思い出は億千万
「生嶋さ、将来何になりたかったか覚えている?」
とあるちょっとした小洒落たレストランにて。生嶋千弦は正面の男がそう聞いてきたので自分がその質問に答える前に、この男は少年時代に何を目標にしていたのだろうかと考えた。彼はピアニストで、自分もピアニスト。ピアニストを目指す人間はたくさんいるし、選ばれる人間はその一部。当然この男、長槻春弥は将来はピアニストになりたいと望んでいたタイプの人間であると思った。
「千弦さんが何になりたかったか当ててみ?」
「当ててあげようか」
仕立てのいいスーツの裾から飛び出しているハンカチを引っ張り出し、それを広げて春弥は言った。
「これになりたかった?」
そのハンカチにはウルトラマンのプリントがされている。問題は、右下のほうにひらがなでいくしまちづると汚くネームペンで書かれていること。
「返せ!」
手を伸ばしたらひょい、とそれを胸ポケットに為舞ってから春弥は笑う。
「いやいいんじゃあないですか? ウルトラマンになりたかった少女というのも」
「ウルトラマンになれなかったからピアニストになったんだよ!」
「まあウルトラマンになるよりは簡単かもね」
「ねえ、それ返してよ。大切なものなんだから」
「なんで? この前のコンサートで『ハンカチ落とした』って必死に探していたのこれでしょう?」
35歳になってまで人を揶揄うのが大好きな春弥を睨みつつ、千弦は桃のワインを飲んだ。
「それ、私のラッキーアイテムなのよ」
「へえ」
「ウルトラマンが地球を守っているからね、私もがんばらなきゃって思うでしょ?」
「その理屈のぶっ飛び方君らしいけれどもたぶん取材でそれ言うと笑われると思うよ」
「うるさいな、私はそいつに勇気を貰ったんだよ。3分間の演奏から一寸たりとも気を抜くな。容赦なく最後までバルタン星人を叩けって」
「バルタン星人ってピアノの鍵盤のことだよね?」
誰にも分からない比喩を使う千弦に春弥は念のため確かめた。千弦は頷く。
「それで、君は君の目指すウルトラマンになれたの?」
「全然。あいつが偉大だったことを大人になってから知りました。私正義の味方なんかになれないもの。音楽で誰かに感動を与えるというより日々自分の鬱屈をピアノにぶつけるっていう演奏でさ」
「だから君の演奏って感情のムラがすぐに出るんだよね。ウルトラマンならばどう演奏するだろうか考えてごらんよ」
「ウルトラマンがどう演奏するかなんてわかるか! あんたならできるっていうの?」
「できますよー。俺天才だし?」
財布からお金を取り出して先に会計を済ませに行った春弥とは別の方向、化粧室に向かって口紅を直した。
(ウルトラマンのような演奏…)
どんなものだ? と思いながら、ふと後ろを振り返った。
「今、ウルトラマンがいた?」
まさかな。気のせいだよなと思いながら化粧を直し終えて春弥の元へと行った。
「やー久々に飲みましたね。気分がいい」
「長槻さん、私が変なこと言ったらびっくりするかい?」
「いや別に。君が変なのなんて知っているし」
「ウルトラマンを見ました」
春弥はきょとんとした顔をして、そして吹出して笑い始めた。
「今の、今のブログに書いてもいい? 生嶋千弦が『ウルトラマンを見ました』って言ったって」
「や、やめろよ! 私がすごく電波に見えるだろ」
「いや電波ですよ。知らなかったんだ」
ひーひー笑ったあとにタクシーを拾って、千弦を自宅まで届けると、そのまま春弥は帰っていった。
スーツを脱ぎ捨ててから部屋着に着替えるともう一度部屋の中を見渡した。ウルトラマンの気配はない。
「気のせいだよね」
ワインの飲みすぎだろう、そう思って眠ることにした。
翌日、コンサートはなかったが春弥と待ち合わせてコンチェルトの練習をすることになっていた。
「ベートーベンの皇帝だよね?」
「そうです」
「それを今回はウルトラマン風に弾いてくれると?」
「言ったっけ? そんなこと」
「昨日『俺は天才だからウルトラマン風に弾ける』って言ってたじゃない」
「言ったかもね…」
ポロン、と鍵盤の上で指を動かしたとあとに、春弥は呼吸をひとつ置いて一気に弾き始めた。力強い演奏だった。普段の繊細な演奏からは想像もつかないような指使い、リズムのとりかた、かなりアレンジしてある。
圧倒されて見ていると3分経過したところで春弥は指を止めた。
「星に帰る時間になりました」
「ああ。そういうオチですか。20分間その演奏はキツイと」
「指壊れるよ、こんな演奏をあと17分もしたら」
春弥は軽く笑ってから隣のグランドピアノに千弦を座らせた。
「じゃ、合わせるよ?」
呼吸を合わせ、演奏を開始する。千弦は自分の演奏にムラがあると言われたのが嫌で、それを意識してかなり制御するような演奏をした。しかしふと、
ジャーン!と鍵盤を押して後ろを振り向く。
「生嶋、どうしたの?」
「またウルトラマンがこちらを見ていた」
「どんだけウルトラマン意識してんだ、お前」
呆れたように春弥が呟いた。彼も周囲を見渡して、そこに誰もいないことを確かめる。
「ウルトラマンがいたの?」
「うん、いた」
「じゃあさ、ウルトラマンは生嶋に何か言いたかったんじゃあない?」
何か言いたかったのではないかと言われて千弦は考え込んだ。
「ウルトラマンに教えられたのは勇気だけなんだけど?」
「本当に?」
「他に何かあるの?」
「あると思うけれども」
意味深に春弥が呟くと、また演奏の練習を始めた。千弦も座りなおしてから練習を始める。春弥が知っていて、千弦の知らないもの。ウルトラマンが千弦に教えたいこと――
「ウルトラマンが私に教える教訓ってなんだー!!」
残り一日の練習日となった日に千弦の堪忍袋の尾が切れて叫んだ。毎日毎日カーテンの隙間やらホールの座席やらから視線を感じているとついには腹も立つというものだ。
「あんた、私に言いたいことがあるんだったらはっきり言いなさいよ!」
――しゅわっち。
「しゅわっちじゃない!」
ウルトラマンに腹を立てる千弦に腹を抱えて笑い出す春弥。10歳としが離れているというのに自分がデビューしたときからずっと面倒を見てきてくれているこの腐れ縁の男はもう答えを知っているようで、教えてくれない。
「明日はウルトラマンがコンサート聴きにくるんじゃあない?」
「…かもね」
「ウルトラマンに聴かせたい演奏をしなくちゃね」
「どんな演奏だよ!?」
「ヒント、ウルトラマンならどう演奏するでしょうか?」
まったくヒントにならないヒントを貰い立腹すると、春弥はクリーニングしたと思われるきれいに畳まれた千弦のハンカチを返してくれた。
「ラッキーアイテムなんでしょう?」
「ああ。すっかり忘れてた」
「明日までに答え、わかるといいね」
「わからなかったら?」
「君もつまらないピアニストってことだよ」
まったく言っている意味がわからない。電波は私でなくお前だと思いながら千弦は家に帰った。
つまらないピアニスト、そういえばピアニストになってからピアノを楽しいと思って演奏していることは少なかったなと考えた。もちろん楽しいのだが、心から楽しんでいるかと聞かれれば少しこなれた演奏をしているような気がする。もっと巧くなる方法がどこかにあるはず、そう思いながら技巧ばかりを考えている。
――ウルトラマンならどう演奏するでしょうか?
(わかんないよ、春弥)
返却されたウルトラマンのハンカチを広げてみた。ウルトラマンから教えてもらったこと、目標から逃げるなってこと以外に何があったかなと。
「あれ…?」
ウルトラマン、なんで自分はウルトラマンが好きだったかということを忘れていた。
「…なんだ、そんなことだったのか」
千弦は合点がいったように安心してそのハンカチにプリントされたウルトラマンに頬笑んだ。
彼が言いたかったこと、ウルトラマンが言いたかったこと。
――感動を忘れるな。
翌日コンサートの前に晴れやかな顔をしている千弦を見て、春弥はにっこりと笑った。
「答えは分かったみたいだね」
「もちろん」
ふたりでカーテンコールの向こうへと歩き出した。ピアノ椅子に座ると最前席でウルトラマンがこちらを見ていた。
あなたに、そしてお客様に最高の演奏を。
(了)