死遊ビ
8階建ての商業ビルの屋上に、一人の若い女性の姿があった。
女性はフェンスの外側、屋上の縁へと立っている。あと一歩前へ踏み出せばその体は宙へと解き放たれ、ものの数秒で固いアスファルトの地面へと叩きつけられることになる。
履きなれた黒いパンプスはフェンスの内側に揃えられており、その下には遺書らしき物が敷かれている。
女性がこれから何をしようとしているのか、それは火を見るよりも明らかだった。
自殺動機はありきたりだが、それでいて本人にとって、文字通り人生を左右する程に重く深いもの。
その詳細を語ることに大きな意味はあるまい。すでに彼女は心を決め、生への未練を完全に断ち切っている。彼女は自らの意志で死を選び、もう間もなくその体は屋上から解き放たれる。その運命はもう、誰にも変えることは出来ないのだから。
「辛かったね。けど、直に楽になれる」
「誰?」
それまで女性一人しかいなかった屋上に、唐突に若い男性らしき陽気な声色が響いた。
女性が反射的に右側を向くといつの間にか、フェンスに背中を預けた、喪服らしき黒いスーツ姿の男が微笑みを浮かべていた。長めの黒髪に切れ長の目、奥に覗く瞳は虚無の闇のように黒々としており、生気を感じさせぬ白白とした肌は死体を連想させ、陽気な声色とのギャップが激しい。
「僕は死神」
「酔ってるの?」
「単なる事実だよ。何なら証拠を見せようか」
そう言うと黒スーツの男は、勢いをつけて屋上の縁から跳んだ。
転落死は免れない。隣人の思わぬ行動に女性が目を見開いていると、
「浮いている?」
男の体は落下することはなく、まるで透明な足場に乗っているかのように、屋上と同じ高さで空中浮遊をしていた。
「少なくとも、ただの酔っ払いじゃないことは信じてもらえたかな?」
屋上の縁へと戻って来た男は、驚愕する女性の顔をにやけ面で覗き込んできた。
あのようなパフォーマンスをされたら、男が人間でないことを認めざるおえない。女性は無言のまま頷きを返した。
「……その死神さんが何の用ですか?」
「死神として、自殺志願者の背中を押してあげようと思って。おっと物理的な話じゃないよ。あくまでも精神的な話」
「どういうこと?」
「死神である僕が直々に保障してあげよう。天国は存在する」
「本当に?」
女性の口元が微かに綻んだ。
元より死ぬことに迷いはないが、自称死神の言葉を受けて、死への恐怖心がより和らいでいく。
「本当さ。現世の呪縛から解き放たれ、心清らかに過ごせる。向こうはまさに楽園さ」
「どうしてそんなことを教えてくれるの?」
「辛い思いをした君へのご褒美さ。死の瞬間をせめて心穏やかに迎えられるよう、優しく導いてあげることが僕達の仕事なんだ」
温かな笑みを浮かべる男性の伸ばした手を、女性は自然と握り返していた。
「……だけど、やっぱりまだ怖い。一緒に飛んでくれる?」
「お安いご用さ。それで君が心穏やかに逝けるのなら」
互いの手を握り合ったまま、二人一緒に下方を見下ろす。
「覚悟は決まったかい?」
「いつでも」
「タイミングは君に合わせるよ」
「分かったわ――せーの」
ビルの縁から女性は勢いよく身を投げ出し、男もそれに合わせる。
手を繋いだまま二人の体は、アスファルトの地面目掛けて自由落下を始めた。
女性は最後にと思い、一緒に飛び降りてくれた自称死神へと視線を向けたが、
「ひっ!」
女性は短い悲鳴を上げる。黒いスーツの男の顔は、一部に腐りかけの肉が張り付いた髑髏へと変貌していた。右の眼窩には視神経と繋がった眼球が垂れ下がっている。
「馬鹿な女だな。思い留まれば良かったものを」
「嘘をついたの?」
「嘘はついていない。天国は存在する。だけどお前はいけない」
髑髏は何度も歯を鳴らし、歪に笑う。
「僕らに目をつけられた魂は皆、もれなく地獄行きさ」
「ふざけ――」
肉体が潰れ、血肉の飛び散る音がした。
了