第23話 ジョン・スミスの幻影に踊らされる者たち
マンハッタンのパーク・ロウを歩く一人の紳士。
傍のニューススタンドで新聞を購入し、止まっている時間も惜しいとばかりに歩きながら新聞をチェックする。
(ウィンザー条約締結。アメリカは完全に蚊帳の外……か。)
彼は満足そうな表情を見せるが、突如表情を強張らせる。
しかし、それも一瞬のことであり何事も無かったかのように歩き始める。その行き先はダイナーであった。
ダイナーは、一見してそれと判る外観、気取らない雰囲気、いかにもアメリカンな料理を提供するプレハブ式レストランである。この辺りは新聞社が多いこともあり、記者目当てで多くのダイナーがしのぎを削っていた。
「すまんが、トイレを借りたい」
「はぁ?」
男はダイナーに入るやいやな、店のマスターに近づいて懐から財布を取りだした。
「これで足りるかな?」
「こんなに!? 多すぎますよ!?」
「手間賃込みさ。これから厄介ごとが起きるが、あくまでも無関係を装ってもらいたい」
「は、はぁ……」
10ドル札をマスターに押し付けて奥のトイレへ向かう男。
そして、そのまま出てくることはなかった。
30分後。
中々出てこないのに痺れを切らして突入してきた男たちが、バッジを突き付けて店内のガサ入れを開始。しかし、彼らが見つけたのは、開け放たれたトイレの窓であった。ターゲットは、尾行に気付いて悠々と脱出していたのである。
(どこのエージェントだか知らんが未熟だな。いったいどこの組織なのやら……)
肩をすくめてから男は歩き始める。
その行き先は、とある出版社が占有しているビルディングであった。
「BOI?」
「はい。主任を尾行していたのはBOIです。ダイナーの店主がバッジを目撃していました」
「裏は取れているのか?」
「彼らが司法省本部ビルに出入りしているのを確認しました。まず間違い無いかと」
謎の組織から尾行を受けてから数日後。
シドニー・ライリーは、部下からの報告を受けていた。
「BOIか。こんな仕事をしているから心当たりはあるが……」
「例の反戦運動との関わりが発覚したのでは?」
「あり得るな。連中は明らかに私をターゲットにしていた」
BOI(Bureau of Investigation)は、アメリカ司法省直轄の捜査機関である。
地元警察では手に余る、州をまたがる広域犯罪捜査を担当しており、あの有名なFBIの前身でもある。
テッドの発案で実施された反戦運動において、シドニー・ライリーは全米の反戦運動家を束ねる役割を担っていた。一時期は全米中を飛び回って扇動や資金援助をしていたため、そこをBOIに目を付けられたのでは無いかと彼らは推測したのである。
「しばらくは表立った行動は控えたほうがよろしいかと」
「顔が割れたとなるとやむを得んか……」
「BOIについては、更なる調査を進めます」
「頼む。まったく、テッドのぼーやを本国へ送り返さにゃならんこの忙しいときに……」
盛大にためいきをつくシドニー・ライリー。
ロイド・ジョージやチャーチルにせっつかれてテッド・ハーグリーヴスの帰国準備を進めてきた彼である。この期に及んで厄介ごととなれば、ためいきの一つもつきたくなるものである。
しかし、彼らの推測は間違ってはいなかったのであるが、全てではなかった。
彼らの想像を超えた事態がBOIで進行していたのである。
奇しくも同時刻。
ワシントンDC司法省本部ビルの会議室で、BOI捜査局長のアレキサンダー・ブルース・ビエラスキは捜査状況の報告を受けていた。
「逃がしただと?」
「も、申し訳ありません」
「まさか相手が尾行に気付いているとは思わず……」
不甲斐ない部下たちの報告に、叱責こそしなかったものの思わず表情に出してしまうビエラスキ。しかし、すぐに気を取り直す。
「まぁ良い。彼はあくまでも代理人に過ぎん。しかし、本命のためにも絶対逃がすわけにはいかん」
「ただちに人相書きを関係部署に回します」
「証拠固めが終わるまでは泳がせても構わない。ただし、絶対にニューヨークから出すな」
「はっ!」
手配するために部屋を飛び出していく捜査官を横目に見ながら、ビエラスキは会議室のテーブルに目を戻す。
「では『フェイスレス』についての報告を聞こう」
「はっ、ではそちらの資料をご覧ください。フェイスレスの活動が確認されたのは、1915年の初頭です」
「それまでは、何も無かったのか?」
「現在確認出来た最古のものは、同年2月にニューヨーク・アメリカン紙に掲載されたものです」
フェイスレスは、アメリカ政府からの特命でBOIが追っている犯罪者のコードネームである。コードネームの由来は、英語のfaceless(顔のない、個性を欠いた、特徴のない)から取られていた。
「その後、急速に活動を活発化させ、新聞のみならず雑誌やコミックでも人気を博しました。さらに映画化もされています」
「その全てがジョン・スミスのペンネームで描かれ、さらには国内の反戦運動を煽ることになったと?」
「そのとおりです」
「本当に一人で書いたというのか? 俄かには信じられんが……」
ビエラスキは再度テーブルに目を移す。
そこには、フェイスレスことジョン・スミスが描いた作品や映画のシナリオが山のように積まれていた。
ジョン・スミスは、テッド・ハーグリーヴスがアメリカで活動するにあたって使用しているペンネームである。つまり、彼は知らないところで容疑者にされていたのである。やっていることは事実なので自業自得と言えばそれまでであるが。
「……ハリウッドで押収したジョン・スミス名義のシナリオ集を筆跡鑑定したところ、全てが一致しました。同一人物に間違いありません」
「信じられん……これが事実ならば、我がステイツはたった一人の男に国家政策を歪められたことになる。断じて看過は出来ん」
実際は、アメリカの参戦を阻止することで思惑が一致したMI6と、メディア王ウィリアム・ランドルフ・ハーストがタッグを組んだ結果である。アメリカで地位も金もコネも無いテッドが、ニューヨーク・アメリカン紙で漫画の連載を担当出来たのは、この新聞がハースト系の新聞だったからである。
ニューヨーク・アメリカン紙は、他紙よりも早く詳細に第1次大戦の戦況を伝えることが出来たために、爆発的に部数を伸ばしていた。この時代の新聞にありがちだった、いわゆるイエロー・ジャーナリズムであり、実際よりも悲惨で脚色された記事を載せていた。アメリカの参戦を妨害したいハーストの意向が働いていたのは言うまでもないことである。
既に大西洋横断電信ケーブルが敷設されており、情報伝達の速さでいえばニューヨーク・アメリカン紙は他紙と大差は無かった。差が付いたのは新聞に掲載する写真である。
当時はようやく飛行機便による速報写真が始められたころであったが、大西洋無着陸飛行が出来るほどの性能を当時の飛行機は持ちえなかった。そのため、戦場で撮影された写真はルシタニア号をはじめとする大西洋航路客船によって運ばれていた。英国からアメリカまでは、最速のルシタニア号をもってしても6日かかっていた。他の船だともっと遅かったのである。
しかし、円卓チートと元少年の暗躍によって、英国では既にFAXが実用化されていた。英国からカナダのニューファンドランド島に設けられた受信局に写真を無線伝送することで、ニューヨーク・アメリカン紙は他紙に真似が出来ない写真付きの速報を出すことが出来たのである。
ちなみに、写真はシドニー・ライリーがニューヨーク・アメリカン紙に直接持ち込んでいた。テッドが描いた連載漫画の持ち込みもあったので、何かと都合が良かったのである。
新聞の発行数がうなぎ上りになり、同時に連載漫画も好評を博した。
十分にジョン・スミスの名前が売れたところで、史実の名作(反戦映画)をパクリスペクトしまくったコミックを量産して大ヒットとなったのである。
このタイミングで、シドニー・ライリーは言葉巧みに売り込みをかけて、ハリウッド進出に成功。軒並み映画化された作品は、当然ながら大ヒットして国内世論は第1次大戦参戦反対に大きく傾いたのである。
「主任、少々まずいことになりました」
「何だボブ? これ以上の厄介ごとは勘弁してほしいのだが」
「献金している上院議員からのリークです。近々BOIがうちに大規模なガサ入れをするようです」
MI6は極秘のはずのBOIの捜査状況を掴んでいた。
彼らの手はアメリカ国内に広く張り巡らされていた。世界最強の情報機関の名は伊達ではないのである。
「……なるほど、そういうことか」
「主任?」
「奴らの狙いは俺じゃない。テッドのぼーやだ。あいつらジョン・スミスの幻影によほど怯えているとみえる」
一瞬で全てを察したシドニー・ライリー。
史実のジェームズ・ボンドのモデルとなっただけのことはあって、彼はすこぶる有能であった。
「もはや、一刻の猶予も無いな。偽名で3名分のパスポートとビザ、それと船のチケットを至急用意してくれ」
「海外逃亡が本命であるくらいBOIだって考慮しているでしょう。危険過ぎます」
「だが、このままではじり貧だ。なに、顔が割れているのは俺一人だ。やりようはある」
「はぁ……分かりました。必要な書類や手続きはこちらでやりますので、そちらはそちらで準備をお願いします」
ため息をつくシドニー・ライリーの部下こと、ボブ・エバンズ。
この上司はギャンブルが大好きなのだ。しかも質の悪いことに、ありとあらゆる方法で勝率を底上げして絶対に負けないギャンブルが大好きときていた。
(どうせまた突拍子もないことなのだろうな……うぅ、後始末を考えると胃痛が……)
心の中で涙するボブであったが、彼はまだ知らなかった。
どさくさ紛れで、この上司が自分の仕事を全部押し付けて帰国してしまったせいで、連日連夜の徹夜を強いられることになるのである。
ニューヨーク港54番埠頭。
既に英国から到着した豪華客船が停泊しており、乗船手続きが進められていた。
船へ通ずるタラップでは、BOI捜査官たちが乗船客を一人ずつチェックしており物々しい雰囲気に包まれていた。
「あと何人残っている?」
「3名です。一等特別室を購入しています」
「もう出港間際です。来ないのでは?」
「一等特別室の客だぞ。余程のことがないとキャンセルしないはずだが……」
BOI捜査官たちが口々に言い合う目の前に一台の車輛が急停止する。
その車輛には『Post Office Department』と大きくペイントされていた。要するに郵便配達車である。
「止まれ! なんだおまえらは!?」
「何って、郵便以外の何があるんだ? うちの同僚が馬鹿をやったおかげで遅配した分を届けにきたんだよ!」
「あぁもう、分かった。早く済ませてこい!」
出港間際ということもあり、おざなりな対応をしてしまうBOI捜査官。
3人の郵便局員は、メール袋をかついで足早に船内へ消えていく。
「結局来ませんでしたね」
「あぁ。来週の船かもしれんな」
「そもそも、網を張っていると分かり切っている中に飛び込んでくる馬鹿がいますかね?」
やがて出港時刻となり、タラップが外される。
巨大な船体が静かに岸壁を離れていく。
「それはそうだが、用心に越したことは無いだろう……って、しまった!?」
「どうしたんですチーフ?」
「さっきの郵便局員はどうした!?」
「「「あっ!?」」」
チーフと呼ばれた男の目の前には、郵便配達車がそのまま放置されていた。
これが何を意味するのかを、悟ったBOI捜査官たちは全員青褪めた。よりにもよって、目の前で容疑者を取り逃がしてしまったのである。
この一件で、BOIは完全に能力不足と判断された。
局長も含めて捜査に関わった捜査官の大半が降格、もしくは閑職に回された。しかし、外部からの干渉にアメリカという国家が、無防備過ぎることに恐怖した政財界によって、なりふり構わないテコ入れがなされ、史実よりも早期にFBIが創設されることになる。
「まさか本当に成功してしまうとは……」
「ふふんっ、こういうのは入念な下準備と口八丁で大概切り抜けられるものなのだよ」
「というか、そこのクソ男。テッド様を危険に晒すとはいい度胸です。表へ出ろ」
船内倉庫の一角。
人目につかない場所に怪しいことこの上ない3人組がいた。テッド・ハーグリーヴス、シドニー・ライリー、マルヴィナ・ハーディングである。
彼らは、着用していた郵便局員の制服を脱ぎ捨て、担いできたメール袋の底から取り出した服に着替えていた。ちなみに、このメール袋は二重底になっており、万が一中身を改められても大量の偽メールしか見えないようになっていた。こんなものを作るのは、当然ながらMI6の仕業である。
この世界のMI6には『Q』が実在し、変態的に凝った小道具を作り出すことに血道をあげていた。もちろん、テッドが書いたスパイ同人誌のせいである。彼が書いた0〇7や、キ〇グス〇ンの同人誌は、MI6に多大な影響を与えていたのである。
なお、殺しのライセンスを所持するダブルオーナンバーの凄腕エージェントも在籍しており、その中の一人がシドニー・ライリーなのは極秘中の極秘事項である。
「着替え終わったか? 荷物、特に旅券とパスポートを忘れずにな」
着替え終わると3人の姿は見違えていた。
テッドとシドニー・ライリーは、三つ揃いのラウンジスーツとボーラハット、ステッキと非の打ち所がない英国紳士ぶりであった。マルヴィナはメイド服を望んでいたのであるが、場所が場所なので流行りの両脛が見える程度にまで短くなったピンク色のワンピースドレスとピンヒールを履いていた。
「うわぁ……」
船底の倉庫から長い階段を上るとそこは別世界であった。
木材をふんだんに使い、職人が仕上げた豪華な内装は船というよりお城のようである。生前に豪華客船なんぞに乗ったことのないテッドは浮かれまくっていた。もっとも、乗船した船の名前を知った瞬間、彼は憂鬱な表情となったのであるが。
ニューヨーク港を出港して英国のサウサンプトン港まで6日間。
果たして無事に着けるのかテッド・ハーグリーヴスは気が気でない日々を過ごすことになるかと思いきや、それどころではない過酷な日々を送ることになるのである。
アメリカでテッド君のやったことが露見してしまいました。
まぁ、やったことは全部事実ですし自業自得です。
二度とアメリカの地は踏めそうないですねぇ(酷
3人が乗船した船が何なのかはもうご想像がついてる方もいると思います。
この世界ではまだ沈んでおらず豪華客船として絶賛大活躍中だったりします。
次回はテッド君が大活躍する・・・はずです。多分(弱気