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第84話 一時帰国(自援絵有り)


(……特別メンテナンスのお願い?)


 デスクに届いていた書面を見て訝し気な表情となるテッド。

 内容はデューク オブ ドーセット号のメンテナンスであったが、それ自体は過去にもあったから問題では無い。


(なんかいつもと違うような気が……)


 具体的にどうとは言えないが、そこはかとなく漂う違和感。

 この書面は、日ごろのメンテを担当している平成会系列の企業が送付したものではなかったのである。


(まぁ、いいか。金がかかるわけじゃないみたいだし)


 書類にサインをして決裁箱へ放り込む。

 いつまでも書面一枚にかまけてはいられない。今日も今日とて、書類仕事が山積みなのである。


「タグボートの準備出来ました!」

「ローブは念入りに確認しろ! 曳航中に切れて漂流したらシャレにならんぞ!」

「針路クリア! デカブツを出すぞぉ!」


 山東省威海衛(いかいえい)の英海軍基地は早朝から喧騒に包まれていた。

 大勢のクルーが動き回り、まるで出撃のような様相を呈していたのである。


 威海衛は黄海における海の要衝である。

 中華民国が成立した後も英国によって租借が継続されており、在中英艦隊(旧中国戦隊)が引き続き駐留していた。


「まったく、ヨーク公も無茶をおっしゃる。虎の子の浮きドックを出せというのはな……」


 在中英艦隊司令官アーサー・ワイセル海軍中将は、曳航されていく浮きドックを眺めながらぼやいていた。


 日本へ向けて回航される浮きドックは全長260m、全幅52m、全高15mに達する。QE型高速戦艦の整備が可能であり、在中英軍にも1基しか存在しない文字通りの虎の子であった。


『……次のニュースです。日本各地に寄港してた英戦艦ネプチューンですが、故障のため入渠(にゅうきょ)することになりました』


 駐日英国大使館の執務室に、女性アナウンサーの声が響き渡る。

 そのニュースを聞いて、テッドは年始に実施された合同演習を思い出していた。


(演習の時に無理させたせいかな? 爺さんには迷惑かけちゃったなぁ)


 テッドの心当たりは、演習終了間際にやらかした艦隊の無茶機動であった。

 全速から全速後退を強いたことにより、機関に不具合が出たのではないかと思ってしまったのである。


(まぁいいか。あの爺さんには散々な目に遭わされたし。これでイーブンでしょ)


 同時に、爺さん――サックヴィル・カーデン海軍元帥に対する恨みも思い出していたが。


 どちらにせよ、今の自分には関係ないことである。

 休憩を済ませると書類作業に戻るのであった。


「作業員の退避完了しました!」

「10m沈めるぞ。注水開始!」


 東京湾浮島付近の海域。

 はるばる曳航されてきた浮きドックは、ネプチューンを腹に抱えるべく注水を開始していた。


 浮きドックの沈降は潜水艦のように簡単にはいかない。

 5万(トン)クラスの浮きドックであるため、沈めるのも浮かべるのも半日はかかるのである。


(久々に見たが相変わらずデカいのぅ)


 戦艦ネプチューンの艦橋(ブリッジ)から、カーデンは沈みゆく浮きドックを眺めていた。

 既に何度か見た光景なのであるが、戦艦を収容出来るほどのサイズの浮きドックが沈んでいくのは壮観なものである。


前進最微速デッド・スロー・アヘッド。ドック内へ進入を開始せよ」

「アイアイサー! デッド・スロー・アヘッド!」


 浮きドックが沈んだのを見計らってネプチューンは進入を開始する。

 艦が浮きドックの側壁に衝突しないように、舷側では海兵たちが相対距離を念入りに確認していた。


 ネプチューンが4万t級の戦艦であっても、浮きドックに比べれば子供サイズである。バウスラスター装備で低速でも運動性能が確保されていることもあり、進入作業そのものは短時間で完了した。


「ネプチューンの進入確認!」

「浮上する。排水開始!」


 鈍い音と共に固定されるネプチューン。

 浮きドックが浮上したことで喫水が浅くなって着底したのである。


 同様の手順でデュークオブドーセット号も固定される。

 2隻は浮きドック内部で仲良く舳先を並べることになったのである。







「週末のせいか渋滞が酷いな……」


 ハンドルを握るテッドは、思わずボヤく。

 彼が運転するロールスロイス ファントムⅡは、桜田通りで渋滞に巻き込まれていた。


「ふふっ、楽しみですわ。テッドさんから聞いてますけど大きい船なんですよね?」

「あなたの部屋も用意してあるわよ。後で案内してあげるわ」


 後部座席では、マルヴィナと愛人の伊藤チヨが盛り上がっていた。

 おチヨは船に乗るのは初めてらしく、マルヴィナを質問攻めにしていたのである。


「「「旦那さま。お待ちしておりました」」」


 港区日の出埠頭。

 停泊しているデューク オブ ドーセット号の前には、既にメイド部隊が待機していた。


「メンテナンスは問題なく終わった?」

「運用には問題ありません。ただ、いくつかの箇所で改修が加えられていますが」

「え? そうなの?」

「具体的な改修内容は船内の書面でご確認ください」


 船が運用出来るならば問題無い。

 そう考えたテッドは、メイド長からの報告を重大視しなかった。後にトンデモ改造されていることを知って驚愕することになるのであるが……。


「ここがあなたの部屋よ」

「すごい、船の中に和室がありますよお姉さま!?」


 マルヴィナに船内を案内されて目を丸くするおチヨ。

 彼女の自室としてあてがわれた部屋は、旅館の一室と見間違うような純和風の内装となっていたのである。


(水も食料もOK。トイレもちゃんと使えるな)


 マルヴィナが、おチヨを案内しているのと同時刻。

 テッドはセーフルームを入念に確認していた。


 セーフルームは住居への不法侵入者に対して、住民が一時的に避難するために設置される。その大きさは様々であるが、大きいものになると水や食料の貯蔵はもちろんのこと、トイレ、酸素供給装置、電源、外部との連絡・通報手段が備わっていることが多い。


 デューク オブ ドーセット号には、船内倉庫にセーフルームが併設されていた。

 見た目からして金持ちが乗っているとはっきり分かる船容なために、海賊対策としてセーフルームが必須だったのである。


 しかし、テッドが心配しているのは海賊では無い。

 彼が恐れていたのは二人の性欲であった。


 典型的な大和撫子な見た目でありながら、おチヨはマルヴィナに負けず劣らずの性豪であった。一人でもヤバいのに、倍プッシュされたらたまったものではない。いざとなったら、最短ルートで駆け込めるようにルートを徹底的に叩き込んでいたのである。


(おチヨさんはなんとかなるけど、問題はマルヴィナだな。どうやって逃亡したものか……)


 思わず頭を抱えてしまうテッド。

 彼は、2年前の悪夢を思い出していた。


挿絵(By みてみん)


 あの時は、十分に距離があったというの逃げられなかった。

 リアルで『しかし回り込まれてしまった』を体験するハメになったのである。


 セーフルームに籠ればマルヴィナと言えども手出しは出来ない。

 しかし、フィジカルモンスターなマルヴィナを目の前にして逃亡を決められるか自信が無かったのである。


(やはり、トイレに行く振りをして駆け込むのが無難かなぁ……)


 寝室から全力ダッシュで逃げても回りこまれる未来しか見えない。

 そもそも、搾られた状態で全力なんて出しようが無いのである。


(もやい)解きました」

「バウスラスター作動。離岸します」

「針路クリア。前進微速(スロー・アヘッド)


 テッドが悩んでいる間に、デューク オブ ドーセット号は出航していた。

 駆逐艦サイズの巨体であるが、平成会の技術陣による徹底的な省力化によって数人のメイドだけで運航が可能になっていたのである。


 出航したことで、テッドの逃げ場はセーフルームしか無くなった。

 日の出ふ頭に帰投するまで10日間。地獄のサバイバルが開始されたのである。







『ドーセット公に愛人が!? お相手は日本人』

『お相手は旅館の若女将? 旅館の関係者に直撃取材』

『加熱する報道に苦言 言論の自由との兼ね合いは如何に』


 1929年3月初旬。

 週刊誌が一斉に愛人疑惑について報道し始めた。


 事の発端は、超望遠で撮られたと思われる一枚の写真であった。

 デューク オブ ドーセット号に乗り込むテッドとマルヴィナ、おチヨの姿がばっちり写っていたのである。


『どうしましょうテッドさん。怖くて外に出れないんです……』


 電話で、おチヨは涙ながらに訴える。

 湯田温泉には記者たちが大勢詰めかけており、外出もままならない状況だったのである。


「そこに居たら危険だ。迎えを寄越すから待ってて」

『でもどうやって……』

「僕を信じて。大丈夫、しばらく我慢してね」

『はい。お待ちしています……』


 おチヨとの通話を終えたテッドは、すぐさま内線で呼び出しをかける。

 しばらくして入室してきたのは、MI6のエージェントであった。


「……と、いうわけで手段は問わないから可能な限り迅速安全に連れてきてほしい」

「了解しました」


 テッドは全権大使とMI6の日本支部長を兼任していた。

 公私混同も甚だしいが、一刻も早くおチヨを救出するべく動いたのである。


『湯田温泉コンサート成功裏に終わる』

『老舗旅館に鳴り響くクラシックの響き』

『周辺住民は継続開催を希望』


 1週間後。

 湯田温泉でクラシックコンサートが開催された。


 唐突な開催であったが、コンサートそのものは成功裏に終わった。

 しかし、このコンサートには裏があったのである。


「テッドさん! 逢いたかった……!」


 大使館に運ばれた楽器ケースから飛び出してきたのはおチヨであった。

 二人は抱き合って無事の再開を喜び合ったのである。


 ゴー〇が入れる楽器ケースならば、小柄なおチヨは余裕で隠れられる。

 全く疑われることなく、彼女はマスゴミから逃げおおせることに成功したのである。


「ドーセット公、愛人についてくわしく!」

「どういった経緯でお付き合いを始めたのでしょうか?」

「申し訳ないが、ノーコメントで。時期が来たら話します」


 おチヨが捕まえられないと知ったマスゴミは、ターゲットをテッドに変更した。

 さすがに大使館に押しかけるようなことはしなかったが、公式行事に参加して帰ろうとするところに群がったのである。


「うへぇ……」


 マスゴミを振り切り、車に乗ってひと安心――とはならなかった。

 バックミラーを見やれば、怪しい車両が金魚の糞の如くついてきていたのである。その後の予定は全てキャンセルして大使館に戻ったのは言うまでも無い。


『やぁ、テッド君。苦労しているようだな。愛人の件はこっちでも報道されているぞ』

「ええええええええ!?」


 ロイド・ジョージからの国際電話で驚愕するテッド。

 加熱する報道は、日本のみならず世界にまで広まっていたのである。


「本国ではどのように報道されているのですか?」

『概ね好意的だ。そもそも、貴族に愛人はつきものだからな』


 日本でのスキャンダル的な扱いとは違い、英国では好意的に報道されていた。

 歴史的に英国貴族は愛人を作りやすい環境であり、この時代ならば複数の愛人を囲うことも珍しくなかったのである。


「これだけのために、わざわざ国際電話をしてきたけではないでしょう?」

『うむ、ここからが本題なのだが……』


 ロイド・ジョージからの提案は渡りに船であった。

 マスゴミの取材攻勢で引きこもり気味だったテッド・ハーグリーブスは、以後積極的に動いていくことになるのである。







「ドーセット公の車だ!」

「運転手、あの車を追いかけろ!」

「今日こそ特ダネゲットだぜ!」


 正門から出て来たファントムⅡを、新聞記者たちが乗った車が一斉に追いかける。ここ最近の英国大使館周辺で風物詩となった光景である。


 30分後。

 黒塗りのトヨタ AA型が人目を避けるように裏門から発進する。


(思ったとおりだ。あんな見え透いた陽動にひっかかるなんて大新聞さまは単純だな)


 その様子を確認した週刊誌記者はほくそ笑む。

 円タクの運転手をせかして、尾行を開始したのである。


(やはり目的地は日の出埠頭か。今度は直接取材で特ダネだぜ!)


 黒塗りのトヨタは、桜田通りを南下する。

 この時点で、尾行する週刊誌記者は特ダネを確信していた。


 この週刊誌記者は、スキャンダル勃発の発端となった望遠写真を撮影していた。

 写真は天井知らずの高値で取引され、男は莫大な金を手にしていたのである。


(今回の取材が成功すれば大金持ちだ。熱海で芸者遊びも悪く無いな……)


 今回の取材が成功すれば、さらなる大金が手に入る。

 豪遊を夢見て、記者の口元も緩もうというものである。


『……次のニュースです。つい先ほど、全権大使のドーセット公が東京聖アンデレ教会を訪問されました』


 しかし、現実は非情であった。

 車内ラジオのニュースが記者の夢想をぶち壊したのである。


「運ちゃん、止めてくれ!」


 週刊誌記者は円タクを停車させると、手近の電話ボックスに駆け込む。

 連絡先は所属する週刊誌の編集部であった。


『何処で油を売っているんだ貴様は!? もうとっくにドーセット公は帰ってしまったぞ!?』


 電話が繋がった瞬間に、受話器から編集長の怒声が聞こえてくる。

 彼が現場にいなかったことを知った編集長は、特ダネを逃したと激怒していたのである。


「いや、裏門から怪しい車両が出て来たので、そちらを追っていたのです。行先も日の出埠頭ですし、こっちが本命のはずです!」

『現にドーセット公は教会を訪問しているだろうが! それともなにか、教会に行ったのは影武者とでも言うつもりか?』

「そ、それは……」

『とにかく、もう戻れ。また大使館に張り付いてろ!』


 有無を言わさない口調で電話が切れる。

 週刊誌記者はその場で立ち尽くしたのであった。


「……旦那さま、尾行が途切れました」

「そうか。でも、念には念を入れよう」

「了解しました」


 黒塗りのトヨタは、とある建物の1階駐車場へ進入する。

 進入すると同時にシャッターが閉められ、外部からは見えなくなった。


 この建物は、最近英国大使館が買収したものであった。

 取材攻勢に辟易したテッドが、こういう時のために準備したものなのである。


 建物の駐車場には散水設備が備えられていた。

 豪雨の如く水をかけられた黒塗りのトヨタが、みるみるうちに変色していく。


 見た目こそ黒塗りであるが、これはオブラートの上から塗装したものであった。

 オブラートは油には溶けないが水には溶ける。水をかけられたことでオブラートが溶けだして元の色が露出したのである。


 わずか数分で真っ赤なカラーリングのトヨタ AA型が駐車場から発進する。

 念の入ったことに、ナンバーも別な物に張り替えられていた。


「やっと着いた。ここまでしなければならないとはなぁ……」

「テッド。ボヤいてる場合じゃないわ。急がないと」

「そうですよテッドさん。急がないと」


 3人は急いでデューク オブ ドーセット号に乗船する。

 深夜になってから、誰にも見られることなく密かに出航したのであった。







「艦長、そろそろ会合地点です」

ASDIC(アズディック)に反応は?」

「いくつかありますが、民間船のようです」


 東京湾内深度50m。

 1隻のL級潜水艦が特命を受けて待機していた。


「念のため、バッフルクリアを行う。その後、潜望鏡深度へ浮上する」

「アイアイサー!」


 艦長の命令に、どことなく嬉々した様子で動くクルーたち。

 潜望鏡深度まで上がればシュノーケルで換気が可能となる。長時間の待機で潜水艦内の空気が汚れており、新鮮な空気を欲していたのである。


「書類を見たときは信じられなかったけど、まさかこんな魔改造がされていたとは……」


 デューク オブ ドーセット号の船底部。

 テッドの眼前には、海に繋がる出入口――いわゆるムーンプールが設置されていた。


 ムーンプールは、船の底に開けられる人や装置を出入りさせるための出入り口である。雨、風、波、流氷などからの影響を受けづらく、快適に作業を行える設備であるが、当然ながら普通の船にこんなものは付いていない。


『旦那さま。そろそろ目標の海域です』

「分かった。手順通りお願い」

『了解しました』


 メイド長の返事と共に、船底に機械の駆動音が響き渡る。

 船底のハッチが開けられたのである。


『音響ビーコンの発振を開始します』


 同時に音響ビーコンが発振される。

 このビーコンは、イルカの鳴き声に偽装されているため万が一傍受されてもバレにくい仕様になっていた。


「艦長、ASDICがビーコンを捉えました」

「相対位置を合わせ!」

「相対位置合致しました」

「ゆっくり浮上するぞ。各員接触に備えろ!」


 音響ビーコンを傍受したL級潜水艦は浮上を開始する。

 ASDIC班が増設された4つの計器を睨む。


 この4つの計器は、ムーンプールの四方から放射されるビーコンの強度を示していた。4つの計器の音響レベルが等しくなれば、正しい位置になるのである。


「本当に潜水艦が出て来たよ……」


 ムーンプールの水面に潜水艦の艦橋が浮かび上がる。

 船内に潜水艦の艦橋が存在するのは、かなりシュールな光景であった。


「閣下、お迎えにあがりました」

「世話になるよ。短い間だけどよろしく」


 潜水艦の艦長とテッドが握手している間にも、クルーたちは積み込みに忙しかった。テッドは今回の任務への個人的な謝礼として、ささやかながら物資を用意していたのである。


「野菜だ、野菜があるぞ!?」

「卵や牛乳もあるぞ!?」


 特に喜ばれたのが生鮮食品である。

 通常の航海だと10日もすれば野菜は尽きる。その後は缶詰か保存食で凌ぐしかない。明日のメニューに思いを馳せて、潜水艦のクルーたちは食材搬入の重労働を頑張るのであった。


「艦長、ゲスト3名と物資の積み込み終わりました」

「ハッチ閉め。潜航する!」

「アイアイサー! ハッチ閉め確認! 潜航します」


 L級潜水艦は、ドッキングを解除して潜航を開始する。

 沈みゆく潜水艦の艦橋を、メイドたち総出で見送ったのである。


「東京湾を抜けるまではモーター駆動だ。バッテリーの残量に注意せよ」

「アイアイサー!」


 大島付近まで南下したL級は、シュノーケル航行に切り替える。

 水中速力最大で目指すのは三陸沖であった。







「ダメだ。何も見えん。水上レーダーだけが頼りだな」


 八戸沿岸から東方50kmの海域に停泊するイギリス船籍タンカー『エンパイア バウンティ』の船長は双眼鏡で周囲を捜索中であった。しかし、発生していた海霧で視界は極めて悪く捜索は難航していた。


「船長、対空レーダーに反応が……なんだこのデカさは!?」


 対空監視をしている航海士が驚愕する。

 彼が睨んでいるPPIスコープには、巨大な輝点が接近する様子が映し出されていたのである。


「お姫様が着いてしまったか。先にそちらを済ませよう。通信士、連絡は取れるか?」

「音声通話が可能です。繋ぎます」


 通信士が無線機を操作すると、ブリッジに機長の声が響き渡る。


『今から着水したい。状況を教えてくれ』

「波、風ともに穏やかだが海霧が発生していて視界が悪い。あと、この海域を航行する船舶は本船を除いていない」

『了解した。これから着水する』


 高度を下げているのか、ブリッジにいながらもターボプロップのエンジン音が近づいてくる。エンジン音が最高潮に達した瞬間、巨大な機影が直上をフライパスしていく。


「水上レーダー、捉えているか?」

「前方500mに着水したようです」

「ゲストの捜索は後だ。先に燃料補給を行う。海霧で視界が悪い。接触しないように念入りに観測しろ」


 エンパイア バウンティは、お姫様――『サンダース・ロー プリンセス』に接近する。距離が詰まるにつれて海霧が薄くなり、やがて巨大な飛行艇が姿を現したのである。


 サンダース・ロー プリンセスは、史実の英国が開発した巨大旅客飛行艇である。テッドが戦前に行った大規模召喚でこの世界に顕現したのであるが、あまりにも巨大で置き場所に困ってしまったために即刻解体されたという悲劇の機体であった。


 とはいえ、無意味に解体されたわけではない。

 解体された部品は徹底的に解析され、ターボプロップエンジンの早期実用化など幾つもの技術的ブレイクスルーをもたらしたのである。


 解析が終わった後は、データ取りのために組み立てられてテスト飛行を何度か実施していた。テスト終了後は倉庫に保管されていたのであるが、ジェフリー・パイクの発案によって再び陽の目をみることになったのである。


「燃料ホース接続確認!」

「ポンプ作動開始!」


 エンパイア バウンティからの燃料が飛行艇の腹を満たしていく。

 主翼内に設けられた4つの燃料タンクは64000リットルもの容量があるうえに、視界が悪い洋上での作業ということもあって作業は遅れ気味であった。


(まさかアレを持ってくるとは……)


 潜望鏡越しにテッドは、サンダース・ロー プリンセスを視認していた。

 潜望鏡から目を離すと、艦長に浮上することを伝える。


「艦長、ボートはありますか? 直接乗り移りたいのですが」

「ゴムボートで良ければ」

「十分です」


 飛行艇の傍に浮上したL級潜水艦からゴムボートが降ろされる。

 テッドはともかく、マルヴィナとおチヨは不慣れな洋上作業に四苦八苦しながらゴムボートから飛行艇へ移乗する。


「よっ、久しぶりだなボーヤ」


 出迎えたのは、機長の制服を粋に着こなしたシドニー・ライリーであった。

 その様子を見てテッドは呆れていた。


「もう良い歳なんだから、いい加減管理職になれば良いのに……」

「馬鹿こけ。尻で椅子を磨くくらいなら、現場で殉職したほうがマシだ」


 MI6長官にもなれるというのに、シドニー・ライリーは現場に拘っていた。

 そのせいで、海軍大将のくせに前線で動き回るはた迷惑な存在になってしまったのであるが。


「まぁ、積もる話は後だ。中を案内しよう」


 シドニー・ライリーの案内で3人は機内へ移動する。

 巨大飛行艇の内部に驚愕することになるのである。







「なんだこりゃ、バーやラウンジがある!?」

「ベッドがあるわ!?」

「お風呂場もありますわ!?」


 サンダース・ロー プリンセスの開発コンセプトは『現代の空の旅』であった。

 あらゆる快適性が検討され、バーやラウンジ、広々としたバスルーム、高級寝台まで備え付けられていたのである。


「というか、こんなに広いのに3人だけで使うのが畏れ多いんだけど……」


 105人の乗客を快適に運ぶために、機内のシートは分厚いクッションと十分過ぎる間隔をもって配置されていた。生前はエコノミーしか乗ったことが無い彼にとっては、ファーストクラスと見まがうほどのものであった。


『そろそろ離陸するぞ。適当なシートに座ってシートベルトを付けてくれ』


 わくわくドキドキな機内探検の最中に、シドニー・ライリーの声がスピーカーから発せられる。3人は並んで着席して、シートベルトを着用する。


「キャプテン、チェックリスト異常無しです」

「エンジンの調子はどうだ?」

「2番エンジンの油温が高めですが、許容範囲内です」

「半日以上飛行したというのに、ご機嫌じゃないか。帰りも問題無さそうだな」


 副操縦士(コ・パイ)と離陸前の打ち合わせをするシドニー・ライリー。

 二人の懸念は長時間酷使したエンジンであったが、入念な事前整備が功を奏したのか目立った問題は見られなかった。


「よし、離陸するぞ。タンカーとサブマリンに離陸することを伝えろ」

「ラジャー!」


 サンダース・ロー プリンセスからの通告で、L級潜水艦とエンパイア バウンティが退避する。進路がクリアになったことを確認したシドニー・ライリーは、スロットルを開いていく。


「うわっ!?」


 機体が急に動き出したことで思わず声をあげてしまうテッド。

 搭載された10基のブリストル プロテウスは合計で3万馬力近い出力がある。如何な巨人飛行艇といえど、軽々と動かしてしまうだけのパワーがあったのである。


「あれ? 操縦はいいのシドニー・ライリー?」

「コ・パイに任せてきた。長い道のりだからな。せっかくだからバーに行こうぜ」


 離水から1時間ほど経ったころ、シドニー・ライリーがテッドの座席にやってきた。ジャケットを脱ぎ、ネクタイも緩めて仕事帰りのサラリーマンの如しである。


「ところで、メイドと愛人はどうしたんだ?」


 両隣に座っていたはずのマルヴィナとおチヨの姿が無いことに、訝し気な表情となるシドニー・ライリー。


「二人は機内探検の続きに行ったよ。風呂場とベッドの使い勝手が気になるって言ってた」

「こいつは処女飛行なんだぞ? 頼むからそういうのは控えてくれ」

「あの二人がそう言って納得してくれれば良いのだけどね……」


 確定している未来に絶望するテッド。

 実際、飛行中に風呂場と寝台で嬌声が聞こえてくることになるのであるが。貸し切り状態だったことが不幸中の幸いであった。


「カルーアミルク。ナッツも付けて」

「ロングアイランドアイスティーを頼む」

「そんな度数の強いヤツ頼んで操縦大丈夫なのか?」

「仮眠前の寝酒だと思えば問題無いさ」


 機内バーでドリンクを注文する二人。

 バーテンダーが手慣れた手つきで、カウンターにドリンクを並べていく。


「ところで、この飛行艇はどういう航路を取るの? まさか直行というわけじゃないでしょ?」


 ナッツを噛みつつ、カルーアミルクを飲むテッド。

 ふと気になった疑問をシドニー・ライリーにぶつける。


「何を言っているんだ。直接本国に飛ぶに決まっているだろう」


 隣でロングアイランドアイスティーを一気飲みするシドニー・ライリー。

 事も無げに返事しつつ、バーテンダーにお代わりを要求する。


「思いっきり領空侵犯じゃないか!?」

「大丈夫だ。この機体に誰も手は出せないさ」

「そういう問題じゃないんだけど」


 サンダース・ロー プリンセスは高度1万mで巡航出来る。

 この時代に成層圏を飛行する機体を迎撃する手段など存在しない。高射砲もはるか下でさく裂するしか無いのである。


「そもそも、ソ連は条約に加入していないから領空侵犯じゃない」

「いいのかなぁ……」


 史実では1919年のパリ国際航空条約によって領空の概念が具体化された。

 この世界でも同様の条約が発効されていたが、史実と同じくソ連は条約に署名していなかったのである。


 三陸沖から離水して15時間。

 サンダース・ロー プリンセスは、特にトラブルも無くスコットランド北部のネス湖に着水した。テッド・ハーグリーヴスは6年ぶりに英国の地を踏むことになったのである。






以下、今回登場させた兵器のスペックです。


サンダース・ロー プリンセス


全長:45.0m   

全幅:66.9m 63.86m(翼端フロート格納時)      

全高:16.99m     

重量:86183kg(空虚重量)

  :149685kg(最大離陸重量)    

翼面積:466.3㎡

最大速度:610km/h(最大) 580km/h(巡航)

実用上昇限度:12000m

航続距離:9210km

飛行可能時間:15時間

武装:非武装

エンジン:ブリストル カップルド プロテウス610 ターボプロップエンジン 5000馬力×4

     ブリストル プロテウス 620 ターボプロップエンジン 2500馬力×2

乗員:パイロット2名 航空機関士2名 無線オペレーター ナビゲーター


イギリスで建造された画期的な高速旅客飛行艇。

同国で建造された飛行艇の中では最大のサイズである。


レシプロ戦闘機並みの高速性と成層圏を巡航出来る高高度性能に加えて9200kmもの航続距離を誇るが、時代は既にジェット旅客機時代に入っており史実では3機建造されたのみで、後に全て解体されている。


この世界ではテッド・ハーグリーヴスの召喚によって顕現したのであるが、巨大過ぎて置き場所に困ったあげくに即刻解体された。解体されたものの、部品は徹底的に解析されて英国の航空技術向上の礎となっている。


後に性能確認のために組み立てられて何度かテスト飛行を行い、テスト終了後は倉庫に保管されていたのであるが、ジェフリー・パイクの発案によって、日英往還機として用いられることが決定して急遽整備が行われている。



※作者の個人的意見

この時代に大型飛行艇があったら大活躍出来るだろうと思って登場させてみました。この機体の存在を知ったら、列強各国は飛行艇の開発に邁進するんじゃないですかねぇw


メディア露出は絶無な機体ではありますが、こち亀に登場してたりします。

一度のみならず二度も登場しているので、秋本治先生がじつは英国面に堕ちているのではないかとドキドキしています(オイ

テッド君が一時帰国(密出国&密入国)しました。

移動手段は確保したので、これからは行ったり来たりすることになるでしょうw


>浮きドック

じつは戦前からある技術だったりします。

帝国海軍は幾つかの浮きドックを所有していましたが、その大半は海外から接収したものでした。


>セーフルーム

パニックルームのほうが通りが良いかも?

欧米ならともかく、日本ではあまり縁のない設備ではあります。


>ゴー〇が入れる楽器ケース

スペース的にはともかく、人が入ることは想定されていないので要注意。

外からロックされたら、自力で脱出することは不可能です。


>歴史的に英国貴族は愛人を作りやすい環境

メイドもお手付きしやすいということです。

肉食系メイドが混じってないと良いですねぇ……。


>オブラートの上から塗装したものであった。

元ネタはさいとうたかを先生の『キティ・ホーカー』です。

モザイク国家を横断するのに、雨雲に突っ込んで雨で塗装を落としていました。


>バッフルクリア

いわゆる全周囲警戒です。

潜水艦後方はスクリューの騒音でソナーの感度が低下するので、旋回して後方の確認をします。


>通常の航海だと10日もすれば野菜は尽きる。

太平洋戦争中の伊号潜では、シャワー室の片隅でもやし栽培をしていたくらいなので生鮮食品は超貴重品です。なので、テッド君からの差し入れに涙を流すほど喜んだことでしょう。


>『現代の空の旅』

あくまでも当時(1950年代)の空の旅という意味です。

当時の空の旅は金持ちの特権であり、高級志向一直線でした。


>10基のブリストル プロテウスは合計で3万馬力の出力

10基のうち8基は2基を直結したカップリングエンジンで内翼側に4基、外翼にそれぞれ1基ずつ配置されていて、しかも巨大な二重反転プロペラで駆動するという、いろいろな意味で英国面満載な存在であります。


>貸し切り状態だったことが不幸中の幸いであった。

今回もダメだったよ……(諦め


>カルーアミルク

実も蓋も無い言い方をすればアルコール入りコーヒー牛乳です。

この時代には存在しないのですが、多分円卓がなんとかしたのでしょう。


>ロングアイランドアイスティー

紅茶が1滴も入ってないくせに紅茶の味がする詐欺のようなドリンク。

しかもアルコール度数がやたらと高くて付いた綽名は『レディキラー』だったり。こいつもこの時代には以下略。


>スコットランド北部のネス湖に着水した。

新たなネッシー伝説の始まり……なんてことはありません。多分。

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― 新着の感想 ―
[良い点] >そこはかとなく漂う違和感 第六感のささやきを無視する奴は(性的に)生き残れない。 はっきりわかんだね。 >ムーンプール これ密輸とかに使う奴!?w しかしこの時代でも混み合ってるだろう…
[良い点] 人気者は辛いですな〜。 [一言] なんだこのエグい飛行艇はwww テッド君をこき使う移動手段が、また増えてじゃないか。素晴らしい。 降機先が、ネス湖というのがまたいいネ。 新たな化物伝説が…
[気になる点] 15時間もの長旅とは、一体どれだけ搾り取られたんだ。
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