第85話 後藤総理倒れる(自援絵有り)
『なんだ、もう日本へ戻るのかね? もう少しゆっくりしていけば良いのに』
「そうしたいのは山々なんだけど、日本でヤバいことが起こってそれどころじゃなくなったんだよ!?」
『そういうことならば仕方がないな。次は何時戻ってくれるのかね?』
「移動手段は確保したから、月一で戻れるよ。何も無ければ、だけどね……」
1929年4月某日22時過ぎ。
巨大飛行艇『サンダース・ロー プリンセス』が離水を開始しようというタイミングで、テッドはヒトラーに日本へ戻る旨を電話で伝えていた。
ネス湖を飛び立ち、途中ポートランド島沖で着水してテッドたちをピックアップしたら夜中にもかかわらず即離陸である。どれだけ時間が惜しいのかを如実に示す光景であった。
「情報が入ってきたぞ」
離水してから2時間後。
シドニーライリーが紙束を抱えてやってきた。彼は操縦を副操縦士に任せて情報収集に専念していたのである。
「ありがとうシドニー・ライリー。ここじゃアレだから、とりあえず移動しようか」
両隣の座席で眠っているマルヴィナとおチヨを気遣うテッド。
二人を起こさないように注意しつつ、場所を変えるのであった。
「……で、あれから続報があったわけ?」
機内の2階前方に位置するラウンジ。
適度な広さに加えてソファとテーブルがあるので、打ち合わせをするには最適な場所である。
「現時点では、後藤総理が倒れたことを報じるメディアは無いな」
「箝口令が敷かれているとか?」
「その可能性は高いだろう」
「一国の総理が倒れたのだから、情報の取り扱いに慎重になるのは分からないでもないけど……」
現地時間4月某日朝4時過ぎ。
総理大臣後藤新平は自宅で倒れた。
MI6日本支部が察知したのが、それからおよそ2時間後のことであった。
情報は即座にテッドにもたらされ、慌てて荷造りしてきたというわけである。
「命に別状は無いんでしょ?」
「死んでいないだけで、重篤な状態が続いてる可能性も捨てきれんぞ」
「症状が軽ければ、むしろ早めに発表して不安を払拭するはずだよなぁ……」
「搬送された病院は突き止めたんだが、警戒が厳重過ぎて病室に近づけないとのことだ」
後藤が都立築地病院に搬送されたことまでは判明していた。
しかし、そこから先の調査が難航していたのである。
現状では打つ手なしである。
完全に手詰まりだったのであるが……。
「あーっ! 思い出した。後藤新平の死因って、確か脳溢血だったはず!」
状況を打開したのはテッドの一言であった。
彼は史実の後藤新平の死因を思い出したのである。
史実21世紀では脳出血と呼ばれることが多い脳溢血であるが、脳の血管が破れて血液が脳内に漏れ出す症状である。
出血そのものは時間がたてば自然に止まるのであるが、あふれた血液によって周囲の脳細胞が圧迫されたり、脳の内部の圧力が高くなるために出血箇所から離れた部分の脳にも悪影響が出てしまうのである。
「確か、時期的には3度目の発症だったはずだから……」
そこまで思い出してテッドの顔が青ざめる。
史実の後藤新平は、1929年に3度目の脳溢血が原因で死亡しているのである。
「つまり、現時点では生還出来るかも怪しいというわけか」
シドニー・ライリーも事態の深刻さを認識して険しい表情となる。
まともな引継ぎもしないで同盟国の宰相が退場することになったら、各方面に重大な悪影響を及ぼすことは想像に難く無い。
「この世界の日本の医療技術は平成会が底上げしているから、史実よりは生存率は高いと思う。でも、後遺症は避けられない。そうなれば……」
脳溢血は脳内出血が止まった後にも麻痺などの後遺症が残ることが多く、最悪の場合には発作から回復せずに死亡に至る。生存率は発作の回数と年齢に反比例するのである。
「生きてようが死んでようが後藤総理の交代は確実か。案外、後継指名で泥沼化している可能性があるな。そちらから切り込んでみるか」
言うが早いか、シドニー・ライリーはコクピットへ向かう。
MI6の日本支部に指示を出しに行ったのであろう。
(日本に着いたら無茶ぶりされるような気がする……)
ラウンジでボッチになったテッドは頭を抱えていた。
その予感が間違っていなかったことが証明されるには、今しばらくの時間が必要であった。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。早速ですが現状説明をさせていただきます」
緊張した表情で内閣調査部のモブが5大臣会合を進行する。
国会議事堂にほど近い場所に建つ内閣調査部ビルの大会議室には、内閣の主だった人間が集結していた。
5大臣会合は国家安全保障会議の司令塔と言える。
首相、内閣書記官長、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣で構成されており、今回は内閣調査部の権限で召集がかけられていた。
今回のNSCには、内閣書記官長三土忠造、外務大臣幣原喜重郎、陸軍大臣白川義則陸軍大将、海軍大臣岡田啓介海軍大将の4人が参加していた。
「まずは皆さんのご懸念だった後藤さんの容態ですが、峠は越えました。現在は意識も回復して会話も可能です」
参加者から安堵の声が漏れる。
3度目の発作ということで、回復は絶望視されていたのである。
実際、手術を担当したのが平成会のモブ医師で無かったら助からなかったであろう。史実知識による迅速な処置が後藤の命を救ったのである。
ちなみに、脳溢血の治療には降圧剤が有効である。
血圧を下げることで脳内血管の出血を抑えて症状を軽減するのであるが、この時代に降圧剤は存在していない。
そこで、モブ医師は降圧剤の代用にニトログリセリンを用いた。
ニトログリセリンには血管拡張作用があり、血圧を下げるので降圧剤の代用となる。
狭心症にニトログリセリンが有効なのは20世紀初頭に判明しており、既に医療目的で使用されていたのである。
「……ただ、やはり後遺症は避けられませんでした。後藤さんには片麻痺の症状がみられます」
脳溢血の後遺症として典型的な症例が片麻痺である。
その名の如く身体の片側の手足が麻痺する症例であり、日常生活に多大な悪影響を及ぼす。
「そ、それで総理は回復出来るのかね?」
恐る恐る質問したのは三土であった。
内閣書記官長である彼は、政権の中で後藤に最も近しい人間と言える。
内閣書記官長は、内閣官房長官の前身である。
内閣の大番頭とも言える重要な役職であり、戦前の官僚機構のトップであった。
後藤の政策にも深く関与しているので、気が気で無いのであろう。
彼が本気で心配しているのが、その様子からうかがえた。
「今後のリハビリ次第です。我々は最善を尽くします」
「君らの言うリハビリとやらが上手くいったとして、どれくらいの期間がかかるのかね?」
「可能ならば、半年はいただきたいかと……」
「半年だと!?」
絶句する三土。
しかし、内閣調査部のモブは正直に答えただけである。
脳溢血の機能回復においては、発作から1ヶ月程度は著しく改善する。
そこから3ヶ月、半年と経過するにつれて回復の度合いが緩やかになっていくのである。
「内閣調査部としては、病状を公表すべきだと考えています。マスゴミどもが不穏な動きをしていますし、このままではいらぬ社会不安を煽りかねません」
後藤が倒れてから既に三日が経っていた。
帝国議会が招集されていない時期とはいえ、動静を隠すのにも限界がある。変に疑われるよりも公表するべきという内閣調査部の意見には説得力があった。
議論の結果、後藤の病状を公開することが決定した。
術後の経過が良好であること、しばらく療養生活を送ることが報道されたのである。
療養中は、三土が総理代理となった。
このような事態を想定して内閣調査部は総理代理の順位を献策しており、後藤内閣から適用されることになったのであるが……。
「儂は政界を引退するぞ!」
「ちょ、何言ってるんですか後藤さん!? せっかく回復したというのに何故!?」
1929年8月某日。
後藤新平本人から衝撃発言が飛び出した。
「政権を担当してもう4年だ。そろそろ良いだろう。余生はボーイスカウトの育成に専念したいのだよ」
「ま、まさか……死ぬほどリハビリを頑張ったのは、そのためだったんですか……」
「当然だろう。貴様らの献身に心底感謝するぞ!」
「「「あああああああ……」」」
悶絶するリハビリ担当のモブたち。
つらいリハビリを耐えたのは総理に復帰するためだと思っていたので、ことのほか衝撃を受けていたのである。
後藤からすれば、前首相の原敬から頼まれたから総理を引き受けたのである。余生はボースカウトの育成に専念したいと考えていたので、今回の発作は引退するのにちょうど良い区切りであった。
「後藤さん、考え直してください。自分には総理代理は荷が重すぎます!」
「三土くん、君は総理が務まる器だ。もっと自信をもちたまえ」
その後、三土たちを筆頭にした内閣閣僚の必死の慰留も後藤は拒絶。
代理を続ける理由も無いとして三土も総理代理を辞退したため、内閣は解散することになったのである。
「閣下。民政党の一部の議員がアメリカから資金提供を受けているようです」
「あいつら、まだ懲りて無かったのか……適当なルートで公安にチクっておいて」
「了解しました」
退出していくエージェントの背中を見つめてため息をつく。
現在のテッドは、スパイ狩りの真っ最中であった。
1929年9月。
4年ぶりに解散総選挙が実施されることになった。
政友会は総裁に犬養毅を擁立して、後藤イズムの継承をスローガンに選挙戦に臨んでいた。対する最大野党民政党(立憲民政党)は英国に依存し過ぎる現状を批判し、安全保障のための全方位外交を訴えたのである。
『今度こそ日本に親米政権を打ち立てるのだ!』
解散総選挙に激しく反応したのが、アメリカであった。
特にモルガン商会会長のジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアは、4年前の雪辱を晴らすべく燃え上がっていたのである。
『ドーセット公に復讐するのが目的なんじゃないのか?』
『お前も他人事じゃないだろ!? フィリピンが独立してしまったせいで国内市場は完全に飽和状態だ。ステイツには新たな市場が必要なのだ!』
『分かっているさ。このままだとお先真っ暗ってのはな。それはともかく、今回は金は出すが人手は出せねぇ。前回のやらかしでジャパニーズマフィアの伝手は壊滅しちまったし』
アメリカの裏社会もモルガンの動きに同調していた。
彼らは民政党に多額の資金を提供していたのである。
今回こそはと意気込むアメリカの裏社会であったが、賄賂を贈る相手を吟味すべきであった。露骨過ぎる賄賂をホイホイと受け取るような輩には、無能しかいないのである。
テッドのリークに加えて、公安と大日本帝国中央情報部の捜査で民政党は大量の逮捕者を出した。アシストのはずがオウンゴールになってしまったのである。
『選挙中の金品授受は犯罪です。速やかに警察に届けましょう』
注意喚起をするべく、テッドが4年前に描いた啓蒙漫画が新聞に再び掲載された。選挙期間中の金品授受は候補者だけでなく有権者も違法なのである。
当然と言うべきか、選挙の結果は政友会の勝利であった。
大量に逮捕者を出してしまった民政党は勢力を減じ、平民党は減った分の議席を獲得して勢力を伸ばしたのである。
『わたくしは、前総理の路線を継承していく所存です。関東大震災から不死鳥のごとく復興し、世界恐慌からもいち早く立ち直った我が国をさらに発展させていきたいと考えております……』
1929年9月中旬。
選挙戦の勝利を受け、犬養内閣が正式に発足した。
『犬養総理の就任を歓迎いたします。英国と日本の両国が、これからも手を取り合っていけることを切に願う所存です』
犬養が後藤の路線を継承することを公の場で宣言したことを受け、全権大使の立場でテッドは歓迎の談話を発表した。市場も歓迎ムードであり、後藤が政界引退を発表してから低迷気味だった株価は持ち直したのである。
「森くん、中華民国と満州国との友好を深めるべく近いうちに訪問したいと思うのだがどうだろうか?」
犬養の発言に裏は無い。
若い頃から中国の教養から学び、中国の思想がアイデンティティとなっていた彼は、いつかは中国を訪問して講演したいと思っていた。
満州国と中華民国が成立して大陸の治安が安定した今がその時であった。
日本は大陸から撤退しているので、訪問しても疑われることも無い。純粋に友好目的での訪問を犬養は考えていたのである。
「良いじゃありませんか。首相自らが訪問すれば、国民も関心をもってくれるでしょう」
犬養の発言に対し、新たに内閣書記官長に就任した森恪は賛意を示す。
しかし、腹の中では別のことを考えていた。
(上手く立ち回れば、大陸に再進出する切っ掛けになるやもしれん)
史実の森は、田中義一内閣で対中国強硬外交を強力に推進した。
満蒙を中国本土から分離することを目論み、張作霖爆殺事件、柳条湖事件にも関係を取り沙汰されているのに加え、彼の死後は関東軍が暴走して盧溝橋事件まで起きているのである。
犬養内閣は、表向きは後藤イズムの継承を喧伝していた。
しかし、その動きは徐々に不穏さを増していくことになる。
その行動に満州国や中華民国、ドイツ帝国は言うに及ばず同盟国の英国までもが疑いの目を向けることになるのである。
「暇だな……」
「先輩、そのセリフ午前中だけで13回目ですよ。どんだけ暇を持て余してるんですか」
「わざわざ数えてるお前も大概だろ」
国会議事堂にほど近い場所に建つ内閣調査部ビル。
平日だというのに、モブたちは暇を持て余していた。
電話が鳴らないオフィスは静寂そのものである。
無駄に効率化してしまったせいで前政権の残務もあっという間に片付いてしまい、デスクの上には何もない。
残業は当たり前、終電を逃して泊まり込むことすら日常茶飯事だった後藤政権のころとは雲泥の差である。ブラック社畜と化していたモブたちは、状況の急変に戸惑っていた。
後藤は犬養に内閣調査部のことを伝えていたが、犬養は重要視していなかった。
政権移行がスムーズに行かなかった弊害がモロに現れていると言える。
それでなくても、犬養は後藤が気に入っていなかった。
原が後藤を次期総裁に推したことにより、当時の犬養は総裁になることが出来なかったのである。
政界引退を考えていた犬養であったが、地元支持者に慰留されて現職にとどまった。そこに降ってわいたのが後藤の政界引退と解散総選挙であった。
後藤は強力なリーダーシップと内閣調査部を用いた飴と鞭で派閥を切り崩したが、しょせんは外様であった。政友会内部の各派閥はいがみあっており、どの派閥から総裁を出しても党が分裂する恐れがあったのである。
すったもんだのあげく、妥協の産物として犬養が総裁に推挙された。
特定の派閥に肩入れしていないことに加え、高齢で変な野心も持たないだろうと考えられていたのである。
「そろそろ飯時か。どうする?」
「いつもならコンビニだが、今日は暇だからな……せっかくだから、ファミレスにしないか?」
「「「いいねぇ!」」」
後藤政権のときは、昼飯を食う時間すら貴重であった。
近くのコンビニでおにぎりとおかずを買ってくるのが日常だったのである。
「いらっしゃいませ~!」
ア〇ナミ〇ーズ風の衣装のウェイトレスが明るい声で接客する。
永田町という立地にも関わらず、昼飯時であるためかファミレスは混雑していた。
「先輩、何にしますか?」
「ハンバーグで」
「また重いものを。午後に眠くなっても知りませんよ?」
「あ、俺はパスタがいい。後でデザートも頼むぞ」
「はいはい」
ちなみに、この世界におけるコンビニとファミレスは内閣調査部の福利厚生としてモブたちが作り上げたものであるが、諸般の事情で今まで利用出来なかった。最近暇になってようやく利用出来るようになったのである。
「やっと定時か。無茶苦茶長かった……」
「というか、帰っていいのか? いや、帰るのは当たり前なんだが、不安になっちまうんだが」
「タイムカードを定時ピッタリに押す。なんという背徳感」
「新入社員のころを思い出すな。あの頃は定時で帰ったら先輩の目が怖かったなぁ」
定時になってタイムカードを押すモブたち。
生前にホワイト企業勤めをしたことないのか、定時に帰れることに抵抗感があった。
「あまり早く家に帰ると嫁に疑われてしまう。どこかで時間を潰さねば」
「漫喫で時間を潰しませんか? ドーセット公の新刊が入ったそうですよ」
「俺は霞湯に行ってくる。良い機会だから温泉全制覇してくるぜ!」
漫画喫茶もスーパー銭湯も内閣調査部の福利厚生として以下略。
こちらは常時利用している施設であるが、今回は使い方が異なっていた。
急に定時で帰ってきたら嫁が不審に思ってしまう。
いつもは日付が変わるギリギリで帰宅するか、帰れないことが日常茶飯事だったのである。
愛する妻に疑われたくない小心者な妻帯モブは、漫喫や霞湯で時間潰しを試みた。あっさりバレて白状させられ、子作りが捗ることになったが。
仕事が無い状況に最初は戸惑った内閣調査部のモブたちであったが、それなりに順応しつつあった。しかし、彼らが暇な時間はそう長くは続かなかったのである。
『犬養総理 満州国に続いて中華民国訪問へ』
『大陸から撤退したのに何故? 犬養総理の胸の内は如何に』
『過剰な歩み寄りに国内からは警戒感』
1929年10月初旬。
国内のメディアは、犬養総理の大陸訪問を大々的に報道していた。
犬養が大陸を訪問した理由は、純粋に親善目的であった。
しかし、それが額面通りに受け取られるかは別問題である。
「ヤーパンの首相が中華民国と満州国を訪問しただと!? 連中は大陸から手を引いたのでは無かったのか!?」
「陛下、今回の訪問は純粋に親善目的とのことですぞ」
犬養総理の大陸外交に過敏に反応したのがドイツ帝国であった。
ドイツ帝国の大陸権益に手を出すつもりかとヴィルヘルム2世は激怒していたのである。
「ただちに日本大使を召還しろ! 余が直接問いただしてくれるわ!」
「それだけはお止めください。訪問しただけなのに、大使を召還したとなれば帝国の余裕の無さを世界に喧伝することになりますぞ!」
報告を上奏したパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は、慌ててカイザーを説得する。ヒンデンブルグの必死の説得によって、カイザーは一旦は矛を収めたのであるが……。
「ヤーパンは無罪かもしれぬ。しかし、腹黒紳士どもが裏で糸を引いているに決まっておる!」
今度は英国を疑い出す始末である。
過去の英国のやらかしを知っているヒンデンブルグも否定することが出来なかった。
「……仮に、英国が動いているとすれば日本の英国大使が怪しいかと」
「ほぅ? それはどういうことだ?」
「かの英国大使は日本が大陸から撤退するお膳立てをしただけでなく、満州国建国にも関わっております故」
「思い出した! 思えばあの油田は惜しいことをしたな……」
現状では、日本が再び大陸権益を手にしようと動き出したのは否定できないし、その背後に英国がいる可能性はもっと否定できない。それを成し得るのは、駐日英国大使であるテッド・ハーグリーヴスに他ならないと結論付けたのである。
「よし、ちょうど駐日大使が交代する時期であったな? 挨拶がてらにドーセット公の真意を探らせるのだ」
「御意にございます」
現在のドイツ帝国は、ソ連との再戦に備えて国力を回復中であった。
そのためには、中華民国の豊富なレアメタルと中立国の満州国を経由して手に入るゴム資源は欠かせないものだったのである。
中華民国の豊富で安価な労働力も、ドイツ帝国には手放せないものとなっていた。現地にはドイツ企業が多数進出しており、既に大陸はドイツの工場と化していたのである。
これらの資源や製品は長大な航路を経てドイツ本土に運ばれたが、その航路の大半が日本と英国の影響下であった。ドイツ帝国には、日本と英国の行動に過敏にならざるを得ない事情があったのである。
「ドーセット公、どういうことかご説明いただきたい」
「どうと言われましてもですね……」
駐日英国大使館の応接室。
テッドは、来訪した新任の駐日ドイツ大使のエルンスト・アルトゥル・ヴォレチュに困惑していた。
「……つまり、貴国は今回の件には全く関与していないと?」
「まったくもってありません。というより、我が国ではなく日本政府に抗議するべきでは?」
「表向きは親善訪問なのだから抗議しようがないではないか!?」
ふん、と鼻を鳴らすヴォレチュ。
その態度にコメカミをひくつかせるテッド。
テッドはドイツが過敏になる事情は理解していた。
戦争によって本国に少なからぬ被害が出ている現状では、文字通り大陸は生命線である。だからといって、初手から喧嘩腰で来られても困るのであるが。
「だからって、うちに来られても困るんですがね」
「そんなことはない! なにせ、貴様には前科がある」
ヴォレチュは犯罪者を見るような目でテッド見据える。
テッドは、その傲慢な面に顔面ストレートを叩き込みたい衝動を必死に堪える。
「……本気で言ってるんですか? 僕は日本が大陸から撤退するお膳立てはしましたけど、その逆を今更やる理由が何処にあると?」
「それはヤーパン単体で考えるからだろう。イギリスの国益という観点から見れば、また違った答えが出てくるはずだ」
「ほほぅ? その証拠とやらを耳を揃えて提出してくれるんでしょうね?」
「もちろんだ。ぐうの音も出ないようにしてやる!」
互いに睨み合う二人。
しかし、先に視線を外したのはヴォレチュであった。
(ここまでやってもボロを出さないとは。これは本当にシロかもしれぬ)
ヴォレチュはテッドをわざと怒らせることで本音を引き出そうとしていた。
しかし、テッドとて若いながらも交渉事にかけては百戦錬磨である。簡単に本音を出すはずもなかった。
「今日のところは挨拶代わりだ。また会おう」
「僕を納得させるだけの証拠を揃えられることを願ってますよ」
最低限の礼儀として、玄関まで見送るテッド。
新任のドイツ大使とのファーストコンタクトは、最初から最後まで険悪なままでだったのである。
「お待たせして申し訳ない。ちと所用が立て込んでおりましてな」
「いえいえ、お忙しいなか時間を割いていただいてありがとうございます」
新任ドイツ大使との喧嘩腰なやりとりから数日後。
テッドは、首相官邸で犬養と面会を果たしていた。
彼が犬養と面会したのは、英国本国の意向であった。
もちろん、目の前にいる髭ジジィのやらかしで酷い目に遭わされた個人的な恨みもあった。
犬養の大陸外交を疑惑の目で見ていたのはドイツ帝国だけではない。
同盟国たる英国も日本を疑っていたし、平成会も今までの努力が水の泡になりかねないと泡を食っていたのである。
「それで、今回はどのようなご用向きかな?」
「あぁ、先日大陸に行かれたとのことでしたので、珍しい話でも聞ければと思いまして。大陸の様子も気になりますし」
「そういうことであれば、いくらでも語りましょうぞ。そうですな、あれは確か……」
警戒した表情から一転、犬養は嬉々として語りだす。
訳の分からない漢語のオンパレードで、テッドは眠気との戦いを覚悟したのである。
史実の犬養は政治家としての顔以外にも、アジア主義者という側面もあった。
右翼の巨頭頭山満と共に世界的なアジア主義功労者であり、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在だったのである。
この世界の中華民国と満州国は、曲がりなりにもドイツ帝国と対等な関係を築いていた。両国の内情に多大な興味を抱いていた犬養は、今回の大陸外交を実施したのである。
(あー、これは本当に裏が無さそう。本当に中国が好きなんだな……)
犬養の大陸話を適当に聞き流しながら、テッドは確信していた。
だからこそ質が悪いとも考えていたが。
「……と、いうわけで犬養総理に関しては本当に裏は無いでしょう。ただの中国大好きな爺さまですよ」
『なるほど。テッド君がそう言うならば本当のことなのだろうが……』
受話器越しに英国宰相ロイド・ジョージは言葉を濁す。
どうにも信じられないといった様子である。
「そりゃあ、まぁ疑いたくなる気持ちも分かりますけどね」
『ある程度日本の内情を知っている我々でさえ疑っているのだ。他の国ならばなおさらだろう』
「つい先日、新任のドイツ大使に喧嘩を売られましたよ。おそらくですが、こちらを怒らせて本音を探るつもりだったのでしょう」
『それはまたご愁傷様だな』
ドイツ帝国だけでなく、中華民国と満州国も今回の犬養の動きを疑っていた。
表向きは歓迎してはいたが、裏ではドイツ帝国への釈明に追われていたのである。
特に悲惨だったのが中華民国である。
将来を見据えた関係改善の布石として蒋介石は犬養の訪問を認めたのであるが、そのことが報道された途端に国内では反日感情が爆発して暴動が多発した。
『日本鬼子は出て行けーっ!』
『日本の再侵略には断固反対するぞ!』
『人殺しは去れーっ!』
蒋介石と犬養のツーショット写真が新聞に掲載されると反日感情はピークに達した。歓迎式典が行われている周辺をデモ隊が取り囲んで軍隊と衝突することになったのである。
これに対して、満州国は比較的平穏であった。
今上天皇と満州国皇帝溥儀によるロイヤル外交で事前に地ならしが出来ていたことに加え、満鉄調査部時代に培われたコネクションが健在である程度の世論誘導が可能だったからである。
「ドイツだって馬鹿じゃありません。そのうち事の真相に行き着くでしょう」
『その時まで日本の首相が大人しくしていれば良いのだがな。この分だと、またやらかすぞ?』
「言わないで下さいよ。なるべく考えないようにしていたのに……」
ロイド・ジョージの冷静な指摘に頭を抱えてしまうテッド。
犬養がやらかせば、鬼の首を取ったような勢いでドイツ大使がすっ飛んでくるのは目に見えていたのである。
『こういう時のための平成会ではないか。 彼らは何をしているのだ?』
「どうも、政権が交代してからは干されているようです。国家機関と言えど、前政権の私的組織的な意味合いが強かったですからね」
『このまま放置すると、我が国のアジア戦略にも支障が出かねん。現政権に平成会の重要性を再認識させてくれないかね?』
「無茶を言ってくれますね。このままだと僕も困るのでやるだけやってはみますけど……」
テッドはロイド・ジョージからの無理難題を引き受けざるを得なかった。
ジリ貧を避けんとして、ドカ貧になるわけにはいかなかったのである。
「けしからんっ! いったい何を考えているんだ政府は!?」
「陸軍は国防の要だぞ!? それを削減するというのか!?」
「ただちに政府に抗議するべきだ!」
帝都の三宅坂に所在する参謀本部。
その一室では、若手将校たちが集まって憤慨していた。
『国防予算削減へ 浮いた予算は福祉目的に流用』
『犬養総理 大陸との緊張緩和を優先』
『軍需よりも民需を 活力溢れる社会を目指す』
テーブルに放り出された新聞には、軍縮に関する記事が一面トップで載っていた。今回の軍縮は犬養の独断であり、軍部に一切の根回しをしていなかったことが彼らを激怒させていたのである。
2年前の陸軍の大粛清ですら、戦力の再配置だけで純粋な戦力削減は行われなかった。犬養は軍部の聖域にあっさりとメスを入れてしまったのである。
犬養は古参の政党政治家として常々軍縮を主張していた。
兵を削減して浮いた予算を別なことに回せるし、先んじて兵力を削減することで大陸との緊張緩和を演出出来る。除隊した者は民間で働けば良い。昨今の好景気で民間は人が足りないのである。
犬養からすれば、軍縮は一石二鳥どころか一石三鳥の良案としか思えなかった。
内閣書記官長の森は猛反対したが、史実で憲政の神様とまで謳われた巧みな弁舌の前に反論を封じられてしまったのである。
内閣調査部がまともに機能していれば、このようなことにはならなかった。
『数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う』という言葉があるが、内閣調査部であれば正しい数字とシュミレーション結果を示して犬養を黙らせることも出来たであろう。
(このままでは陸海軍が削減されてしまう。そんなことになったら身の破滅だ……)
軍部との関係を政治基盤にしている森にとって、現状は極めて危険な状況であった。このままでは、犬養と組んで軍縮に加担していると認識されかねない。最悪の場合、軍部を敵に回すことになる。
(そうだ! 確かドーセット公が犬養と会っていたな……)
必死に考える森に天啓が舞い降りる。
彼はテッドに軍縮の責任を押し付けようと考えたのである。
都合の良いことにテッドには前科があった。
公にはされていないが、彼が満州派を潰すお膳立てをしていたことは軍関係者には周知の事実だったのである。
『軍縮宣言の直前にドーセット公が犬養総理と面会していた』
この噂を流すだけで、軍縮の恨みはテッドと犬養に向かうであろう。
実際、二人は血気盛んな若手将校の標的となってしまうのである。
「……おぉお!? こ、これは!?」
「北魏時代の二仏並坐像です」
「素晴らしい! ドーセット公、これをどこで手に入れなさった!?」
テッドが持ち込んだ仏像に感激する犬養。
あれからテッドは、犬養と面会を重ねていた。
犬養に内閣調査部のことを話そうにも、まずは好感度を上げないとお話にならない。幸いなことに、テッドには好感度を上げるアテがあった。
『もしもし? そっちで保護してるヤツで嵩張らなくて、なおかつ価値のあるヤツ貸してくれません?』
『いきなり何を言い出すかと思えば。君の財布で好きにさせてもらってるのに断れるわけないじゃないか』
『あとカンペもください。専門家から突っ込まれてもボロが出ない程度の内容で』
キリスト教の信徒増大に伴い、中華民国では廃仏毀釈が急速に進んでいた。散逸する仏教遺産を保護するべく、国内の仏教関係者たちが奔走していたのである。
前大使であるチャールズ・エリオットもその一人である。
彼はテッドの財布で、思う存分に仏教遺産を保護していた。
エリオットの自慢のコレクションを持っていけば、犬養の好感度は確実にプラスされる。テッド自身も、中国の書画や漢詩などの造詣を深めていったのである。
最近は犬養からお誘いを受けることも増えていた。
テッドは確かな感触を感じていたのである。
『またドーセット公が犬養と面会してたぞ!』
『やはり、ヤツは敵か!?』
『二人を始末して昭和維新を成し遂げるのだ……!』
同時に若手将校たちからのヘイトも着実に稼いでいたが。
首相官邸を舞台にした命がけの鬼ごっこの開催まで、既にカウントダウンは始まっていたのである。
突発イベントで後藤新平がボーイスカウト指導者にジョブチェンジしましたが、テッド君の犬養毅攻略は順調なのでなんとかなるでしょう(多分、きっと、めいびー
>機内の2階前方に位置するラウンジ。
サンダース・ロー プリンセスの機内イラストをネット検索すると、コクピットの後ろにそれらしい部屋があるのを確認出来ます。
>脳溢血
高血圧で血が溢れるのが脳溢血(脳出血)、低血圧で血管が詰まるのが脳梗塞です。
>5大臣会合
参考にしたのは、史実日本のNSCの4大臣会合です。
首相、内閣官房長官、外務大臣、防衛大臣をレトロフィットさせたものです。
>降圧剤
降圧薬治療の歴史は50年ほどだったりします。
>内閣書記官長
内閣官房長官の前身で、仕事内容も似たようなものです。
最大の違いは、身分が公務員であること。戦前の公務員は試験の合格者だけでなく、勅命で任じられて公務員になる場合もありました。
>犬養毅
『話せば分かる』の人。
漢詩や書画に明るく、中国大好きな人。ついでにアジア主義者(酷
>平民党
平成会のモブたちによる政党。
民政党の失敗に乗じて、着々と勢力拡大中。
>森恪
戦前の黒幕その1。
満蒙大好きマン。犬養毅とは犬猿の仲。
>過去の英国のやらかし
円卓による史実知識で好き勝手やりまくった過去があるので、こういう時に疑われるのはしょうがなかったり。
>エルンスト・アルトゥル・ヴォレチュ
ヴィルヘルム・ゾルフの後任。
写真だと強面ではるけどイケオジ。でも、この世界では性格悪いです(酷
>二仏並坐像
6世紀ごろに作られた金メッキされた仏像。
小さくて持ち運びしやすい(重要
>中華民国では廃仏毀釈が急速に進んでいた。
自援SS『変態世界宗教事情―ローマ・カトリック編―』参照。
この世界の中華民国はキリスト教国ですw
>テッドは確かな感触を感じていたのである。
『何が悲しくて爺さんを攻略しないといけないのか』(本人談
>首相官邸を舞台にした命がけの鬼ごっこの開催
久しぶりにテッド君が大暴れする予定。
次回開催出来ると良いなぁ…




