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自転車の話

作者: 佐藤裕樹

日常ものの短編小説です。

なるべく読みやすく、さらっと読んでもらえることを意識して執筆しました。

「ちょっとした暇つぶしにはなるかな」くらいの気持ちで読んでいただけると嬉しいです。

 本日午後三時十五分頃、私は自転車で転んだ。補助輪なしの自転車を乗り始め、それを乗りこなすために一所懸命練習していたとき以来だから、かれこれ十年ぶり位のことだろう。

 デニム生地のショートパンツを穿いていたので、むき出しになった膝を直接アスファルトに打ちつけ、勢いよく擦った。膝からふくらはぎまでが鮮やかな紅色に染まった。公園の水道で傷口を洗い流して確認すると、ところどころに細かいアスファルトの破片や砂利が肉に食い込んでいたし、何本ものみみずばれが伸びていて、酷くグロテスクであった。

 友人の家へ向かう途中、気分がざらついていて無意識の内に荒っぽい運転になっていたのだろう。

 住宅地によくある、人も車も滅多に通らない昼の十字路。縁が錆びているカーブミラーをちらりと見て、車が来ていないことを確認した。左折するときに大きな弧を描くように、身体の重心を左側にかけて、曲がった。曲がろうとした。

 バランスが崩れた瞬間、背筋が凍りつき、全身に緊張が走った。また、反射的に身体は事故に備えた。

 首より上を守れ。

 骨は傷つけるな。

 怪我を最小限に。

 私の身体はよく頑張って反応してくれたと思う。途中経過は全く分からなかったが、私は自転車からは投げ出されていて、道路にうつ伏せになっていた。

 恐怖と身体の痛みで身体は震えていたが、どうにかして四つん這いの体制になり、素早く周りを確認した。奇妙な話だが、事故を起こして誰にも心配してもらえないというのは淋しいもので、本能的に私は人を探していたのだ。そして、人はいなかった。当たり前だ、それをわかって雑な運転をしていたのだから。

 寝転がっても何も進展しないので、ヨロヨロと立ち上がり、倒れた自転車を起こし、それを押して歩き始めた。一歩進むたびに、身体のあちこちに鈍痛が走ったし、ハンドルを握る両の手の平は、熱を持っていてひりひりした。

 すぐ近くにあった人の気配がない公園で傷口を洗い流し、応急処置をした。公園を出てから腕時計を確認すると、時間に余裕がないことが分かり、私は再び自転車にまたがった。

 私はこの苦行のような仕打ちに無表情で耐えながら、腹の底で激しく悪態をついていた。

 ああ、本当に嫌になる! どうして私がこんな目に合わなきゃならないのよ! しばらく足の見栄えが悪くなるじゃない! 美智子が悪いのよ、全部!


 そもそもの始まりは、私がバスケットボールの練習を無断で休んだことが原因だった。サボリではなく、私は本当に体調が悪かった。放課後になるとすぐ家に帰った。私のクラスは他のクラスよりもホームルームが短く、また同じクラスにバスケ部がいなかったので、部活を休む旨を伝えられなかったのだ。帰ってからメールをしようと考えていたのだが、家のベッドに倒れこむと、だるさと頭痛がどっと襲ってきて、そのまま寝てしまっていた。

 電話に気が付いたのは夜中のことで、目を覚ますと頭の奥がガンガンと痛んだ。昼間には感じられなかった寒気もあった。

 母にかけられたであろう、薄い毛布を体に巻き付けてふらふら立ち上がり、机の上にあった鞄から携帯を取り出して、丸いデスクチェアに座る。

「もしもし」

 机に突っ伏し、ディスプレイも確認せずに通話ボタンを押した。電話の相手は主将の内海さんだった。

「ああ、やっと出た! 今日、やばかったのよ、あのね……」

 私は話の内容に驚いた。私の無断欠席で監督が怒り、連帯責任という名目で、練習が筋トレまがいのきつい内容に変更され、さらに遅くまで続いたというのだ。監督は機嫌の浮き沈みが激しい人で、機嫌がいいと、細かいことに頓着しない大らかな人なのだが、不機嫌なときは理不尽な人に変貌する。理屈ではなく、一時の感情で物事を決めてしまうのだ。間の悪いことに、昨日は不機嫌な日だったらしい。

 罪悪感の波が押し寄せてきて、少しの間自分の具合が悪いことを忘れてしまった。

 内海さんには必死に謝罪し、本当に具合が悪くてメールを忘れたことを伝えた。途中から熱のせいなのか呂律が回らなくなり、鼻水がたれてきて、自分でも何を言っているかわからなくなった。同じことを二、三度繰り返して話した覚えもある。慌てたり、興奮すると、自分の行動をコントロールできなくなるのは、私の悪い癖だ。自分のやっていることを客観的に見ることができなくなるのだ。

 内海さんはそんな私に少し笑った。必死さが伝わったのか、ぶっきらぼうだが、優しい言葉をかけてくれた。

「今日のことは、あんたじゃなくてあの馬鹿監督が悪いのよ。あんたが来てたとしても、きっと誰かのミスにつけこんでキレてただろうしね。あいつは怒ってストレスを発散させたいだけなんだわ」

 皆にも言っておく、と寛大な処置をしてくれて電話が切れた。それで気が楽になり、そのためか倦怠感が再び襲ってきた。リビングに降りてポカリを飲み、再びベッドにもぐりこんで、寝た。すっかり安心した私は、二日間学校を休んだ。学校に行ったら、皆に謝って、それで終わりだ。そう考えていたのだ。

 甘かった。大半の人は私を許してくれた。というより、そもそも怒っていなかった。だが、美智子だけは私を強く責め立ててきた。思い込みが激しく、自分の考えを握りしめて、手放さないような子ではあったが、今回は私が練習を理由なくサボったのだ、と思い込んでしまったらしい。

 私が復帰した日から、美智子の機嫌は露骨に悪かった。私が謝っても、眉をひそめ、「ふん」と言ってそっぽを向く始末だ。元々、彼女との折り合いは良いほうではなかったが、今回の件で本格的に私は嫌われてしまったらしい。美智子は度々、私に辛辣な言葉を投げかけてきた。それでも、美智子に嫌われても関係ないわ、なんて思っていた。

 そもそも彼女は、皆から好かれているとは言えない人だったからだ。


「おとといから脚が筋肉痛なのよ、あなたはいいわよね」と、皮肉を。

「あなたのせいで、私のミスが多くなってるじゃない」と、悪意ある本音を。

「あんな距離のシュートも入らないの」と、至極もっともなご指摘を頂いても、私は彼女を無視し続けた。

 反論もしない、相手にもしない、梨の礫、音沙汰なしだ。この方法では、美智子との関係は絶対に良くならない。しかし、私が美智子への関心がないことを態度で示せば、美智子は私に関わろうとしなくなるだろう。暴言とは、相手が反応して、初めて意味を成すものだからだ。粘着質な美智子から耳障りな言葉を聞かないようにするためには、これが一番効果的な方法だと思ったのだ。

 美智子の嫌味を無視し始めて五日が経った。予想通り、美智子の嫌味の回数は激減した。ただ、計算外だったのは、美智子が無視されて黙っているような性格ではなかったことだ。

 言葉が駄目ならば行動で示せ。

 これだけ聞くと、「革命」を連想してしまう。弾圧された民衆が勇ましく旗を揚げ、権力に立ち向かう。虐げられた自分たちの誇りを取り戻せ! と。

 残念ながら、美智子の行動は革命でも何でもない。ただの私への、物理的な嫌がらせだった。証拠はないが、時期的にも犯人が美智子であることは想像がついた。

 部室に置いてあるバッシュを隠すのは許せる。私の制服をくしゃくしゃに丸めて床に置いておくのも許せる。むしろ、一人でこんなことをやってのけた勇気を賞賛してやりたいくらいだった。勇ましさという点だけでは、革命にもひけをとらない。

 問題は練習中の嫌がらせだ。これだけは許し難かった。公私混同と言うべきか、バスケと私生活は別問題にすべきだ。

 シュートの際にぶつかってきて、邪魔をする。バッシュのかかとを踏み、転ばせてくる。至近距離のパスを、捕りづらい膝元に強く放ってくる。

 私以外の皆は何度か美智子を注意したが、彼女はさほど悪びれもせず「ああ、ごめんなさい。不注意だったわ」と言うだけだった。

 この嫌がらせも、私は頑張って無視し続けた。シュートは入らないし、パスは落とす、恥ずかしさと悔しさでいっぱいだった。それでも無視し続けた。

 しかし、私が反応しなくても周りが注意するものだから、美智子は無視されたようには感じないのだろう。嫌がらせは続いた。

 私は耐えて、耐えて、耐えて、爆発した。

 ある日、美智子からのパスが私の顔面に直撃した。パスというには生ぬるい、至近距離からのクイックスローだった。どうせまた膝元に来るのだろうと、上半身への注意が散漫になっていたのだ。

「どうして、あんなパスも捕れなかったの?」

 鼻血が止まって練習に戻った後の、美智子の第一声がそれだった。鼻で笑い、優越感に浸っているようであった。

 頭の中が真っ白になり、衝動的に美智子に詰め寄っていた。気付けば、口からは美智子の自尊心を効果的に傷つける罵詈雑言が淀みなく溢れでてきていた。数日間溜め込まれた、どす黒い感情が言葉になって表れたのだ。

 そうして、冷戦がはじまった。東西対立、資本と共産だ。美智子からの嫌がらせはなくなったが、部内の雰囲気は嫌がらせをしていた頃の何倍も悪くなった。美智子と私が部活中に、誰とも一切の私語をかわさなくなったからだ。美智子が近くにいるだけで気分が悪くなり、不機嫌な顔になってしまった。

 陽気におしゃべりをする気にもなれなかった。友人との帰り道でも、ついつい美智子への不満が口をついてしまった。ふさぎ込み、練習でも今一つ身が入らなかった。

 そんな状態が数日続いたため、友人の岬から電話があったのだ。

「やっぱり、あんたも悪いところがあったんだから、早いうちに謝っちゃいなよ。あたしたちが場所は用意するからさ」

 岬から電話がかかってきたのは今日の午前中のことだった。寝起きで、頭がぼーっとしていたのに一気に覚めた。

「と、いうよりもあんたたちがぎくしゃくしてると、部内の雰囲気が悪くなって面倒くさいのよ」

 雰囲気が悪くなる、と友人に言われてしまえば全面的に私が悪く感じてしまう。美智子が頭を下げてくるまで冷戦状態にすることを決め込んだはずだったが、私はしぶしぶながらも提案を了承した。

「じゃあ、三時半ごろあたしの家に来てね、ちゃんと謝る練習をしときなさいよ」

 言われた通り、私は何度も練習した。切り出し方を考え、私が悪かったです、という態度を出すことをシチュレーションし、万全の体制で挑むことにした。

 自分の非を認めたわけではなかったが、もうそれは飲み込むしかない。私は大人だから妥協してやるのだ、と無理やり思い込むことにした。


 午前中、そう思い込んだはずなのに、自転車を押し、痛んだ身体でどうにかして岬の家の前にくると、その決意など頭から抜け落ちてしまっていた。

 自転車での事故は野性的な本能を呼び起こし、理性を飲み込もうとしていたのだ。

 自転車を門の前に止め、インターホンを鳴らす。「どうぞー」と岬の声が聞こえたときに頭の中では何も考えてなかった。

 なるがままに、その場で自分の感情に従って行動する、一種の獣になっていた。

 ドアを開けると、何故か出迎えたのは美智子だった。きっと岬の計らいだったのだろう。

 美智子の姿を視認すると、反射的に私の感情は逆立った。何をするでもなしに、心の中が煮えたぎり、美智子を睨みつけてしまう。

 あんたのせいでこんな姿になったのよ、と。

 だが、美智子は私の姿を見て、目を丸くして予想外のことを口にした。

「どーしたのよ、その怪我! 大丈夫!」

「え?」

 私は茫然としてしまった。

「ねえ! 岬、救急箱持ってきて! 怪我してるの。早く上がって、包帯まかなきゃ」

 岬が救急箱を持ってくると、私は玄関の三和土に座らせられる。美智子は私の傷口に消毒液をかけ、包帯を巻いてくれた。知らずに涙腺が緩んでいて、私は目を拭っていた。嗚咽が出そうになり、口元を押さえて、音が漏れないようにする。

「大丈夫よ、大丈夫」

 美智子は私の頭を撫でて、そう言った。そしてこう続けた。

「ごめんなさい。でも、これで仲直りね」


 その言葉に何故か感情がざわついた。

 歯がゆく、ぞわぞわし、激しい嫌悪感が湧き上がってきた。

 一面の黄色い菜の花畑が、急激に黒く枯れてゆく風景が頭に浮かぶ。菜の花は腐り、土に帰ってゆく。腐敗臭が漂う荒野に変化した。さっきまで見ていたものは幻想で、今目に映っている荒野こそが現実なのだ。

 無償の優しさだと思っていたものが、打算的なものだとわかってしまった。もう止められなかった。

 美智子に向き合うと、微笑を浮かべている彼女の右頬を思いっきり張った。弾けるような快音が妙に心地よかった。

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