第24話 オーシャン・ライナー
船内に設けられた船室は、広大で贅を尽くした部屋であった。
寝室のみならず、リビングルームに浴室まで完備された一等特別室。お値段は当時の金額で4350ドル。現在の価格で9万ドル弱($86344.08)で、日本円に換算するとおよそ910万円也。
部屋代だけで、高級車が買えてしまうような個室を3つ取ったというのだから、MI6は太っ腹である。実際のところは、3部屋分を隣接して確保出来るのがここしか無かっただけなのであるが。シドニー・ライリーの部下であるボブ・エバンズは、この請求書を見るやいなや胃を押さえてうずくまったという。
この船の凄いところは値段だけではない。
最新のテクノロジーを駆使してエレベーター、プール、トルコ式サウナや浴場、スポーツジムまで完備されており、設備もサービスも当時の最高峰であった。
船内のインテリアなどは、伝統的な職人技を駆使して作られており、なかでも豪華を極めたのが1等船室専用レストラン『アラカルト』である。1等、2等、3等それぞれにレストランは併設されていたが、アラカルトはその上をいく特別なレストランであった。
アラカルトの内装は、当時の欧州の最高級ホテルのダイニングを思わせる重厚な造りであり、羽目板や家具には職人による凝った装飾が施されていた。床に敷かれた絨毯も、ルイ16世風デザインの毛足の長いローズ色のカーペットである。隣接する応接間で弦楽トリオが奏でるプッチーニやチャイコフスキーに耳を傾けながら食事をするという、まさに宮殿といっても過言では無い華麗さであった。
「うー・まー・いー・ぞぉぉぉぉっ!」
そんなアラカルトのテーブルで吠えるタキシード姿の青年が一人。
あまりの美味しさに彼は口から光線が放てそうなセリフを吐いて感激していた。
「テッド様。お静かに」
青年ことテッド・ハーグリーヴスをたしなめるのは、純白のイブニングドレスに身を包んだマルヴィナ・ハーディングである。褐色肌と純白のドレスのコントラストが、彼女をいつも以上に色気あるものにしていた。
「まったく、現金なものだな。この船の名前を知ったときは青い顔をしていたっていうのに……」
呆れた表情で高級シャンパンをあおるシドニー・ライリー。
こちらもタキシード着用である。スパイとして社交界に潜入することが多い彼は、その着こなしも堂に入ったものであった。
美食家たちの舌をうならせる豪華な料理を楽しんだ3人は、それぞれで船内でくつろいだ。
シドニー・ライリーが、応接間で食後酒をたしなみつつ巧みなトークで淑女たちを魅了したり、自室で休もうとしたテッドに当然のようにマルヴィナが付いていって、激しいバトルが展開されたりエトセトラ。
豪華客船タイタニック号の1日目の夜は平穏無事に更けていく。
今回の航海が、最後まで平穏であることを乗船客の誰もが疑っていなかったのである。
(うぅ、太陽が黄色い……)
ニューヨークを出港して二日目の朝。
大西洋の空は澄み渡り、波も穏やかだというのにプロムナードデッキを歩くテッドは憔悴していた。
「お、ぼーやも起きていたか」
「……とてもグッドな気分じゃないけど、グッドモーニング。シドニー・ライリー」
「せっかくだから、いっしょに朝飯を食いにいくか?」
「そうだね」
「じゃあ、行くとしようか。アラカルトはまだ開店していないだろうから、1等の船内食堂にしよう」
開店直後で客もまばらな食堂のテーブルに座ると、すぐに二人分の朝食が運ばれてくる。アラカルトを例外とすれば、基本的に船内食堂のメニューは献立によって定められており、その日に食べることの出来る料理は限られていた。ちなみに、本日の朝食メニューは以下の通りであった。
ベーコン・ハム
ソーセージ
目玉焼き
ブラックプディング
ホワイトプディング
油で炒めたトマト
マッシュルームのソテー
トースト
ソーダブレッド
ポテトケーキ
アイリッシュ・ティー
牛乳
朝からボリューム満点なフル・ブレックファストである。
朝食は不味いと言われている英国料理の中で数少ない例外である。相変わらず昼食と夕食は酷いものであったが、この世界の英国の食事は、円卓やテッドの努力によってだいぶ改善されていた。
「ところで……」
「え?」
朝食のソーセージをぱくつきながら、シドニー・ライリーはニヤリと笑う。
「昨日はお楽しみでしたね?」
「ぶふぅーっ!?」
「おわっ!? 汚いなっ」
ド直球な質問に、思わず噴き出してしまうテッド。
「ど、どうしてそれを!?」
「どうしてって、隣であれだけの声を出せばなぁ……」
どうして気付かれないと思ったのか逆に困惑するシドニー・ライリー。
夢のような豪華ディナーを堪能して幸せなままベッドで寝ようとしたテッドは、褐色の淫魔に襲撃されて搾り取られていた。明け方になって、ようやく満足したマルヴィナを起こさないようにそっと抜け出してきたのである。
「あの女傑を満足させるとか、おまえさんも大概だよな」
「人を絶倫みたいに言わんでくださいっ!」
「違うのか?」
「の、ノーコメントで……」
かつて、エドワード・ウィリアム・バートン=ライトに師事してバーティツ(Bartitsu)を学んだテッドは、インドア系な同人作家とは思えないほど肉体を鍛えていた。その目的は、某ショタコンメイドからの貞操の危機を回避するためだったのであるが、今では彼女を喜ばすためにその肉体を行使していた。なんとも因果な話である。
朝食後にシドニー・ライリーと別れたテッドは、船内探索を楽しんでいた。
ガラス張りで時化や強風でもでも安心安全なプロムナードデッキ。
明るく広い、高級な椅子とテーブルが並ぶ一等船室用のレセプションルーム。
一流の職人による微に入り細を穿ったデザインで目を楽しませてくれる大階段。
とにかく、歩くだけでも新鮮で楽しいのである。
生前?も含めて、初めての豪華客船は魅力的であった。彼の脳裏からは、この船があのタイタニック号であることは既に消え去っていた。
(あ、あれはっ!?)
スキップでもしそうな勢いで船内を闊歩するテッドであるが、思わず足を止める。食い入るように案内板を睨むこと数秒。意を決したのか、案内板に書かれた方向に歩き去った。その看板にはトルコ式サウナと書かれていた。
「痛たたたたっ!?」
30分後。
腰布一枚となったテッドは悲鳴をあげていた。
彼が寝そべっている部屋は蒸気が立ち上っており、酷く蒸し暑い。いわゆる蒸し風呂というやつである。背中の上に、おっさんのあかすり師が陣取り、手荒く彼の身体を洗浄していく。
「マッサージモスルカイ?」
「あ、お願いします」
「準備スルカラマッテテクレ」
慣れない片言の英語で対応してくれるあかすり師。
おそらくトルコから出張してきたのだろう。ここらへんの拘りは、さすがタイタニック号というべきであろうか。
(でも、期待していたのとは違うんだよなぁ。これはこれで気持ち良いのだけど……)
こんなことを思うのは、彼が元日本人だからであろう。
特定の世代の日本人にとって、トルコ式サウナ(トルコ風呂)というのは、いわゆるソー〇なのである。当時のトルコ人留学生の抗議で〇ープランドに改称されてしまったのであるが、史実の日本では、風俗嬢のことをトルコ嬢と言っていた歴史があったのである。
テッド自身は、直接トルコ風呂(風俗)を体験したわけでは無いのであるが、知識としては知っていた。それ故に、トルコ風呂と聞いて心が躍るのも当然であった。本場のトルコ風呂は男女が区別されており、客が女性ならば女性のあかすり師が担当するようになっているので、これが当たり前なのである。当の本人はそんなことを知る由も無かったのであるが。
「では、マッサージを開始します」
「……?」
夜の運動と満腹で睡魔に襲われていた彼は違和感に気付けなかった。
「!?」
背中に巨大なプリンを押し付けたような感触に一瞬で覚醒するテッド。
おそるおそる、横這いになったまま後ろを振り返る。
「ば、馬鹿な……こんなに早く復活するなんて!?」
「残念でしたね。トリックです」
そこには、辛うじて退けたはずの褐色の淫魔が完全復活していた。
全裸で爆乳と腹筋を惜しげもなく晒しているのは、きっとトルコ風呂の作法に乗っ取っているのであろう。トルコ風呂は女性は何も纏わずに入浴するのが通例なのである。
「さぁ、テッド様。第2ラウンドと参りましょう」
「あ、アイエエエエエエエエ!?」
もちろん、テッドに勝ち目などあるはずもなく。
浴室で散々に搾り取られたのであった。
(し、死ぬかと思った……)
ステッキを杖のようにして歩く青年が一人。
顔は憔悴し、腰が多少ガクガクしている。
あの後、隙を見て逃げ出した……というよりも、マルヴィナが見逃してくれたのだが。周りは海なので、どうやっても逃げられないという余裕があるためだろう。最近は『多少』夜の方面が過激なので、少し手加減して欲しいなと切に願うテッドであった。
(ここはどこなのだろう?)
必死になって逃げたので、場所が分からなかった。
そんな彼に背を向けて、ボソボソと小声で話す労働者ルックな男たち。その所作は明らかに訓練を受けた者のソレであり、どうみてもカタギでは無かった。
「首尾はどうだ?」
「今のところは予定通りです」
「では……」
「あ、すみません。ここって何処なんでしょう?」
そんな彼らに、空気を読まずに声をかけるテッド。
その返答は言葉では無く行動であった。無言のまま懐からナイフを取り出す。
「ちょっ!?」
思わずステッキを構えて後ろへ下がるテッド。
それを追う男。明らかに男のほうが速く、あっという間に間合いが詰まる。
「がっ!?」
テッドのステッキが男のナイフを打ち据える。
思わずナイフを手放してしまったところに、さらなるステッキの追撃が鳩尾に炸裂。くの字になって吹き飛んだ男は失神していた。
思わぬテッドの強さに動揺する残りの男たちであるが、すぐに立ち直る。
しかし、その前にテッドが動いていた。ステッキを手放して、二人目の男の顎にボクサー顔負けのジャブを撃ち込む。脳を揺らされた男もやはり失神した。その隙にテッドを掴んで押し倒そうとした最後の男は、反動を利用した巴投げ喰らって背中から落下。激痛と呼吸困難でのたうち回ることになった。
「あぁ、もぅいったい何なんだか……」
スーツの乱れを直してテッドはぼやく。
床に転がる大の男が3人。このままでは、こちらが犯罪者扱いされてしまうであろう。テッドに出来ることは、可及的速やかにその場を離れることのみであった。
「……ということがあったんです」
「なんつーか、朝っぱらから頑張ってるなぁ」
「好きで頑張ってるわけじゃないよっ!?」
「テッドさま、お茶をどうぞ」
あの場から逃げおおせたテッドは、シドニー・ライリーの部屋を訪ねていた。
もちろん、今後の対応を相談するためである。なお、マルヴィナも呼ぼうとしたのであるが、いつの間にかに付き従っていた。まるでどこぞの這いよる混沌である。
「冗談はさておいて、ぼーやが出くわしたのは恐らく他国のエージェントだろう」
「目的はなんだろう?」
「情報が少なすぎてなんとも言えんな。今後何らかのアクションがあるかもしれないし、無いかもしれない」
「それに合わせて動くしかないと?」
思わずため息をつくテッド。
「それと、ぼーやは状況が落ち着くまで自室待機だ」
「な、何で!?」
「何でって、顔が割れてしまったからに決まっているだろう」
「心配なさらずとも、食事はルームサービスがありますし。必要なら口移しで……ふふふ……」
一応はVIPであるはずの彼が単独行動を許されている理由は、単純に強いからである。バーティツの達人であるテッドの戦闘力は、そんじょそこらのエージェントなぞ歯牙にもかけないレベルに達していたのである。
彼が外出する場合はマルヴィナが護衛しているのであるが、今回は安全な船内ということで単独行動の許可が出ていたのである。しかし、明確に敵対する意思を持った相手に攻撃されて、返り討ちにしてしまった以上、相手からの報復も考えられた。それ故の外出禁止措置である。テッドの怒りは怒髪冠を衝くが如しであったが、半ば以上自業自得であった。
『乗船中の紳士淑女の皆様。わたしは船長のエドワード・ジョン・スミスです。どうか落ち着いて聞いていただきたい……』
船内各所に設けられたスピーカーから声が流れてきたのはまさにその時であった。何事かとスピーカーに耳を傾ける3人。
『当船は、IRAと名乗る武装集団によってシージャックされました』
後に20世紀最大のシージャック事件として名を残すことになる『タイタニック号乗っ取り事件』の幕開けであった。
テッド君大活躍!
最初のころはもやしっ子だったのに・・・強くなったなぁ(感涙
肉体派な同人作家とかおかしい?
そんなことありません。リアルでもジム通いしたりして肉体を鍛えている漫画家の先生は結構いるようです。不健康な生活には筋肉が特効というわけなのですね。筋肉は裏切らないっ!




