした。
『あぁ……、おね…がい……。どう……か、皇を……まも…って……。天……上の……さく……ら……よ……』
生まれて初めて、沙麼蘿の双眸から、一筋の泪がこぼれ落ちた。そして、桜に伸ばしていたその指先が、石畳の上にポトリと落ちた。
「沙麼蘿!! 沙麼蘿―――!!」
皇の呼号だけが、その場に響きわたっていた。
足末→足の先
灰簾石→タンザナイト
双眸→両方のひとみ
遺骸→なきがら
面→かお・顔面
睛眸→ひとみ
腕→うで
一笑→にっこりする・ちょっと笑う
朦朧→ぼんやりとかすんで、はっきり見えないさま・意識が確かでないさま
氣→気
天華→天上に咲く霊妙な花
象牙色→黄みのうすい灰色
萌黄色→春先に萌え出る若葉のような、さえた黄緑色
長逝→死去すること
頰桁→ほお骨・ほお
咆哮→獣などがたけり叫ぶこと
霧散→霧が晴れるように跡形もなく消える
呼号→大きな声で呼びさけぶ