第一部 出会い、そして西へ《五》
「それは本当に必要な物か、お前の命よりも」
荷物を積んだ荷馬車ごとやってきた旅人達に、悟浄は冷たく言い放った。
「これは明日の商談にどうしても必要な物。この商談がうまくいかなければ、我が家は路頭に迷います」
お願いします、と頭を下げる旅人に
「では、荷馬車を中に入れ、お前達は外にいるか」
と、悟浄は呆れたように言う。
「そんな!!」
「今は非常時だ。金か命か、どちらかを自分で選べ。見てみろ、皆荷物を持って来たいのはやまやまだ。それでも、助かるために荷物を諦めて集まって来てるんだ。一人の我が儘を聞くわけにはいかねぇ」
「旦那様、荷は諦めましょう。命があればきっと、道は開けます」
連れとおぼしき者が声をかける。旅人はぐったりと項垂れた。
「馬は、右手の馬屋に繋がせてもらうといいでしょう。荷は、左手の蔵に入れさせてもらいなさい。ただし、蔵は守りきれると思わないで下さい。我々は、命ある者を守るので精一杯ですからね」
この状況の中で、無表情ながら丁寧に説明をしている八戒を見て、ふん、と悟浄は鼻をならした。
「急ぎなさい、時間がありません! このままでは全員が入りきる前に、妖怪が来てしまいます!」
八戒の言葉に、まだ外にいる全員が悲鳴をあげるように走り寄ってくる。宿屋の中では、白水観の丁香の弟子達が動き回って人達を移動させて行く。一人でも多くの人間達を救うために。
「皆、頼んだよ」
「道士」
宿屋で声をかけた丁香の周りに、弟子達が駆け寄って来た。その弟子の一人に、丁香は己が着ていた道袍を脱ぎ捨て預けた。
「道士、なりません!」
白水観のみならず、この国全土の坤道の頂点にたつ丁香が、自らの手で戦おうとしているのだ。
「自分がしでかしたことの責任は、自分でとるもんさ。お前達は民から離れることなく、ただひたすらに民を守れ! いいね!!」
「はっ!」
弟子達はその場で、丁香に首を垂れた。
本来、仏神を信奉する者は、仏や神のように殺生を嫌う。だが、禁じてはいない。どちらにも護身という名の建前をもった術がある。賊から教典を護るため、仏閣や道観などを護るため、そして民を護るために、武器を持ち戦うのだ。仏教も道教もその頂点にたつためには、術でも自らの力を見せつけなければならない。
この丁香も、槍の使い手として名を馳せていた。槍とは長い棒の先に槍頭と呼ばれる短い刃物を付けた物。槍頭の根本には、赤い馬の鬣でできた槍纓という房が付く。槍は百兵の王と言われるほど武器の中では攻撃力の高い武器であり、こう見えて丁香は道士の中では武闘派なのだ。
「さぁ、早く入りな」
丁香は宿屋を出ると旅人達を誘導しながらも、弟子の一人が持って来た槍を受け取った。
「慶木、準備はできた。早くしないと間に合わないわ」
「今やってる。だが、あれもこれも親父が残してくれたもんだ。本当はどれも置いていきたくはない」
「慶木……」
両親が苦労して建てた宿屋、鍋一つをとっても親の形見のような物だった。
「おとうさん、おかあさん、もうだれもいないよ。はやくいかなきゃ」
「鈴麗」
春麗が、娘の鈴麗が入って来た方に顔を向ける。
「おかあさん、おにいちゃんたちがはやくって、もうあぶないって」
「えぇ、わかってるわ。慶木、命の方が大事よ。もしここで何かあったら、その方がお義母さんもお義父さんも悲しむわ。もう行きましょう」
春麗が、急かすように慶木の手をとった。その時
「ぴゅ」
と鳴き声がして、調理台の上にあったすべての調理器具が消えた。
「な、なんだ、消えたぞ! 鍋や調理器具は何処にいった!」
騒ぐ慶木の声に
「ぴゅ」
とまた、鳴き声がする。
「ハムちゃん」
鈴麗が辺りを見渡すと、調理台の端にいるハムスターを見つけた。ハムスターは小さな手を動かして、斜め掛けにしている鞄に触れる。するとポンと目の前に鍋が一つ現れた。同じようにハムスターを見つめていた春麗は
「もしかして、ハムちゃんの鞄のなかに……」
と、呟いた。
「ぴゅ」
ハムスターは、“そうだよー”と言うように鳴く。そして
「ぴゅ」
“早く”と言うように鳴くと、また鍋を鞄の中に入れ、鈴麗の肩に飛び乗った。
「ハム様、感謝する。ありがとう」
「ハム様、私からも。ありがとうございます」
慶木と春麗は深々とハムスターに頭を下げ、深謝した。玉龍は、ハムちゃんからハム様に格上げされたのだった。
「ハムちゃん、ありがとう」
鈴麗が肩に乗るハムスターに頬をすり寄せると、ハムスターも鈴麗の頬に手をあてて、同じように頬をすり寄せた。春麗は微笑ましく娘を見つめ
「さぁ、行きましょう」
と、その場をあとにした。
辺りは、段々と静寂に包まれていく。最後に宿屋に入って来たのは、鈴麗達親子だった。多くの者が集まる中庭に現れた玄奘は
「お前達は決して此処から動くな。死にたくなければ、な」
と言った。その言葉に皆が息を呑む。その時、玄奘の後ろから真っ赤な襦裙を纏った美しい女が進み出て、鈴麗の前に立った。そして左耳の血赤珊瑚の耳トウを外すと、肩に乗るハムスターに差し出した。ハムスターは短い両手でソレを受け取る。
「いいか、三十分だ。それ以上でもなく、それ以下でもない。使いどころを見誤るな」
「びゅ」
ハムスターは“わかった”と、女の言葉に今まで聞いたこともないような低い声で頷く。女は玄奘に振り返ると
「玄奘、理趣経だ」
と言った。その言葉に、玄奘が数珠を両手に持ち経文を唱え始める。すると、外に向かって歩みを進めていた女の後ろ姿が変わり始めた。
路頭に迷う→生活の道をなくし住む家もなくひどく困ること
深謝→心から感謝すること
理趣経→お経の一つ
次回投稿は19日か20日が目標です。