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天上の桜   作者: 乃平 悠鼓
第一章
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第二部 白木蓮の女怪《三》

御師匠様(おっしょうさま)、すべての準備が調いました』

『そうか、小坊主達は』

『今、此方(こちら)にまいります』


 あぁ、これはあの日の夢だ。玄奘はそう思った。十五年前、金山寺を旅立つ日の、御師匠様と兄弟子(あにでし)達の様子だ。厳しくも穏やかで幸せだった日々、胸元をかきむしるような苦痛など存在しなかった日々のことだ。


『早くにすまないね、皆』


 起床時間よりも一時間以上も早く兄弟子達に起こされ、旅の装束(しょうぞく)を着せられた小坊主三人。一人は七歳、一人は八歳は、そしてもう一人は十歳になったばかりの紅流児(こうりゅうじ)だった。


『急ぎの用ができてね、お前達に使いに出てもらいたい。少しばかり長旅になるが、旅の準備はすべて調えてある。船着き場には案内人もいる、安心して行きなさい。いいね。』

『はい』


 壽慶(じゅけい)三蔵は、小坊主達に言い聞かせるように言った。小坊主に長旅とは如何(いか)なることかとも思われたが、御師匠様の言いつけに(いな)はありえない。小坊主達には、兄弟子達が準備してくれた荷物が一つずつ手渡された。


『ゆっくりしている暇はありません。すぐに立ちなさい。皆、気をつけて行くのですよ。怪我をせぬよう、騙されぬよう、一刻も早くこの文を届けておくれ』

『はい』


 小坊主達は壽慶に頭を下げると部屋を出て行く。


『紅流児』


 紅流児が最後に部屋を出ようとした時、壽慶に呼びとめられた。壽慶はそっと、自分の目の前に座るように紅流児を促した。紅流児は黙って壽慶の前に座る。


『紅流児、お前の行き先が一番遠い。お前はしっかりしているから大丈夫だろうが、くれぐれも気をつけておいき。とても大切な文だ、寄り道などせずに必ず緑松(りょくしょう)に届けておくれ』

『はい。急ぎ()道士にお届けし、すぐに帰ってまいります』


 その言葉に、壽慶は静かに紅流児の両手をとると


『帰りは、ゆっくりでよいのだ。あちらでは緑松と丁香(ていか)の言うことをよく聞いて、元気に過ごしておくれ』


 と言った。


(こう)道士は少し離れた所にいらっしゃいますから、たぶんお会いできないと思います。でも李道士の言うことをよく聞いて戻ってまいります』

『あぁ、頼んだ。頼んだよ紅流児。それから、(これ)を持っていきなさい』


 壽慶はそう言うと、自らの右手首につけていた水色の花びらのような形がいくつも連なる腕釧(ブレスレット)を外し、紅流児の右手首につけた。


『御師匠様、これはとても大切な物だとおっしゃって、いつも肌身離さず持ってらっしゃった腕釧(ブレスレット)ではないですか。』

『そうだ。だからこそ、お前に持って行って欲しいのだ。』

『そんな大切な物を』

『紅流児、けして無くさぬよう肌身離さず持っておくのです。いいね。さぁ、長居はいけない。早く行きなさい』

『はい。行ってまいります、御師匠様』


 この時は、これが壽慶三蔵との最後の会話になるとは思ってもいなかった。これが、兄弟子や同部屋の小坊主達との永遠の別れになるとは、知りもしなかったのだ。


『許しておくれ紅流児、お前にこの重荷を背負わせる私を、お前の()()を、どうか許しておくれ』


 この日、早朝に兄弟子達に見送られた小坊主達が、寺院として建てられた金山寺に戻って来ることは二度となかった。玄奘が次に此処を訪れた時、そこには何もない更地が広がっていたからだ。


『紅流児、いったいどうした。一人で来たのか』


 翡翠観(ひすいかん)へたどり着いた時、金山寺から此処までの長旅を、十歳の紅流児が一人で来たのかと、緑松は驚きの表情をみせた。壽慶のともで来たことはあったが、まさか一人でやって来るとは。


『御師匠様から、これを急いで届けるように言われてまいりました』


 紅流児から渡されたその文に、緑松はただならぬものを感じとった。そして文を受け取ると


『壽慶から、そうか。奥の離れを用意させよう。疲れただろう、少し休みなさい』


 と紅流児を気づかい、穏やかな笑みを見せ言った。


『はい、ありがとうございます』


 翡翠観にたどり着いた紅流児は長旅の疲れもあって、その日はただひたすらに眠った。金山寺から翡翠観までは、急いでも数日かかる。紅流児は、()()()()と言った壽慶の言葉を守って、寝る暇も惜しんで翡翠観までやって来たのだ。翌日、


『おはよう紅流児、ゆっくり眠れたか』

『はい、お陰様(かげさま)で』

『そうか。では、朝食(あさげ)にしよう』


 離れから楼閣(ろうかく)へ向かおうとする緑松のあとを追いながら


『あの、御師匠様の文への返事は今日いただけるのでしようか』


 と、紅流児は聞いた。その言葉に緑松は


『紅流児は、早く金山寺に帰りたいか』


 と言った。“はい”、と言う紅流児に


『あの文は私だけでなく、丁香に宛てられた物もあった。今白水観(びゃくすいかん)に使いを出しているから、今少し待ちなさい』


 とだけ告げた。その時紅流児は、数日間は翡翠観に泊まりかなと、ただそれだけを思った。これから先、此処に住むことになるとも知らずに。


『お久しぶりです、黄道士』

『あぁ、久しぶりだね』


 三日後の夕方、丁香は急ぎ翡翠観にやって来た。そして壽慶からの文に目を通すと、緑松と丁香は紅流児を呼んだ。


『御師匠様の文は見ていただけましたか』

『あぁ、読んだよ』


 “では”、と言葉を発した紅流児に、“待ちな” と、丁香は言った。


『紅流児、お前は、此処翡翠観で暮らすことになった』

『な、何を……』


 突然の緑松の言葉に、紅流児は思わず後ずさった。そんな紅流児に、こっちへおいでと声をかけた丁香は


『壽慶からお前宛ての文だ、此処で読みな』


 と、一通の文を差し出した。その文は、見慣れた壽慶三蔵の文字で書かれていた。


次回投稿は25日か26日が目標です。

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