表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
beloved ZONE  作者: 鶏の唐揚げ
4/15

【四】

【四】


 第一中から徒歩一〇分程の距離にある和菓子屋小路(こうじ。そこに住んでいる小路愛実(こうじまなみと柊人はいわゆる幼馴染みだ。

 柊人が一年で愛実が二年。一つ年上だが、愛実はそれよりももっと大人びて落ち着いて見える。

 その小路家の居間に座り、柊人は目の前に出されたお茶を飲む。そして、ちゃぶ台の向こう側から自分を睨み付ける愛実に視線を向けた。

「柊くん? これはどういうこと?」

 ニッコリと笑う愛実は、隣でモグモグと黒糖饅頭を食べる李々香を示して尋ねる。李々香はリスの様にちまちまと黒糖饅頭を食べているが、目は泣き腫らしてウサギのように真っ赤にしている。

 つい一〇数分前、その泣いている李々香の側にいた柊人を、愛実は目撃した。それで愛実は泣いている李々香と、困り果てた柊人を自分の家に連れて来た。

 そして、今の向かい合う状況に至る。

「どういうことって言われても、春海さんが泣き出して困ってた所に愛実姉が来てくれて、助かったって状況なんだけど」

「なんで、春海さんは泣いてるの?」

「それは……」

 柊人は愛実の質問に押し黙る。

 いくら、柊人に男女交際経験がないと言っても「彼氏と喧嘩して泣き出して、その喧嘩した彼氏は彼女を置いて帰った」なんてことを、当の本人である李々香の前で言えるわけがないことくらいは分かる。

 李々香は泣き止んでいるものの、まだ完全に落ち着いたわけではない。その状態でさっきのことを思い出させるような言葉を言うべきではない。

 愛実は温かいお茶を飲んで、諭すような目を柊人に向ける。

「柊くん、どんな理由があったか分からないけど、女の子を泣かせるなんて最低だよ」

 その愛実の言葉に、自分のせいではないと思いつつも、無言を返して何も反論をしないことにした。

 李々香は練習で疲れ、泣いて疲れたことでお腹が減ったようで、二個目の黒糖饅頭に手を伸ばしていた。

 いきなり現れた恋に言い掛かりを付けられた上に突っかかられ、更に恋と揉めて李々香は泣き出してしまい、そして、その李々香が泣いている所を愛実に目撃されて、何故か柊人のせいで李々香が泣いたことになっている。

 柊人は完全に巻き込まれた形で、一連の件に関して落ち度はない。

「柊くん、もう遅いから春海さんを送ってあげて」

「分かってるよ。ありがとう、愛実姉」

 愛実が家に李々香を連れて来てくれて、柊人が助かったのは間違いない。いきなり泣き出した李々香に、柊人はオロオロしてどうすることも出来なかった。あのままではずっと河川敷から動けなかったかもしれない。


「小路先輩。ご迷惑をお掛けしました」

「ううん、大丈夫。部活頑張ってね」

 玄関前で丁寧に挨拶を交わした二人を見届け、柊人は歩き出す。その隣に李々香は並んで歩く。

 すっかり日が落ち、街灯に照らされた夜道に人気はない。その静かな夜道に、申し訳なさそうな声が響いた。

「ごめんなさい」

「……全くだ。なんで俺が春海さんを泣かせたことになってるんだ」

 ハアっと息を吐いて、ドッと溢れ出す疲れたと一緒に不満を漏らす。その柊人に、李々香は視線を向けずに言葉を続ける。

「ありがとう。私が努力した成果を消しそうだったから、ドリブルのこと迷ってたんだね」

「俺もそれなりに悩んで苦労したつもりだからな。それで手に入れた武器が無駄になるのは嫌だったし、まあどっちも上手く出来るようになれば、そっちの方がいいんだけど」

 柊人も最初からドリブルが上手かったなんて訳はない。地道に努力を重ねて今の技術がある。その苦労は大変なものだったし、李々香の体格の違う男子に対抗するために身に付けたであろうスピードタイプのドリブル取得の苦労はある程度予想は出来た。

 そのスピードタイプのドリブルを曲げてまでテクニックタイプを教えてほしいと言った決意に負けて、柊人は自分なりにドリブルを教えた。

「春海さん、この前言ったドリブルよりも身に付けた方がいいことだが、ファーストタッチの精度とランウィズザボールだ」

「ファーストタッチとランウィズザボール?」

 ファーストタッチはその名の通り、ボールを受けて初めてボールに触ること。いわゆるトラップだ。

 ボールは浮き球であるロブパスや、低弾道のグラウンダーパス。その二種類でも高さやボールの飛ぶ軌跡には様々なバリエーションがあるし、パスの強弱も様々だ。その様々なパスに全て、ファーストタッチが行われる。

「まずファーストタッチだが、フォワードはダラダラとボールキープしていたらディフェンダーのカバーが入ってしまう。だから、パスを受けてからすぐに攻撃に切り替えないといけない。そして、ファーストタッチが上手ければ、その攻撃に切り替えるスピードも上がるし、そのファーストタッチ次第で一気にディフェンダーを置き去りにすることが出来る。次は、ランウィズザボールだな」

 ランウィズザボールは、ボールと一緒に走る動きを指す。元々タッチ数の少ないスピードタイプのドリブルよりもタッチ数が少ない。イメージとしては、自分が蹴り出したボールを追い掛けるように走る動きだ。

 ボールをドリブルしながら走るのと、ボールを追い掛けながら走るのでは、出せるトップスピードにはかなりの差がある。もちろんボールを追い掛けながら走るランウィズザボールの方がタッチ数の少ないドリブルよりも速い。

 ランウィズザボールを使えば、敵味方の居ないオープンスペースにボールを蹴り込み、そのスペースを切り裂いて一気に抜け出すことが出来る。

 もしそれが、ボールを受けた瞬間のファーストタッチでランウィズザボールを開始出来れば、攻撃に転じるまでのスピードは更に速くなる。

「ランウィズザボールが上手ければ、それだけでシュートチャンスを作ることだって出来る。それに、ファーストタッチの精度向上も、ランウィズザボールも、スピードタイプのドリブルと合わせれば強い武器になる。そっちの方がフィジカルコンタクトを避けてディフェンダーを抜けるし、足の速い春海さんに合うとは思ったんだけど」

 ブツブツと語る柊人は、李々香からの返答が無いのを不審に思い隣を歩く李々香に視線を向ける。李々香はボーッと柊人を見詰めていて、慌てて柊人から視線を逸らす。

「どっちが良いと思う? テクニックタイプのドリブルと、ファーストタッチとランウィズザボール」

「俺の意見はファーストタッチとランウィズザボールを上手く出来るようになって、それから攻撃のバリエーションを増やすため、一人で打開する力を身に付けるためにテクニックタイプを覚える、かな」

「じゃあ、そうする」

 その李々香の言葉に柊人は戸惑う。自分のことにしてはあっさり決め過ぎだ。

 もし柊人が多数の優秀な選手を育ててきた名コーチなら、話半分で承諾するのもまだ分からなくはない。しかし、柊人はただの中学生なのだ。しかし、柊人はそれを李々香に言いはしなかった。

 結局全ては李々香本人の判断であって、自分がどう言おうと決めるのは李々香なのだ。だから、柊人は余計な口出しをしない。そう決めた。


 夕日の差し込む教室。その教室で並んで立たされる柊人と李々香は、目の前で腕を組む釜田が二人を見据えている。

「さて、雪村。サッカー部に入部する決心は出来たか?」

「話題がすり替わってます。二人でコミュニケーションがどうという話だったでしょう」

 やっと日直の仕事が終わり帰れると思った途端、担任釜田の登場で帰宅を遮られた。

「春海は部活に行っていいぞ」

「えっ? は、はい! 失礼しました!」

 頭を下げて出て行く李々香を見送り、柊人は釜田に視線を向ける。何故自分だけ残されているのかという不満を込めて。

「春海とは上手くやってるようだな」

「そうですか、じゃあ明日から日直を元に戻して下さい」

「いや、そりゃあ無理だ。前期はずっと二人で日直だ」

「……それで、なんで俺だけ残されたんでしょうか?」

 その柊人の質問に、釜田は近くにあった席に座り、向かいに椅子を置いて手で指す。柊人はその椅子に座り、釜田の話を待った。

「櫻井に雪村のことを話したらな――」

 ピクリと柊人は眉を動かす。

「サッカー部に必要ない、と言っていた」

「俺もそう思いますよ。そもそも俺はサッカーは辞めたんです。趣味でちょっとボール蹴って遊べればそれで良いんです」

「今日、ミニゲームやってみないか?」

「話を聞いてましたか? 俺は――」

「櫻井を挫折させてくれ」

 今度は、露骨に眉をひそめる。挫折させろというのは、あまり穏やかな話ではない。しかし、それにはちゃんとした理由があった。

「櫻井はチームの中心選手だが、司令塔と言うよりは――」

「支配者ですね」

「ああ、周りを使うが、今の櫻井は周りを活かせてない。特にここ最近は酷い。無茶苦茶なパスを出すのが目立つ。そして繋がらないことに対して周りに当たっている。確かに櫻井のレベルに合わせられる選手は、今のうちにはいない。それに櫻井が絶対的なエースであるのは間違いない。だから、誰も櫻井に意見出来ない。先輩である三年でもな」

 恋は高い技術で試合を支配していた。しかしそれは櫻井恋の試合であり、第一中サッカー部の試合ではなかった。

 全ての攻撃は恋のみが組み立て、恋のみのアイデアで試合を作っている。それは一面から見れば恋を中心にチームが纏まっているように見える。だが、それはそう見えるだけで恋一人が自分のやりたいように、思うように周りを使い減らしているだけで、チームとしての纏まりはない。それがここ最近は露骨になってきていた。

「先生が言えば良いんじゃないですか? そのための顧問じゃ」

「言ったら分かりましたと言うさ。表面上ではな。でも、心の中では何も解決はしない」

 釜田もただ黙って見ていた訳じゃない。ミニゲーム中や練習試合で恋の行動を問題視して、恋を呼び出し注意をした。

 今の恋がやっているプレイは、他人を自分の使いたい駒のように動かしているだけで、個人個人の長所、ストロングポイントを活かそうとはしていない。もっと周りを活かして、みんなの長所を使えと指導した。しかし、その釜田に恋は「分かりました」と口にした。でも、それからも恋のプレイは分かったようには到底見えないプレイのままだった。

「この年代は周りに対して反発したがる年代だが、櫻井は少し度が過ぎている。それはあいつを自由にさせすぎた俺の責任でもある。俺が叩き落としてもいいが、あいつには同年代からそれをやられなければ意味がない。それが出来るのは、うちの中学では雪村、お前だけだ。だから――」

「お断りします」

 釜田の話を最後まで聞かず、柊人はそうきっぱり言い切った。

「そうか……」

 釜田も柊人が簡単に承諾するとは思っていなかったが、こうもきっぱり断られるのは流石に堪えるものがあった。しかし、それを人でなしとか思いやりがないという、柊人を責めるような言葉では片付けられない。柊人はここ最近、恋に突っかかれて辟易していた。自分は何もやっていないのに、目に入れば露骨に嫌味を言われ、自分からやったわけではないのに、李々香にドリブルを教えたら胸ぐらを掴まれ突き飛ばされた。全て何でもかんでも自分の思い通りに支配したいと思っている恋の問題であって、ましてやその恋を助けるために、自分が何かしてやらなければならないのが納得出来なかった。

 自分を嫌いだと公言するような人間に、優しさを投げかけられる人間がどれだけ居るだろうか? 少なくとも、柊人はそういう人間よりも、人間らしい思考結果に達した。

「正直に言います。櫻井先輩が部内で孤立しても俺はなんとも思いません。それに、櫻井先輩に引っ張られて周りの能力が伸びるかもしれません。そもそも、俺はサッカー部じゃない。色々意味の分からないことで突っ掛かられて迷惑していたんです。先生も知ってる通り、下校途中にいきなり嫌いだと言われましたしね。俺は前までは特に気にしてませんでしたけど、今はあの人が嫌いです。あの人を助けるために何かするなんて絶対に嫌ですね」

 全てが正論だ。その正論に釜田はなにも言えず押し黙るしかなかった。その釜田を見て、柊人は頭を下げた。

「では、俺は帰るので失礼します」

 頭を上げた柊人は、李々香の机の横に手提げ袋が下がっているが見えた。いつもその手提げ袋からタオルや制汗スプレー等の女の子にとっては大切な物を出していた。それを夜のドリブル練習の時に見ていた柊人は、かなり気が進まなかったが、その手提げ袋を手に取った。それを見た釜田は、幾分気持ちを持ち直した笑顔を浮かべる。

「春海とは仲良くしてやってくれ」


 靴を履き替え、サッカー部が練習をやっているはずのグラウンドに向かって歩く。このまま行けば恋と鉢合わせして嫌味の一つや二つは当然言われる。それは出来れば避けたかったが、手に持った手提げ袋を李々香に届けなければいけない。

 最初は何故か柊人を睨み付け、体育の授業ではよく分からない突っ掛かり方をして、正直柊人にとって迷惑でしかたなかった。しかし、サッカーに一生懸命で、上手くなりたいと努力する姿は好感が持てた。それに、楽しそうにボールを追い掛ける姿が、柊人は羨ましかった。

 柊人は小六の全校大会で取った一点以降、少年団を辞めてひたすら一人でボールに向かっていた。柊人は心の隅で思っている。あの時、勝てなかったのは自分の力が足りなかったからだと。批判されるようなトリックプレイではなく、普通に、誰の文句も言われない点の取り方が出来なかった自分が弱かったのだと。だから、毎日毎日、自分の武器であるドリブルを磨きつつも、自分に足りない決定力を必死に磨き続けている。でも、ドリブルとは違って決定力は黒ずんだままで輝きは見えてこない。

 日が傾きかけたグラウンドに出ると、妙に静かだった。その妙な静けさに柊人は不審感を抱きながら視線を巡らす。すると、サッカー部が練習しているスペースの中央で、向かい合う二つの人影が見えた。その人影から離れて他のサッカー部員達が並んでいる。

 中央で向かい合う二人の片方は恋で、足元にボールを保持したまま視線を下に向けている。そして、その視線の下には、両手を地面に突いて息を切らす李々香が居た。

 綺麗に洗濯された、白いスポーツウェア姿の恋とは対照的に、李々香は全身砂まみれで汚れが酷い。

「春海! 誰が座り込んで良いって言った!」

「はいっ!」

 砂が付いた腕でゴシゴシ目元を擦り、李々香は立ち上がって恋からボールを奪取しようと足を伸ばす。しかし、体を反転した恋は李々香をかわし、右手で李々香の背中を突き飛ばした。

「キャッ!」

 前から硬い白土の地面に倒れ込む李々香は、グッと両手の拳を握り締め立ち上がる。そしてまた、懸命に足を伸ばして恋からボールを奪おうとする。しかし、また避けられ、今度は軸足を踏まれバランスを崩した李々香が倒れる。遠目から見える李々香の瞳からは、傾き掛けた日の光りに照らされて煌めく雫が見えた。

 柊人はその場に持っていた荷物を全部置き、二人のやりとりを眺めているサッカー部の集団に近付く。その集団の一人から乱暴にボールを奪い去ると、柊人は思いっ切りボールを蹴り飛ばした。

「ペテン師の技なんか身に付けたってどうせ俺には――ッ!」

 柊人が蹴り飛ばしたボールは、思いっ切り恋の右頬に激突する。その激突した勢いで吹っ飛ばされた恋は地面に倒れ込んで、真っ白なスポーツウェアを汚した。

 恋に当たったボールは高く跳ね上がりながら柊人の方向に跳ね返ってくる。ゆっくり歩いていた柊人は、そのボールの落下地点に入って落ちてくるボールを見上げる。

 柊人の頭の中には、一生懸命自分にドリブルを頼み込む李々香の姿が思い浮かび、疲れて座り込みながらも必死にボールを追い掛ける李々香の姿が思い浮かび、そして、ボールを楽しそうに笑顔で追い掛ける李々香の顔が思い浮かんでいた。

 高く上がったボールは柊人の真下に落ちてきて、柊人はそのボールに合わせるように右足を上げて横に振り抜いた。

 柊人のボレーキックで再び放たれたボールは、さっきよりも速いスピードで跳び、恋の足元にあったボールに当たる。勢いのあるボールがぶつかったそのボールは、勢いを借りてすぐ近くにあった恋の顔面に当たる。サッカー部員達の中から、想像した痛みに耐えかねて呻き声を上げる者が数名居た。しかし、恋本人は呻き声さえ上げられなかった。

 また足元に転がってきたボールを、今度は軽く蹴って恋の体に何度も当てる。腕に足、肩に胸。それぞれ違う場所に当たっても、ピッタリ柊人の足元に向かってボールは戻ってくる。

 そして、恋の側まで来た柊人は恋の胸ぐらを掴み上げて無理矢理立たせる。鼻から鼻血を流す恋は、自分を掴み上げた柊人の手を振り払う。そして、憎しみに満ちた目で睨み返した。

「てめえ、先輩に向かって――」

 その恋の言葉を遮る様に、柊人は無言で右手を手招きするように動かし挑発する。その柊人に恋はほぼ飛びかかるような形でボールを奪いにいった。

「ペテン師の分際でふざけたことを言いやがってッ! ――ガハッ!?」

 飛びかかってきた恋の腹に向かい、柊人はボールを蹴り上げる。丁度、鳩尾にボールを受け、恋は体をくの字に曲げてうずくまる。目の前で余裕を見せつける様に柊人はリフティングを始める。その様子を見た恋は、ボールではなく柊人の足を刈るように右足を横に振り抜いた。ボールと一緒に飛び上がった柊人は、難なくその足刈りをかわす。そして、ボールを蹴って恋の額に当てた。

 ボールを受けた恋は脳に揺れるような感覚と吐き気を覚えながら一度地面に倒れ、よろめくように立ち上がる。

 その後も、恋は足を掛けて倒そう、引っ張って引き倒そう、足を蹴って動きを止めようと、様々なファール行為で柊人からボールを奪おうとする。しかし、それを柊人は一枚も二枚も上手で避け、恋が仕掛けてきたことと同じやり方で恋を地に伏せる。

 その光景を見ていたサッカー部員は戦慄した。

 あの敵無しの、絶対に逆らうことの出来ない櫻井恋が、運動部でもない、制服を着た一年に手玉に取られ、何度も何度も地面に倒されている。そして、その櫻井恋を手玉に取っている一年は、全く表情を変えずに淡々とそれをやっている。それに底冷えのするような恐ろしさを、見ていたサッカー部全員が抱いた。

 日が傾きかけたグラウンドは、さっきよりも静かだった。その静けさにサッカー部だけではなく、グラウンドで練習する他の運動部は恐怖を抱く。

 サッカー部が練習しているスペースの中央で向かい合う二つの人影。その人影から離れて他のサッカー部員達が並んでいる。

 中央で向かい合う二人の片方は柊人で、足元にボールを保持したまま視線を下に向けている。そして、その視線の下には、両手を地面に突いて息を切らす恋が居た。

 綺麗に洗濯された制服姿の柊人とは対照的に、恋は全身砂にまみれて汚れが酷い。

 完全に、恋の立場は逆転している。自分より劣っている李々香を支配するように痛めつけていた恋は、自分よりも勝っている柊人から支配されるように痛めつけられた。

 柊人は足元に置いたボールに向かって右足を振り上げた。そしてそのボールを蹴ろうとした直前、後ろから右腕を引っ張られ制止される。その時初めて、柊人は我に返った。

 柊人の右腕を掴んだ李々香は、砂だらけの姿で黙って首を振る。その李々香を見た柊人は右足を振り抜いた。

「ヒィッ!」

 自分の顔の側を通り過ぎたボールに怯え、恋は声を上げる。その恋を怯えさせたボールは、恋の遥か後ろにあるゴールの右上を通り過ぎていった。

「雪村くん……なんで、居るの?」

「話はいい。まずは春海さんの手当が先だ」

 李々香の手を掴み柊人は校舎に向かって歩き出す。その途中、柊人は足元に転がっていたボールを蹴り、サッカー部員達の前に置かれていたボールの塊に蹴り当てた。そのボールがぶつかり合う音でサッカー部員達は自分達が固まっていることに気が付き、その硬直から解き放たれた。そして、グラウンドには柊人の怒鳴り声が響く。

「お前等全員、あのクズ野郎と同類だッ!」

 李々香が明らかに練習ではない虐めで痛めつけられているのにも関わらず、サッカー部員全員がそれを止めなかった。恋に逆らえなかったなんて甘い話じゃない。李々香は女の子だ。自分よりも体の大きい男の先輩に吹っ飛ばされたり倒されたりして怖くないわけがない。それに、李々香は擦り傷程度だが怪我をしている。サッカーに怪我は付き物だとしても、これは負う必要のない怪我だ。それをみすみすやらせていたなんて、李々香を痛めつけていた恋と同じとしか、柊人には思えなかった。

 途中で地面に置いた荷物を拾った柊人は李々香を連れて校舎の中に入り、保健室に向かう。保健室には保健室の先生が控えていて、柊人が連れてきた李々香を見て血相を変えて駆け寄る。そして、保健室の先生が濡れタオルを李々香に手渡し、手当の準備をするのを見て柊人は手に持った手提げ袋を、椅子に座る李々香に渡す。

「教室に忘れてた」

「ありがとう。……雪村くん、手当が終わったら――」

「俺は帰る」

「雪村くん、待っ――」

 後ろから聞こえる李々香の声を無視して保健室の外に出て、後ろ手で保健室の扉を閉める。保健室から歩き出した柊人の視線の先には、焦った表情で走ってくる釜田の姿が見えた。

「雪村! 春海はッ――」

 釜田は柊人の前で立ち止まるが、柊人は釜田を無視して隣を通り過ぎる。

 柊人は右手の拳を握り締めて、思い切り何かを殴りたい衝動に駆られた。心の中が胸くそ悪かった。

 李々香を痛めつけていた恋に、その恋をただ見ていたサッカー部員に、そして……。

 胸くそ悪いクズ野郎と同じことをやった自分自身に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ