第71話 欧州情勢は複雑怪奇(自援絵有り)
「今回の緊急招集について、何かご存じですかな?」
「さぁ? しかし、ただならぬ様子でしたぞ」
「おおかた、ドイツとソ連絡みではないかと思いますがね……」
1927年10月某日。
円卓のメンバーたちは、ロンドンの首相官邸に緊急招集されていた。
「……こんな時間にすまないが、緊急の案件だ。時間も惜しいので、さっさと始めるぞ。シンクレア君、頼む」
現首相であり、円卓議長でもあるロイド・ジョージが開催を宣言する。
ただならぬ様子に、他のメンバーたちも居住まいを正す。
「まずはドイツ、二重帝国連邦、ソ連の最新情報です。国境沿いに兵力が配置されており予断を許さない状況になっています」
「それほどまでにヤバいのかね?」
「両陣営ともに、目立った兵力の増加は見られなくなりました。おそらく、現有戦力での開戦となるでしょう」
MI6長官ヒュー・シンクレア中将の言葉に、円卓メンバーたちはどよめく。
しかし、それほど動揺もしていなかった。遅かれ早かれ、開戦は既定路線だったのである。
「首相、我が国は参戦するおつもりですか?」
「我が国は、参戦も辞さぬ構えではあるが、世論工作が上手くいっているとは言い難い。すぐには参戦出来んだろうな」
大のアカ嫌いであるウィンストン・チャーチル海軍大臣の言に、ロイド・ジョージは渋い表情であった。
既に第1次大戦終結から10年以上経っていた。
大英帝国の臣民は、平和に慣れ過ぎてしまっていたのである。
「なお、この件に関連してソ連がドーセット公の暗殺を企てていることが判明しました」
「「「……なんだ、またか」」」
動揺するかと思いきや、意外と平常運転な円卓のメンバーたち。
暗殺未遂が多すぎて、神経がマヒしているようである。テッドにケンカを売った人間たちの末路を知っているので、なおさらであろう。
「一応聞くが、何故ソ連はそのような暴挙に出たのかね?」
ロイド・ジョージはシンクレアに問いただす。
「……憶測の域を出ませんが、我が国の腰が重いことを見越してのことだと思われます」
「と、言うと?」
「我が国は、今回の旧大陸の争いに介入すると明言はしていません。そのような状況で、同盟国の全権大使が暗殺されたら犯人捜しで戦争どころでは無くなるでしょう」
ソ連側としては、ドイツ帝国と二重帝国連邦(オーストリア・ハンガリー帝国及び南欧諸国連邦)を相手取るだけで精一杯なのである。ここで英国が参戦しようものなら、確実に敗北してしまう。
せめてもの救いは、英国が積極的姿勢を見せていないことであった。
うまく出鼻をくじければ、最終的に英国の参戦を防ぐことが出来ないまでも、大幅に遅らせることが可能と踏んでいたのである。
「ヘイグ君、今から英国海外派遣軍を編成するとしたら、どれくらいの時間が必要かね?」
「2個師団程度でしたら、1か月もあれば可能です。しかし、支援部隊の充足が間に合わないでしょう」
ロイド・ジョージの質問に、陸軍大臣のダグラス・ヘイグ元帥は否定的であった。
基本的にBEFは外征部隊である。
兵力そのものは、本土防衛軍から抽出すれば事足りる。
しかし、輸送部隊や工兵隊などの支援部隊は戦後の軍縮で真っ先に縮小されていた。民間でもツブシが効く部署であるので、戦後復興の特需で引っ張りだこだったのである。
「強権を発動すればなんとかなるか。そのためにも、世論を盛り上げる必要があるな」
「こういうときに、テッド君がいたら助かるんですけどね。彼は、この手の工作が得意でしたし……」
二人そろってため息をつく、ロイド・ジョージとチャーチル。
テッドは演説の名手というわけではなかったが、イラストや漫画で世論に訴える術に長けていた。必要とあれば謀略だって厭わない。円卓では貴重な人材なのである。
「このことに関連して、フランス・コミューン人民空軍の通信量が激増しています。遠からず、何らかのアクションを起こすものと思われます」
6年前にドーセットに不時着した機体から暗号ブックを回収したことにより、MI6は通信を片っ端から傍受して解読していた。人民空軍の行動は完全に筒抜けになっていたのである。
「現状では、我が国は動けない。しかし、支援するだけではソ連相手に両国が後れを取る可能性がある」
「それ故に、代わりに動いてくれる国を探す必要があるわけですな?」
付き合いが長いだけあって、チャーチルはロイド・ジョージの思惑を的確に読み取っていた。それでなくても、自分の手を汚さすに他国を動かすのは英国の伝統だったりするが。いわゆる、ブリカス仕草というやつである。
「ここは、フランス共和国に動いてもらうとしよう。オースティン君、うまく交渉してくれたまえ」
「連中は、コミュニスト絶対殺すマンと化してますから、間違いなく動いてくれるでしょう。それよりも、地中海の覇者を気取るパスタ野郎が煩そうですな」
オースティン・チェンバレン外務大臣の懸念は、イタリアの動向であった。
地中海に展開することになるフランス共和国海軍に、イタリア海軍がちょっかいをかけることを心配していたのである。
「その場合は、ジブラルタルから艦隊を出して牽制する。もちろん、パスタ野郎の出方次第だが」
「そういうことであれば問題無いでしょう。フランス共和国に話を通しておきます」
当然ながら、フランス共和国はもろ手を挙げてオースティンからの提案を受け入れた。本土奪還のために、急速に戦争準備を整えていくことになるのである。
(知らない天井だ……)
目に入ってきたのは和室の天井であった。
(うぅ、気分が悪い……)
頭痛はするし、身体も重い。
特に両腕は重りが付いたように動かない。
「……?」
ここでテッドは気付く。
重りが付いたようにではなく、本当に重りが付いているような気がするのである。視線を下に向けたテッドは――。
(……なんだ夢か)
そう言って、再び眠りに落ちようとする。
両腕にマッ裸な美女二人がしがみついているなんて夢でしかありえない。
「って、違う! 二人とも何やってんのぉぉぉぉぉぉぉ!?」
離れに宿泊していたのは幸いであった。
テッドの絶叫を聞いて、駆け付ける者はいなかったのであるから。
「……で、何がどうなってるの? 露天風呂に行ってからの記憶が無いのだけど」
部屋にあった浴衣を着込みながら質問する。
マルヴィナと女将にも浴衣を着てもらう。全裸な美女相手に質問出来るほどテッドの神経は太くないのである。
「テッドさん、本当に申し訳ありませんでしたっ!」
涙ながらに、土下座する女将。
額を畳にこすりつけんばかりの勢いである。
「テッド、彼女を許してあげて」
意外なことに、女将に助け舟を出したのはマルヴィナであった。
なんのかんの言って、彼女は女将のことを気に入っていたのである。
テッドに寄りつく女どもを、マルヴィナは幾人も排除してきた。
悪い虫は彼女の巨躯を見て気後れし、次いでレーザービームの如き視線を受けて、退散するのが常であった。
しかし、女将は違った。
臆することなく立ち向かってきたのである。それはマルヴィナにとって、とても新鮮なことであった。
「そういうわけで貴方、テッドの愛人になりなさい」
「「ええええええええ!?」」
正妻の言葉に驚愕するテッドと女将。
あまりにも性急過ぎて理解が追い付かない。
「いや、こういうのは本人の気持ちが優先されるべきじゃないの? と、いうかマルヴィナはそれで良いの!?」
「問題無いわ。テッドが寝ている間に語らったけど、悪い子じゃないし」
「そ、そういう問題なのかなぁ……」
正妻公認の妾――いわゆる、2号さんが出来て戸惑うテッド。
英国貴族が愛人を囲うことは珍しいことではないが、正妻から提案されるのは前代未聞であろう。
「お、お姉さまぁぁぁぁぁぁっ!」
女将はマルヴィナに抱き着いて歓喜の涙を流す。
戸惑い気味のテッドと違い、こちらは完全に乗り気であった。テッドへの想いを拗らせて行き遅れていた彼女からすれば、マルヴィナの提案は渡りに船だったのである。
(この一件が、他所に漏れたら面倒なことになる。下手をしたら国際問題になるかもしれない)
マルヴィナとて、単に気に入ったからという理由だけで女将を愛人に推挙したわけではない。彼女なりの計算があった。
全権大使がお忍び旅行で亡くなったら、それこそ国際問題待った無しである。
たとえ未遂といえども、女将は無事では済まないであろう。
対英関係で忖度する政府関係者は大勢いる。
最悪の場合、女将はありとあらゆる罪状を突きつけられて、長期間のお勤めをするハメになるかもしれない。
当然ながら、自分たちも巻き込まれることになる。
そんなことになれば、観光地でテッドとキャッキャウフフ――もとい、慰安旅行どころでは無くなってしまう。
これを回避するには、女将を身内にしてしまうしかなかった。
今回の一件が漏洩したら、愛人との戯れだったということで押し通すつもりだったのである。
『こんなこと、後藤さんにバレたら説教どころじゃ済まないぞ!?』
『そもそも、ドーセット公が慰安旅行に同行していること自体極秘扱いなのだ。マスコミに漏れたら大スキャンダルだぞ!?』
『現地の警察に圧力をかけましょう。後始末は大日本帝国中央情報局にやってもらいます』
幸いなことに、今回の件が大っぴらになることは無かった。
事の顛末を知った平成会が全力で隠ぺいしたのである。
ちなみに、マルヴィナが破壊した仕切り壁の修理費はしっかり請求された。
慰安旅行から帰ってきて、自分のデスクに積み上がる請求書を見て悶絶することになるのである。
「……なるほど。朝鮮半島で、そのようなことがあったのですね」
明るい色のサファリジャケットに短ズボンを穿いた女性――アグネス・スメドレーは感心しきりであった。テッドの口から聞ける朝鮮半島事情は、新鮮かつ面白いものだったのである。
彼女の現在の身分は、大阪朝日新聞の特派員である。
マルヴィナと女将の百合百合しい空気に負けて逃げ出してきたテッドを、これ幸いと捕まえて取材に持ち込んでいた。
スメドレーはテッドを質問攻めにした。
彼女は、内心では彼がボロを出すのを期待していた。しかし、目の前の男は朝鮮半島での体験を面白おかしく語ってくれたのである。
テッドはKの国の人間は大嫌いであったが、同時にK国ウォッチャ―でもあった。ウォッチガードセキュリティのボスという立場を利用して、その手のネタを収集していたわけであるから詳しいのも当然であろう。
「そういえば、2年ほど前に朝ソ国境付近で紛争があったと伝え聞いたのですが事実ですか?」
埒が明かないと判断したスメドレーは、話題を変える。
彼女にとって2年前の朝鮮動乱は、テッドの化けの皮を剥がすよりも興味あることであった。
「……それはちょっと答え難い質問ですね」
今まで饒舌だったのに、途端に黙り込むテッド。
「どうして? あの時現場にいたのでしょう?」
対するスメドレーは、追及の手を緩めない。
2年前の朝鮮事変における赤軍の帰還兵は皆無であり、朝ソ国境で何が起きたのかソ連側は把握できなかった。
その後の調査で、ウォッチガードセキュリティによって殲滅されたことだけは判明したのであるが、どのようにしてやられたのかまでは分かっていなかった。それ故に、彼女は何が何でも聞きだすつもりだったのである。
(しまった。調子に乗ってしゃべり過ぎたか)
テッドは生前の体験から取材を受けるのは大嫌いであった。
しかし、それ以上にスメドレーの取材力が勝っていた。史実日本のマスゴミとは異なり、彼女は真のジャーナリストだったのである。
(どうしよう? 別に口止めされてるわけじゃないから、素直に話しても良いのだけど)
ちらりと、スメドレーを見るテッド。
既に彼女は万年筆と手帳を構えて準備万端であった。
(よく考えたら、ここで嘘を言っても確認する手段は無いじゃないか)
ここでテッドに天啓とも言うべきアイデアが浮かぶ。
アジア最後の未開の地とまで言われている朝鮮半島である。たとえ嘘を言ったとしても、確認する手段は無い。
「……分かりました。でも、僕が言ったということは伏せてくださいね?」
「取材源の秘匿はジャーナリストの義務よ。ここに誓わせてもらうわ」
取材源の秘匿は、ジャーナリストの義務あるいは権利である。
情報源との信頼関係を保護すると同時に、情報源を萎縮させずにさまざまな情報を取材するために不可欠なものである。
「……朝ソ国境での紛争は、ウォッチガードセキュリティが新兵器を投入していました」
「その新兵器は、どんなものなの!?」
新兵器と聞いて、興奮するスメドレー。
思いっきり、前のめりで真相を聞き出そうとする。
「……制式名称はパンジャンドラム。自走式の陸上爆雷です」
嘘を言っても確認しようが無いのに、本当のことを話すテッドはじつにお人好しである。英国紳士の風上にも置けない甘ちゃんであろう。
「自走式? 陸上爆雷?」
聞いたことのないワードを聞いて混乱するスメドレー。
テッドは即興でありながらも、無駄に完成度の高いイラストを彼女の手帳に描いて解説する。
『爆薬が満載された重量2tの鋼鉄のボビン』
『構造が簡単で量産向き』
『カタパルトで目標の直前まで射出され、着地後に時速200kmで接触後に爆発する』
実際の赤軍の被害は、オートジャイロによる対地攻撃や、サーモバリック爆弾による広範囲殲滅が大半なのであるが、とにかく嘘は言っていない。
パンジャンドラムの存在を知った赤軍関係者は、その詳細を掴むべく血道をあげた。
彼らがパンジャンドラムの詳細を知るのは、テッドが監督を務めたプロパガンダ映画『ワン・オー・ワン 101匹パンジャンドラム大行進』が公開されてからのこととなる。
「まさか、影武者がバレているとは思わなかったよ」
「確かに、あの影武者はよく化けていたな。俺も最初は騙されたし」
公園の足湯に浸かる二人の男。
浴衣姿のテッドと、スーツを粋に着こなしたシドニー・ライリーである。
テッドは、スメドレーの取材攻勢で疲れ果てていた。
偶々、近所の公園の足湯で癒されているところに、シドニー・ライリーが乗り込んできたのである。
「ただまぁ、この時期に冬コミの話題の一つも出さないのは違和感ありまくりだったな」
シドニー・ライリーの指摘に頭を抱えるテッド。
いくら外見と声音を完璧に擬態したところで、アメリカ時代からの腐れ縁である彼には通用しなかったのである。
「……で、ここから本題なんだが。コミンテルンは、おまえさんの顔写真を配布している。殺る気満々だぞ」
「あの連中にそこまで恨まれる覚えは無いんだけど……」
「何言ってんだ。朝鮮半島で赤軍を文字通り全滅させたろうが」
「あれはウォッチガードセキュリティが頑張り過ぎたせいであって、僕のせいじゃないし」
この期に及んで危機感が無いことに呆れてしまうシドニー・ライリー。
それ故に、現実を知らしめることにしたのである。
「コミンテルンは、ウォッチガードセキュリティのボスがおまえさんだということに気付いているぞ?」
「えっ?」
テッドの顔が青ざめる。
しかし、シドニー・ライリーは容赦ない追い打ちを加える。
「さっき、ぼーやを取材した女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーはコミンテルンの協力者だぞ?」
「うそっ!?」
口をパクパクさせる姿は金魚の如しである。
だが、シドニー・ライリーのターンはまだ終わらない。
「まだあるぞ。 最近、西ヨーロッパが不穏なことは知っているか?」
「ドイツ帝国と二重帝国連邦が、ソ連と睨み合っていることは知ってるけど……」
「国境沿いには戦力が配備され始めている。緊張度は高まる一方だ」
「それが、僕にどう関係してくるのさ?」
職務外の西ヨーロッパ情勢を語られて困惑するテッド。
そんな彼を見て、楽しそうに話を続けるシドニー・ライリー。
「我が大英帝国は極秘裏に両国を支援している。いざ戦争が始まったら参戦も辞さない構えだ」
「はぁ……」
『だからどうした』とばかりに生返事するテッド。
しかし……。
「この状況で、おまえさんが暗殺されたら犯人捜しで戦争どころじゃなくなるだろうな」
「ふぁっ!?」
足湯に浸かっていたことを忘れて立ち上がり、足を滑らせて盛大にすっ転ぶ。
結果、浴衣姿のずぶ濡れ男の一丁上がり。いわゆる、水も滴るいい男というやつである。
同盟国の全権大使が暗殺されようものなら、犯人捜しで戦争どころではない。
英国はもちろんのこと、日本も動けなくなるのである。
「スターリンが人民の敵認定したそうだぞ。出世したな!」
「嬉しくねぇぇぇぇぇぇっ!」
思わず絶叫するテッド。
状況を理解したのか、完全に血の気がひいていた。
「うわぁぁぁぁぁんっ!? 助けてシドニエモンっ!」
「シドニエモン? よく分からんが、俺も同行してやろう。大船に乗った気分で頼ると良いぞ」
ダブルオーナンバーが護衛に付いてくれるのであれば、心強いことこの上ない。
同じダブルオーナンバー(番外)のマルヴィナも加われば、暗殺対策は万全となる。
ちなみに、ダブルオーナンバーはMI6が誇る一騎当千のエージェントである。
元ネタは史実の女王陛下のスパイが活躍する某映画であるが、この世界ではテッドのスパイ同人誌のアイデアをMI6が取り込んだものになっていた。
テッドが知る限り、現在の001は、シドニー・ライリーである。
他にもダブルオーナンバーは存在するが、その存在は極秘扱いであった。マルヴィナもかつては最強のダブルオーナンバーであったが、寿退社したために番外扱いになっていたりする。
「それは助かるけど、仮にも海軍中将でしょ? そんな軽いフットワークでいいの?」
「それを言ったら、全権大使のぼーやはどうなんだよ?」
「うぐっ」
見事なブーメランを喰らってしまうテッド。
どう考えても、海軍中将よりも全権大使のほうが立場は上である。
だからといって、海軍中将がほいほい動いて良いモノでも無いのであるが。
某海賊漫画の海軍本部中将だって、ここまでフリーダムに動いてはいない。
実戦経験豊富なベテラン兵たちに加えて、一騎当千のエージェントが乗る特別列車。コミンテルンの策謀が失敗することが、この時点で確定したのである。
『特別列車の位置は現在の位置は……』
電鍵を叩く尾崎秀実の表情は暗かった。
あれだけ進言したにも関わらず、暗殺計画は中止されなかった。それどころか、より頻繁に位置情報を求められるようになったのである。
原因は、アグネス・スメドレーの報告から発覚したエスケーピングコリアン号の夜間運転であった。鉄道ダイヤを無視した移動が可能となると、行動範囲は飛躍的に増大することになる。
おまけに、事前に公開されていた移動計画は既に有名無実化されていた。
特別列車の移動先を予測することが極めて困難になってしまったのである。
これでは、暗殺団を送り込む以前の問題である。
確実に立ち寄るであろう場所で待ち受ければ良いのであるが、あまりにも人目が多いと暗殺の成功率が下がってしまう。
可能ならば僻地で、人目の無い場所で列車ごと爆破するのが安全かつ確実である。そのためにも、コミンテルン本部は可能な限りリアルタイムに位置情報を欲していた。
「……ん?」
信号でも無いのに、停車することに疑問を抱く尾崎。
前方を見ると、前方には大勢の警官がいた。
「旦那、どうやら検問のようですぜ」
「検問だと? ……まずいっ!」
大慌てで、無線機を隠す。
警官がアンテナらしきものを持って近づいているのが見えたのである。
「ちょ!? そんな乱暴に扱ったら……」
「それどころじゃない!」
電源を引っこ抜き、レシーバーを放り込んで隠し扉を閉じる。
何かが割れるような音がしたが、気にしている場合では無かった。
「すみません、検問です。車内を調べさせてもらっても良いですか?」
検問で足止めされた車両を、警官が一台ずつ調べていく。
それは確実に、尾崎の乗っているタクシーに近づいていた。
「……おや、尾崎さんじゃないですか。いきなり写真撮影は困りますねぇ」
車内を調べようとした警官は、逆にカメラを突き出されて困惑する。
「ははっ、申し訳ない。職業病でね。ところで、何か事件でも起きているのかね?」
屈託のない笑顔でカメラを向ける尾崎。
つい数分前まで作業していたというのに、大した心臓である。
「あぁ、じつは不審な電波が出ているという話で……」
「おい、余計なことを話すな。問題無いなら、さっさと通しちまえ!」
「……まぁ、そういうことです」
顔見知りであったためか、警官は車内を詳しく調査しなかった。
取材で警察署に出入りすることが多い尾崎には顔見知りの警官が大勢いた。今回はそれが幸いしたのである。
「……ふぅ。寿命が縮むかと思いましたぜ」
バックミラー越しに、後方に遠ざかっていく検問を見て安堵のため息をつく運転手。内心ではアクセルをベタ踏みしたい気分であったが、不信感を抱かれたら一巻の終わりである。
(検問を仕掛けて来たということは、暗号発信がバレているのは間違いないな)
後部座席で尾崎は頭を抱えていた。
先ほどの警官は、車内からの電波を逆探知していた。間違いなくターゲットは自分だったはずである。
(これ以上の発信は自殺行為だな……)
少しでも無線機の収納が遅れていたら逆探知にひっかかっていたであろう。
事実上、電波発信は不可能になったのである。
「旦那、これからどうしやす?」
「どうもこうも無い。無線の使用は無期延期だ」
「じゃあ、おいらはお役御免ですかい?」
「ああ。こちらから呼び出すまでは、せいぜい本業に精を出してくれ」
尾行を警戒したのであるが、結局それらしい車両は現れなかった。
やがてタクシーは、大阪駅のロータリーに滑り込む。
タクシーから降りる尾崎であるが、違和感に気付く。
いつもなら、すぐに発進するタクシーが動かない。
「旦那、料金を忘れてますぜ」
「金を取るのか!?」
「裏稼業に頼れない以上、こっちにも生活がありますんでね」
「……もう少しまからんか? あと領収書を切ってくれ」
苦々しい表情で財布から紙幣を取り出す尾崎。
コミンテルンの大物エージェントも、資本主義の原理には勝てないのであった。
「水と食料の積み込み終わりました」
「積み込みリストに漏れは無いな?」
チェックリストを片手に、食材の確認をする料理長。
終電が通過した湯田駅では、エスケーピングコリアン号への積み込みが行われていた。
「大丈夫です。リスト外で酒もばっちり仕入れました!」
「「「よし!」」」
サムズアップする食堂車のスタッフたち。
命の水であるウィスキーはもちろんのこと、来日してからハマった日本酒、焼酎、泡盛と選り取り見取りであった。
当初の計画が破綻した結果、事前に予約していた宿泊施設が全てキャンセルされた。なお、発生したバカ高いキャンセル料は全てテッドに請求された。
この事態に、旅行プランナーである平成トラベルが真っ青になったのは言うまでも無い。死の物狂いで善後策を協議した結果、高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処することにした。要するに、行き当たりばったりである。
宿泊先を確保出来なかった場合は、駅構内での車中泊となった。
もっとも、エスケーピングコリアン号は寝台列車であるため、この点はあまり問題にはならなかった。
『ちょ、もう無理ぃ……!?』
『何言ってるの? あと3回はいけるでしょ?』
ホテル並みの設備が備えられているので、安宿に泊まるくらいならと列車に残留する隊員もいたくらいである。おかげで、宿泊先を確保する苦労は多少なりとも減少した。完全に焼け石に水ではあったが。
「……部長、土産物買いすぎです。どこに積むんですか?」
「ちょっと調子に乗って買い過ぎたな……って、貴様も人のこと言えんだろうがっ!?」
スカーフェイスで強面の男が部下に怒鳴る。
その部下も大量にお土産を持ち込んでいるので、たしかに人のことは言えないであろう。
深夜になった湯田駅は、ウォッチガードセキュリティの隊員たちでごった返す。
リュックに土産物を満載した隊員たちがずらりと並ぶホームは、まるで史実戦後の買い出し列車の如しであった。
「テッドさん、お姉さま……」
ホームの端では女将、テッド、マルヴィナの3人が別れを惜しんでいた。
「そんな顔しないの。また会えるわ」
「お姉さま……!」
二人して百合百合しぃ空間を作り出す。
公衆の場でやられたら、間違いなくお巡りさんを呼ばれるレベルである。
(いつの間に、こんなに仲良くなったんだろう?)
二人の雰囲気に困惑するテッド。
テッドが昏睡している最中に、いろいろあったのである。
「……あー、なんか悲壮感があるけど、別にこっちに遊びに来れば良いんじゃないの?」
「「それだっ!」」
『恋人つなぎ』をしながら、仲良くハモる二人。
残念ながら、身長差のせいで違和感しかない。
「お姉さま。来るときは手紙を出しますねっ!」
「大使館の住所は分かる?」
「はいっ、先日も違約金の請求書を送りましたので大丈夫です!」
「ぐはっ!?」
請求書と聞いて、悶絶するテッド。
彼が、自分のデスクに積み上がった請求書の山に悲鳴をあげることになるのは、もう少し後のことである。
テッドの言葉がきっかけで、女将は『出張』と称して頻繁に上京することになる。さすがに大使館に連れ込むわけにはいかないので、用意した隠れ家で共に過ごしたのであるが……。
『お姉さまといっしょが良い!』
――女将たっての願いで、何故かマルヴィナも含めて3人で過ごすことが多かった。
一人だけでも大変なのに、二人同時となると苦行を通り越して拷問であろう。
慰安旅行後のテッドには、常に腹上死フラグが立っていたのである。
「さてと、そろそろ時間だな……」
シドニーライリーは、エスケーピングコリアン号の食堂車で返事を待っていた。
車窓から見る山口線沿線は完全な闇である。そのせいか、列車の走行音がやたらと大きく聞こえてしまう。
「来たか」
彼の目の前に置かれたテレタイプが動き出す。
吐き出される紙に印刷されているのは、数字の羅列であった。
テレタイプは電動機械式のタイプライターである。
簡単な有線・無線通信を通じて2地点間の印字電文による主に電信に用いられる。
シドニー・ライリーが使用しているテレタイプは、短波回線でリンクすることによって、リアルタイムでMI6日本支部とやり取りが可能である。感覚的には、モニター無しでパソコン通信をやっている感じであろうか。
(今回の情報はフランス絡みか……)
数字の羅列を同人誌片手に解読する。
異様な光景であるが、何のことは無い。同人誌が暗号ブックになっているのである。
これはMI6で試験運用されている特殊暗号で、コミック暗号と呼ばれていた。
従来の暗号の欠点を解消するべく開発されたもので、暗号強度と利便性を両立させた画期的な新暗号である。
この時代における暗号の運用は、暗号機が主流になりつつあった。
一例を挙げると、ドイツ帝国では商用エニグマが既に商品化されており、欧州各国にも普及していたのである。
ちなみに、日本でも平成会の暗号マニアによって九七式欧文印字機の再現に成功している。史実よりも大幅に早い1921年から、パープル暗号を運用していたのである。
暗号機によって作られる暗号のパターンは、膨大な組み合わせとなる。
一見すると難攻不落に見えるが、じつはそうではない。
組み合わせが膨大ならば、全部試してしまえば良い。
いわゆる、総当たり攻撃である。人力では到底不可能であるが、コンピュータがあれば実現可能である。
これに加えて、言語には特定のパターンがある。
英語による文章では、『E』の文字が最も多く使われる。これを鍵にして解読するのが、頻度分析である。
暗号を運用している部署で必ず使用される単語や言い回しというものがあるが、これらをクリブと言う。これも暗号解読の鍵となる。
つまりは、従来の暗号機で作成された暗号は安全性に欠けるのである。
いくら複雑に変換しようとも、総当たりと頻度分析、さらにクリブまで加わると破られるのは時間の問題である。
MI6で暗号を扱う部署である政府暗号学校(旧M1)は、第1次大戦中に上述の結論に達していた。パラメトロン・コンピューティングによってドイツ軍の暗号をリアルタイムで解読した経験があったからこそである。
コミック暗号の肝は、バーナム暗号とワンタイムパッドである。
この二つの要素を組み込むことによって、機密性と暗号強度、利便性をも併せ持った暗号になったのである。
バーナム暗号は、理論上では最強の暗号である。
通信量と同量のパスワードをあらかじめ共有する必要があるため、運用が非現実的という難点があった。
コミック暗号では、運用する双方が同じ同人誌を保持していることが前提である。同人誌自体は何の変哲もないシロモノであり、1ページ目の一コマ目のセリフから1文字ずつ変換していく単一換字式暗号となっている。
アルファベットに1~26の数字を割り振り、送りたい文字と割り当てられるコミック側のセリフとの差分を数値に変換する。
一例を挙げると、『D』という文字を送りたい場合、コミック側が『G』だった場合、『03』という数値となる。『Z』を送りたい場合、コミック側が『A』だった場合は『-25』となる。
もう一つ重要なことは、同人誌は暗号1回ごとに使い捨てるということである。
これは事実上のワンタイムパッドである。同じ乱数を使用しないので、運用が完璧であるならば破られることはあり得ない。
『くそっ!? なんで解けないんだよ!?』
『スパコンでも持ってこいとでも言うのか。この時代に、こんな暗号強度があり得るはずが……』
実際、JCIAの暗号解読は意味を為さなかった。
蛍光表示管を用いて大幅に小型高性能化した、和製エニアックとでも言うべき真空管コンピュータをフル稼働しても解読出来なかったのである。
暗号ブックに同人誌が選ばれたのは、希少性と違和感の無さを兼ね備えているためである。
ありふれた同人誌が暗号ブックなので、緊急時に破棄し損ねても問題無い。
暗号ブックにしている同人誌を敵側に知られても、同一のものをタイムリーに所持することは、ほぼ不可能である。
ふざけているようであるが、コミック暗号は極めて理にかなった暗号なのである。
しかし、運用に前提と制約が存在するために、MI6としては全面的に採用するつもりは無かった。
より堅固な暗号を開発するために、英国はコンピュータの開発に莫大な予算を投下した。パラメトロン・コンピュータは既に性能向上の袋小路に突入しており、トランジスタの実用化と、その先のIC、LSIの実用化を急いでいたのである。
いよいよ、欧州がキナ臭くなってきました。
仮想(火葬)兵器のスペック考えるの楽しいし、戦闘描写もやっぱり楽しい。早く戦争にな~れ♪(オイ
>「「「……なんだ、またか」」」
やたらと暗殺未遂が多いので円卓メンバーからも匙を投げられています。
本人の戦闘力が高いことに加えて、それ以上にヤバい嫁がいるので心配はしていないようです。さすがに警告くらいはしていますがw
>6年前にドーセットに不時着した機体
ヒトラーが心血を注いで作り上げた牧場を破壊したヤツです。
47話、48話参照。
>オースティン・チェンバレン
円卓所属で閣外協力という形で入閣しています。
使える人材を外から遠慮なく引っ張ってこれるのが、ロイド・ジョージ内閣の長寿の秘訣です。
>両腕にマッ裸な美女二人がしがみついているなんて夢でしかありえない。
今月はいろいろあって、時間が足りなくて挿絵はあきらめました。ガッデム!
>対英関係で忖度する政府関係者は大勢いる。
平成会のモブはそんなことしないですが、出世したいがために英国に良い顔をしようとする官僚は大勢います。彼らが暴走するとロクなことにならないでしょうね。
>『こんなこと、後藤さんにバレたら説教どころじゃ済まないぞ!?』
日本側で、テッド君が慰安旅行に参加していることを知っているのは平成会の関係者だけです。バレたら、全員ボーイスカウトの刑ですねw
>テッドはKの国の人間は大嫌いであったが、同時にK国ウォッチャ―でもあった。
筆者も同様だったり。
割と身近にいますよね。Kの国は嫌いだけどウォッチするのが大好きって人種w
>『ワン・オー・ワン 101匹パンジャンドラム大行進』
列強の兵器開発を混乱させるのが目的のプロパガンダ映画です。
改良された英国面兵器が多数出演する予定です。
>公園の足湯
史実の井上公園がモデルです。
平成会山口県人会の有志が再現しています。
>「スターリンが人民の敵認定したそうだぞ。出世したな!」
被告人不在のモスクワ裁判待った無しです。
ひょっとしたら、21人裁判のほうかもしれませんがw
>ちなみに、ダブルオーナンバーはMI6が誇る一騎当千のエージェントである。
この世界のMI6は、テッド君のスパイ同人誌の影響をモロに受けまくっています。ダブルオーナンバーのエージェントだけでなく、『Q』も『M』も実在します。
>「……もう少しまからんか? あと領収書を切ってくれ」
この時代だと円タクなので、現在のタクシーよりはるかに高額でしょう。
経費じゃないと乗ってられないですね。
>『恋人つなぎ』
いろんなシチュがありますが、ここでは二人が向かい合ってお互いの手を握ってる構図ですね。これも挿絵にしたかったけど時間が無かったんや…_| ̄|○
>コミック暗号
リスペクト元で支援SSを書いてたときに思い付きました。
暗号強度は抜群ですが、使い道が限定される暗号です。
>和製エニアック
平成会の技術陣が完成させた蛍光表示管を用いた計算機の発展型です。
真空管よりも小型軽量で球切れの心配が無い蛍光表示管を使用したことにより、業務用冷蔵庫並みのサイズにまでダウンサイジングしています。
>パラメトロン・コンピュータは既に性能向上の袋小路に突入しており、
テッド君が召喚に成功してから既に17年。
フェライトコアの水冷化やクラスター化などあらゆることをやって演算速度を上げましたが、さすがに限界です。シリコントランジスタの開発が軌道に乗ったら、パラメトロンの機密が解除されて民間で大々的に使用されることになるでしょう。