【九】
【九】
翌日の昼休み、李々香は日頃来ない、二年の教室のある二階に来ていた。
第一中の校舎は三階建てで、一階を一年、二階を二年、そして三階を三年が使っている。なので日頃一階にしか立ち入らない李々香は、二年の先輩ばかりの廊下でオロオロとしていた。
李々香が二階に来たのは、小路愛実に会うためだ。
以前、愛実の家に行った時、柊人と愛実は幼い頃からの知り合い、幼馴染みだと聞いていた。だったら、柊人のトラウマになるようなことを知っているかもしれない。そう考え、愛実から話を聞くつもりだった。
「あっ、李々香ちゃんじゃん。どーしたの?」
近くを通った二年の女子に声を掛けられる。
李々香はサッカー部ただ一人の女子部員ということもあって学校内でも有名で、李々香が名前も知らない先輩でも、李々香の名前は知られている。
「あっ、あの……小路愛実先輩を探してて……」
緊張でオドオドしながらも用件を伝えると、その二年女子が廊下から教室に顔を入れて大きな声を出す。
「愛実ー! 李々香ちゃんが探してるよー」
二年女子がそう言ってすぐに、教室から愛実が出てきた。愛実は廊下に立ってる李々香を見た後、自分を呼んだ二年女子に笑顔を向けた。
「ありがとう」
「どういたしまして。バイバイ、李々香ちゃん」
「あ、ありがとうございました!」
丁寧に頭を下げてお礼を言った李々香は、意を決して愛実に話し掛ける。
「小路先輩! 少しお伺いしたいことがあるんです!」
「私に聞きたいこと?」
「あ、あの、ここじゃ……ちょっと」
李々香が周囲をチラチラ見ているのを見て、愛実は優しく微笑む。
「二年生の階じゃ落ち着かないよね。渡り廊下に出ようか」
愛実と李々香は後者を二階で繋ぐ渡り廊下に出て、フェンスに手を置いた愛実が李々香の方を向いて尋ねる。
「私に聞きたいことって?」
「あの、柊人のことで」
「柊くんのこと?」
「は、はい。柊人、シュートが苦手で、それで、昔シュートが苦手になるようなことがあったんじゃないかと思って。それを、小路先輩なら知ってるんじゃないかと」
たどたどしく伝える李々香に、愛実は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめんね。柊くんとは幼馴染みなんだけど、サッカーは何度か試合の時に応援に行ったくらいで、よく分からないんだ」
「そ、そうですか……」
李々香は肩を落とす。愛実なら柊人に何があったか分かると思っていた。しかし愛実では分からず、愛実が分からないとなると、李々香の伝手では他に柊人の過去を知っていそうな人間は居ない。
シュートを外すことを、柊人が深く悩み苦しんでいるのを見ている李々香は、どうしてもその悩みや苦しみを解決してあげたかった。
「私は分からないけど、小学生の頃に柊くんと一緒にサッカーをやってた人なら知ってるよ。その人なら何か分かるかも」
「ほ、本当ですか? あの! その人は?」
「ちょっとついてきて」
「は、はい!」
愛実の言葉に、李々香は元気を取り戻して返事をする。
柊人と一緒にサッカーをしていた人なら、サッカーをしている時の柊人を知っているはず。その人なら、柊人のトラウマになりそうな出来事も知っているはずだ。
愛実に連れられて二年のとある教室の前に来た李々香は、教室の中に入って行く愛実を見送り、ジッと廊下で愛実を待った。しばらくすると愛実は一人の男子生徒を連れて教室から出てきた。
「春海さん、この人は織笠くん。織笠くん、この子は柊くんと同じクラスでサッカー部の春海李々香ちゃん」
渡り廊下に戻り、愛実から紹介を受けた男子はニッコリ笑う。
「俺は織笠竜也。柊人について話があるんだって?」
「初めまして、私は春海李々香です。あの、織笠先輩、柊人が――」
李々香が柊人について訪ねようとした時、竜也はニッコリとした柔らかい笑顔を消して李々香の言葉を遮った。
「柊人はこのことを知ってるの? 春海さんが柊人のことについて知りたがってるって」
「い、いえ、柊人には何も」
「じゃあ教えられない」
「えっ……」
竜也の言葉に、李々香は言葉を失う。その李々香に追い討ちを掛けるかのように、竜也は言葉を続けた。
「俺に聞きに来たってことは、柊人は何も話してないってことだろ? だったら柊人は春海さんに知られたくないってことだ。そういうことを、柊人の許可なしに教えることは出来ない」
竜也の言葉は筋の通った当然の言葉だ。柊人のことを思えば、柊人が嫌がるようなことを言いふらすなんて出来るわけがない。でも、李々香もこのまま引き下がるわけにはいかなかった。
李々香は柊人にドリブルを教えてもらった。指導の域を逸脱した恋の虐めから助けてもらった。その自分を何度も救ってくれた柊人が今もずっと、先の、答えの見えない悩みにもがき苦しんでいる。李々香はそれをどうにかしたかった。どうにかその悩みと苦しみから柊人を助けたかった。
「柊人が悩んでて、苦しんでて……それを、その悩みと苦しみから柊人を助けたいんです。そのためには、柊人がなんでシュートを決められなくなったのか、柊人に何があったのか知らないといけないんです! 柊人はきっと私が聞いても、私には関係ないことだとか、自分のことは自分でなんとかするって言って絶対に教えてくれないと思うんです! でも、それじゃ何も前に進めないんです……。あんなに毎日、一人でずっと悩んでるのに、答えが見付からないんです。だから……私が一緒に探さないと、きっと柊人の答えは見付からないんですッ!」
目に涙をいっぱい溜めた李々香に、竜也は腕を組んで考え込む。そして、李々香ではなく愛実に視線を向けた。
「小路、申し訳ないが小路には話せない」
「そっか、じゃあ私は戻ってるね」
「ああ、ありがとう」
目の前で、手の甲で目元を拭う李々香を見ていた竜也は、愛実が校舎の中に戻ったのを確認して、李々香に口を開いた。
「聞いたってどうすることも出来ないことだと思う。でも、春海さんがそこまで言うなら、俺が知ってることを話すよ」
柊人が小学校一年から六年まで入っていた少年団は、大字北サッカースポーツ少年団という宮崎県内でも屈指の強豪だった。その大字北の監督はアマチュアリーグに所属する社会人チームでの選手経験のある人だった。大字北はその人が監督になってから、瞬く間に成績を上げ、正にその監督が居たから県内屈指の強豪、そして全国でも戦える超強豪チームになった。
だが、その監督の指導方法、指導方針はあまり好まれるものではなかった。その監督は、選手を一切褒めなかった。しかし、その厳しい方針は他人の子どもに対するもので、大字北に所属する自分の息子には、異常なまでに甘かった。
自分の息子よりも上手い選手が居ても、絶対に息子のポジションを空けたり、ましてや息子を下げてその選手をレギュラーで使ったりすることはあり得なかった。しかし、そんな明らかな贔屓を黙って見ている保護者ばかりではなく、そのやり方に意見する人も居た。でも、その度にその監督は言うのだ。「俺が監督をしているんだから俺のやりたいようにメンバーを決める」「俺のやり方で結果は出ている」と。
確かに、監督のやり方で出場する大会のほとんどを優勝し、全日本少年サッカー大会にも毎年出場するという成績を収めている。それを盾に出されて仕舞えば、保護者は何も言うことが出来なかった。だが、そのやり方に誰でも従えるという訳ではなく、監督のやり方に付いていけなかった人が次々退団していった。
監督の息子はトップ下をやっていて、ディフェンダーだった竜也はポジションを争う、そもそも争うことさえ出来なかったのだが、ポジションを諦めることはなかった。でも、柊人はずっとトップ下を希望していた。
監督の息子と同い年だった柊人は一年の頃からサッカーを始め、それからずっとトップ下を希望し続けるが、その望みが叶うことはなかった。しかし、小学生だった柊人は純粋で、自分がトップ下に入れないのは『自分が下手だから』と思い、上手くなる努力をした。
毎日みんなが帰った後も練習をして、サッカーの本を読み漁りサッカーのDVDを目に映像が焼け付くかと思うくらい観た。何度も何度も、何度も何度も何度も見てサッカーについて、トップ下について勉強した。
そして、その柊人の努力と、持ち前の才能が、遂に小学三年の頃に開花する。
小学三年の頃に出場した公式戦で、小学三年とは思えない、子ども離れしたボールタッチとドリブルで、相手チームのディフェンダーを抜き去った。ほとんどが五、六年生で構成されたチーム相手に、柊人はその試合で二得点三アシストという驚異的な成績を収めた。その成績は誰の目が見てもエースに相応しい活躍だった。対する監督の息子は、柊人がドリブルやパスでアシストし三得点を挙げたが、トップ下として試合を作っていたとは言えない動きだった。間違いなく、その試合は右サイドミッドフィルダーの柊人が司令塔だった。
その試合後、柊人は監督に「トップ下をやらせて下さい」そう頼んだ。しかし、監督は柊人に言った。自分の息子よりも得点力がない柊人にトップ下はやらせないと。
次の試合で、柊人は監督の息子より多い得点を挙げ、監督にトップ下での起用を頼んだ。しかし今度は、ドリブルで突破した人数が自分の息子より少ないと言った。
その次の試合で、柊人は監督の息子よりも多い得点を挙げ、尚且つ監督の息子よりも多くの選手をドリブルで抜いた。でも、監督は何かと理由を付けて、柊人のトップ下起用を認めなかった。
監督の出された要望をこなしていけば、いつかトップ下で使ってもらえる。そう信じていた柊人は、試合の度に監督の要求以上の成績を収め、その成績を収めるために毎日毎日、夜遅くまで、暗くなってまともにボールが見えなくなるまで練習をした。
そんな努力が二年続いた小学校五年の冬、とある大会でそれは起きた。
その時には、柊人をチームの中心、チームのエースだと認めていないのは監督と監督の息子だけになっていた。そして、チームが勝ち続けている理由が、原動力が柊人であることは誰の目が見ても明らかだった。
大会の決勝があったその日、柊人は朝から体調を崩し、万全の状態ではないのは分かっていた。周りの保護者も、チームメイトも、監督と監督の息子以外は試合の出場を止めた。でも、監督が柊人に「体調を崩してチームに迷惑を掛けるような奴はトップ下に使えんな」そう言った。それを聞いた柊人は、最悪の状態で試合に出場した。
体調を崩した試合でも、柊人は他を凌駕する力の差を見せつけて、前後半合わせた四〇分を戦った。そしてロスタイムで表示された二分が経過する寸前、柊人が放ったシュートは枠外へ外れた。
その試合結果は六対〇という圧倒的なもので、その試合で六得点を挙げた柊人は、賞賛されるべき活躍を見せた。でも、監督はベンチに戻って来た柊人に、極寒の真冬に、ドリンクキーパーでキンキンに冷えた麦茶を頭からぶっかけた。そして倒れた柊人に思い切りボールを投げ付け、そして拳を振り上げて柊人に殴り掛かった。流石に、柊人に監督の拳が届く前に保護者と相手チームの監督、そして相手チームの保護者までが駆け付けて監督を羽交い締めにして柊人を守った。だが、監督は羽交い締めにされながらも柊人に罵声を浴びせた。
「お前みたいなシュートを外す下手くそを使うわけあるかっ! お前はどんなに上手くなってもトップ下で使わん!」
そう監督から言い放たれた柊人は、目から子どもらしいキラキラとした輝きを消して、まるで何も見えていない、見ていないような目をした。
小三で能力を開花させてからの二年間で、柊人がシュートを外したのは、その試合の、そのロスタイムのたった一本だけだった。
次の試合から、柊人はあまり笑わなくなり、あまり喋らなくなり、そして、シュートが決まらなくなった。
竜也の話を聞いた李々香は、口を両手で押さえ、漏れそうな嗚咽と溢れそうな涙を必死に堪えた。竜也はその表情を見て、視線を下に落とす。
「それから、俺が知ってる中で柊人がシュートを決められた試合は二回。一回はたぶん春海さんも知ってる全日本の決勝で決めた一点。あとは、俺の代が卒団する時にやったチーム内での練習試合で一〇点だ」
「一試合で……一〇点?」
李々香の涙が堪った目が驚愕の色を見せるのを見て、竜也は苦笑して首を振る。
「いいや……後半で、後半の二〇分で一〇点だ。後半になって急に動きが変わって、まるでサッカーの神様が降りてきたみたいな動きだったな」
後半の二〇分ということは二分に一点を取っていることになる。それはいくら練習試合だとしても、一人で挙げた得点としては異常な数字だ。
「俺が知ってる、柊人がシュートを決められなくなった話は全部話した」
そう言った竜也は目の前の李々香を真っ直ぐ見詰める。そして、重い言葉を落とした。
「これを聞いてどうする? 柊人をどうやって悩みから、苦しみから救うつもりだ?」
「それは……」
「大丈夫。分からないって言っても、俺は怒らない。俺自身、一緒にプレイしていた監督の息子以外の選手。そして監督以外の保護者の誰も分からないから。まあ、あの二人は自分達のせいで、柊人がシュートを決められなくなったなんて思ってないだろうけど。だから、俺は春海さんが何も出来なくても責めない。何も出来なかった俺に、春海さんを責める資格がないからね」
「織笠先輩……」
悲しそうに、悔しそうに唇を噛んで拳を握り締める竜也は、スッと拳から力を抜いて、無理に笑顔を作る。そして、李々香に優しく言葉を掛けた。
「ゆっくり、少しずつ柊人を見守ってやってくれ。それと、この話は小路には話さないでくれ」
「その為に、小路先輩を?」
「ああ、柊人はずっと小路のことが好きだったからな」