【三】
【三】
宮崎県の人は、黒板の黒板消しのことをラーフルと呼ぶ。これは宮崎以外にも鹿児島と愛媛の人も使う呼び方だが、他の都道府県では一般的ではない。そのラーフルこと黒板消しの目に詰まったチョークの粉をクリーナーで吸い取る李々香は、ダラダラとゴミ箱のゴミを纏める柊人に視線を向ける。その柊人は、めんどくさいを心の中で一〇〇回くらい唱えた所だった。
数日前、体育の授業で突っかかって来た李々香と揉め、そのせいでお互いのわだかまりを無くすために日直を一緒にし、コミュニケーションを取るように担任教師釜田から命じられた。それに従って数日経つが、未だにその言いつけは解除されない。
それは、李々香が問題としている柊人のサッカー部加入に、柊人が真っ向から拒否しているからだ。
柊人からすれば、意味の分からない要求である。柊人自身はサッカーをやりたくないと思っているし、自分のやることを何で他人から強制されなければいけないのかと思っている。そう思うのが当然で、本来なら誰にも強制出来ることではない。だが、柊人達に日直を言いつけた釜田は、柊人にサッカー部へ加入してほしいという思いもあったため、李々香側に付いて柊人が折れるのを待っている。
「雪村くん」
「なんだ」
「今日、この後暇?」
「生憎だが、帰ってからやらないといけないことがある」
「ドリブルの練習ならグラウンドでも出来るよ」
「残念だが、ドリブルの練習なんてしない。今日は帰って買い物に行かないといけないんだ」
今家に帰ったとしても、もうとっくに買い物は済んでいて、夕食の準備まで済んでいるはずだ。つまり、嘘である。
「じゃあ、明日は空けておいて」
「明日は親戚の子供の面倒を見なくしちゃいけない」
「じゃあ明後日は?」
「明後日は家の用事がある」
「明々後日は?」
「のっぴきならない事情がある」
「弥の明後日は?」
「やむにやまれぬ――」
「何でそんなに嫌がるの?」
放課後、ゴミを纏め終わった柊人に李々香はジトっとした目を向ける。柊人としてはどんな目を向けられてもサッカー部に行く気はない。
「まずはサッカーをやる気がない。それに俺のことが嫌いだと言っている人が居る場所に行くほど、俺は物好きじゃない」
柊人はサッカー部の二年である櫻井恋に「嫌いだ」と宣言され、批判された全国大会の一点を揶揄された。柊人にとって学校の先輩ではあるが、正直嫌いな人だし自分も関わりたくない。
たとえ部活に行ったとしてもトラブルを招くだけだし、もし仮にサッカー部に加入したとしても、恋がいる時点で上手く行くとは思えない。そして、恋と上手く行かなければ、サッカー部に入っても上手くとは、柊人には思えなかった。
先日、サッカー部顧問の釜田と一緒に柊人が見たミニゲーム。あのミニゲームの中心に居て、あのミニゲームの支配者だったのは、紛れもなく櫻井恋だった。
恋はゲームメイカー、チームの司令塔としての役割を担っていた。パスや細かな指示によってゲームをコントロールするのがゲームメイカーの役割だが、恋は思うがままにチームを動かしゲームを支配していた。それは恋個人だけではなく、宮崎第一中学校サッカー部全員が、チームの中心は櫻井恋だと自覚し、櫻井恋のチームだと心の何処かで思っているのが見て取れた。そんな恋中心のチームに、恋に嫌われている柊人が入っても不調和しか起こさないのは、誰の目から見ても明らかだ。
それが柊人の思っていることだった。
「先輩は、本当は悪い人じゃないよ。きっと何か理――」
「男子に人気の女子が、女子にとって人気とは限らんだろ。それにどんなに良い人でも人を嫌う。人間だから当然だ」
「それは……」
「全員等しく仲良しこよしなんて無理なんだ。それに俺の方は仲良くする必要性がない」
理由があろうと無かろうと、柊人が恋に対して嫌われていることは事実で、その事実だけはどっちに転んでも覆らない。
何も言葉を返せず、ラーフルを手に持ったまま立ち尽くす李々香を尻目に、柊人はゴミ袋を持ち直して教室の出口を黙って出た。
部活終了後は制服に着替えて下校することが決まっている第一中では、部活終了直後はどの部も慌ただしく着替えをする部活動生がちらほら見える。男子は寒空の下、校舎の影で着替え、女子は更衣室で着替える。サッカー部唯一の女子部員である李々香は、テニス部、バレー部、バスケ部の女子が使っている更衣室で一緒に着替えていた。
「みんなバイバイ、また明日!」
更衣室を飛び出した李々香は、校門までまっしぐらに走る。チェック柄のスカートは校則ギリギリの短さまで折り曲げられ、走る勢いでふわりと翻る。校門を飛び出した李々香は、鴨池の外周を全力疾走で回り、しばらく走った後、人通りの少ない細い道へ入る。
「はぁはぁ……恋先輩……お待たせ、しました……」
息を切らした李々香が両膝に手を突いてそう言うと、細い道の入り口で立っていた恋は笑顔を向ける。
「そんなに急がなくてもいいって、いつも言ってるのに」
「いや、先輩を待たせちゃ悪いので」
「李々香、今度からはもっとゆっくり来ていいからな」
恋は李々香の手を取って優しく握る。それを見て、李々香は少し顔を赤色に染めて頷いた。
「はい」
恋と李々香は付き合っている。付き合っていると言っても、お互いサッカー部でデートをする暇もないため、部活終わりに一緒に帰るのと、スマートフォンのソーシャルネットワーキングサービスアプリ、グルチャで二人だけがやりとりを見られるグループを作っているくらい。そのグループ内でのやりとりも、プロサッカーの試合に対するものや学校での出来事に対するもの等、実に微笑ましい健全な中学生の恋愛と言った感じである。
手を握って歩く二人は、いつも李々香から会話が始まる。
「今日のミニゲームのフリーキック、あんなに曲がるフリーキック初めて見ました。どうやったらあんなに綺麗に曲げられるんですか?」
「パスの延長で蹴ってるから特に意識はして蹴ってないけど、昔プロの選手が擦り上げる様に蹴ってるって言ってたから、それを真似して練習したかな」
「やっぱり、上手くなるには練習が必要ですよね。私も早く上手くなってAチームに上がらないと」
第一中学校のサッカー部は大きく分けてAチームとBチームという二つのチームに分かれている。もちろんAチームがトップチーム、公式試合に出場する主力選手達が所属するチーム。そしてBチームがサブチーム、Aチームのベンチ外に居る補欠の選手達が所属するチームだ。練習試合はAチームもBチームも等しく行われるが、公式戦は当然Aチームしか出場出来ない。恋はAチーム所属で、李々香はBチーム所属だった。
第一中学校は、恋が一年で加入してきた頃から県内でも強豪校になり、小学生の頃に女子の都道府県トレセンに選ばれた李々香でも、トップチーム所属は出来ていない。それはやはり男子と女子の体格差が問題であり、体をぶつけてボールを奪い合うフィジカルコンタクトを苦手としているからだ。
李々香自身、それは理解している。そして、これからサッカーを続けて行くには避けては通れない問題であり、なんとしてでも解決しないといけない問題でもある。それで柊人からドリブルを教えてほしいと思っている。だがしかし、柊人の反応は芳しくない。
「まだ、日直やらされてるのか?」
「は、はい、私が悪いことなので」
「いや、もう何日もやってるだろう。あのペテン師と揉めたというのは聞いたけど、あまりにも長過ぎる。李々香が練習できる時間が目に見えて減っているじゃないか」
恋は好きな女の子を心配して、好きな彼女のことを思ってそう言った。それは李々香にも通じたし、李々香はそれを嬉しく思った。だから李々香は笑顔で言った。
「恋先輩と同じピッチに立つために、雪村くんにドリブルを教えてもらいたいんです。いつもムスッとしてるけど、悪い人じゃないし、あんな綺麗なドリブル出来るんだからきっと良いひ――キャッ!」
空いていた手の拳を握ってそう決意した李々香は、背中をブロック塀に押し付けられる。そして、唇には柔らかく温かい感触があった。その感触に、ゆっくりと李々香は瞳を閉じた。
格好いい先輩と、好きな人と、付き合っている彼氏とのキス。それは李々香にとって幸せなキスだった。だがしかし、閉じた瞳の先に居る恋は、薄く黒ずんだものを心に表し、李々香の手を握っていない空いた手は、わなわなと震える程握り締められていた。
河に架かる橋の橋脚に向かい合い、誰かが描いたサッカーゴール大の白い枠に相対する。そして、柊人はボールを蹴り出した。頭の中でイメージした相手ディフェンダーを次々に華麗なフェイントと細かいボールタッチで抜き去っていく。変幻自在、まるで超能力で操っているかのようなボールの動き。この相手の予測し辛い、予測出来ないドリブルで、柊人は全国を戦った。決勝でも、自分の技術が全く通用していないわけじゃなかった。ただ、チームの総合力が圧倒的に劣っていた。
サッカーは圧倒的技術を持った選手がたった一人居ても戦えないし、勝つことは出来ない。サッカーはチームスポーツだ。個人個人の技術が高く連携がバラバラのチームよりも、個人個人の技術はそこそこでも連携がキッチリ取れるチームの方が強い。でも、個人個人の能力が高く連携も取れたアインホルンジュニアチームに、個人の技術にバラツキがあり連携も小学生としては上の方くらいだった柊人のチームは勝てなかった。
ボディフェイントで脳内ディフェンダーを横に振って振り切り、左足でゴール上隅にシュートを放つ。そのシュートは、枠の右上隅の外に当たって跳ね返る。シュートを外した柊人は視線をゴールから背けた。
柊人は、シュートを苦手としている。柊人が担っていたサイドハーフとしては致命的とは言えない。でも、柊人がフォワードだった場合は致命的だ。フォワードはチームメイトが作り出した限られたチャンスをものにして得点に繋げなければならない。そのチャンスはレベルが高くなればなるほど数を減らしていく。そのレベルに達したとき、柊人がもしフォワードだったら一点も取れない可能性がある。
全日本少年サッカー大会決勝で取った一点も、完全に意表を突いたプレッシャーのほとんどない場面だった。だから、柊人は運良く点を取ることが出来たのだと思っている。しかし、あれが後半終了間際にチームメイトが死力を尽くして作り出した決定的なチャンスだったら……。そう考えると、柊人は自分が点を取れたと断言できない。
柊人はプレッシャーを感じれば感じるほど、自分の目に見えているゴールが小さく見えてしまう。そして必ずと言っていいほど、柊人のシュートはゴールに入らない。
柊人は、シュートが枠に飛ばないのだ。
「クソッ!」
跳ね返って足元に転がって来たボールを、柊人は蹴り返す。そのボールも、枠の上に当たって上に跳ね上がった。そのボールが柊人の上を越えていき後ろで落ちる。ボールを拾いに行くために振り返った柊人は、視線の先でボールを持った李々香が居た。
「…………なんで、春海さんがここに居るんだ」
「ボールの音が聞こえたから」
体操服とは違うスポーツウェア姿の李々香は、ボールをリフティングして見せ、ボールを柊人に蹴り出す。柊人は、そのボールを地面に付けることなく蹴り上げ、李々香と同じようにリフティングして、足の裏で地面に止めた。
「やっぱり、凄い。ボールのタッチが柔らかい」
「何しに来たんだ。こんな時間に中学生が危ないだろ」
「雪村くんも私と同い年じゃん」
「……こんな時間に女子が出歩いてたら危ないだろ」
ため息を吐きながら柊人が言い直すと、突然李々香がダッシュして柊人に近付き、ボールを奪おうと足を伸ばす。しかし、柊人は特に焦った様子もなくボールを右足の裏で引いて軸足である左足の裏を通し、今度は左足で保持する。その行動を見て、ニヤッと笑った李々香は更にボールを奪おうと追撃する。
堅いコンクリートの地面の上で、必死に追い回す李々香と余裕の表情でかわす柊人。それがしばらく続き、追い回していた李々香が息を切らして立ち止まると、柊人はまた足の裏でボールを止めて、そして緩みそうな顔に力を入れた。
久しぶりの高揚感。サッカーの授業では味わえない、本物のボールをめぐる攻防。純粋にそれが楽しいと思った。でも、その感情をすぐに抑え付け、ボールを足の裏で転がす。
「本当に……凄い……」
「俺の質問には答えないつもりか? 何しに来た」
「サッカー、一緒にやらない?」
「何度も言ってるだろう。俺はサッカーをやらない」
「……じゃあ、私がボールを取れたらサッカー部に入って」
「なんでそうなるんだ」
呆れて目を閉じようとした柊人の隙を狙って、李々香は足を伸ばす。しかし、その不意打ちは全く柊人に効果は無く、簡単にかわされてしまう。
「じゃあ、せめて……ドリブルを教えてほしい」
「この前も言っただろう。スピードに乗った、タッチ数の少ないドリブルは春海さんに合ってる。それを伸ばしていけば強い武器になる。俺のドリブルを真似する理由なんて――」
「スピードなんて男の子にすぐ追いつかれる! だから追い付かれても取られないドリブルが必要なの!」
語気を強めて言う李々香に真っ直ぐ視線を向けた柊人は、目を瞑ってからため息を吐き、ボールを李々香に向かって蹴り出した。柊人は、両腕を組んで右手をひょいひょいっと手招くように、掛かってこいと挑発するように動かす。
「とりあえず、ドリブルしてみろ」
李々香はその柊人の挑発にギッと睨みを利かせボールを蹴り出す。そして素早い突進からの反転、そして小回りの利いた切り返しで柊人を抜き去ろうとする。しかし、李々香が踏み出した先にはボールがなかった。焦って後ろを振り返ると、何事もなかったかのようにボールをリフティングしている柊人が居た。柊人は、再びボールを李々香に蹴り出し、また挑発するように手招く。
その後、何度李々香が柊人を抜こうとチャレンジしても、ボールを柊人に奪われ、疲れて足が止まった李々香は遂に地面に両膝と両手を突く。そして、立ったままボールを保持している柊人に視線を向ける。
「一度も……抜けなかった……」
小学生の頃、柊人とマッチアップした時は圧倒的な差を感じていた。でも、あれから自分なりに努力をして上手くなった自覚もあった。だから、完全勝利と言わずとも、惜敗くらいには持ち込めるのではないか、そう李々香は思っていた。だが、蓋を開けてみれば気持ちが良いほどの完敗だった。
「まず、ボールをまだ見過ぎてる。そこそこのディフェンダーなら抜けるが、上手いやつには視線で抜く方向がバレる。それと動きが完成してないフェイントはただ時間が掛かりすぎるだけで無意味だ。それと、フェイントがぶつ切りで繋がりがない」
「フェイントがぶつ切り?」
柊人はボールを持ったまま後ろに下がり、普通にフェイントを織り交ぜたドリブルを披露する。実に綺麗でスピード感に溢れる流れるようなドリブルだった。そして再び戻ってもう一度ドリブルをする。しかし、今度は所々詰まったように動きが止まり、さっきの流れるようなドリブルと同じフェイントを使っているのに、全く違うドリブルに見えた。
「極端にやったが、春海さんのドリブルは後にやった方。簡単に言うと、春海さんのドリブルはフェイント一つをやる度に終わってる。……終わっているってのは極端過ぎるか、途中でドリブルが止まっていると言った方がいいな」
「ドリブルが、止まってる?」
「フェイントは一つやっただけで相手が抜けるとは限らない、フェイントにフェイントを繋げて、更にフェイントを重ねてやっと抜ける相手もいる。春海さんはそのフェイントが途中でプツプツ切れて、次のフェイントまでに余計なボールタッチがある。その時に取られる。一度のフェイントで抜ける相手なら問題ないが、世の中そんなザルなディフェンスばかりじゃない」
柊人は李々香の前でフェイントをやってみせる。素早い逆シザースフェイント。そして外側から内側に跨ぐようにする逆シザースを見せつけてからの、右への素早いマシューズフェイントで抜き去る動きをする。李々香はその動きを見て言葉を発することが出来なかった。
柊人の指摘した繋がりのないフェイントは理解出来た。しかしそれもだが、全ての動作が速い柊人の動きに言葉を失った。
文字通り、複数のフェイントが繋がって一つのフェイントになった瞬間だった。
「春海さんの動きが酷いわけじゃない。多分同年代の平均的な相手だったら十分通用する。ただ、上を目指すなら止められる。まずはフェイントをちゃんと完成させる所からやった方が良い。フェイントの技術に自信がないから、つい視線を落としてしまう。目で見なくても完璧に動けるようになれば、目線で読まれることもないし、それでフェイントの質が上がるからドリブルは少しは上達するんじゃないか?」
柊人はボールをカバンの中に仕舞いながら、視線を李々香に向ける。李々香は尊敬の眼差しを柊人に向けるが、それに対する柊人の視線は冷ややかだった。
「ただ、春海さんはドリブルよりも身に付けた方が良いことがある。フォワードとして」
「えっ? ドリブルよりも、身に付けた方が良いこと?」
鞄を持ち上げた柊人は大きく息を吐く。そして、同じく立ち上がった春海に言った。
「とりあえず今日は帰らせてくれ。また機会があれば教える。家の近くまで送る、家はどっちだ」
「あ、ありがとう!」
李々香は荷物を持って立ち上がり、胸に熱い何かが沸き上がるのを感じながら、小さくガッツポーズをした。
その日から毎日、李々香は柊人の練習に突撃して来てはボールを追い回したり、ドリブルで抜こうとしたりする。しかし、相変わらず柊人には勝てていない。
最初、李々香はボールを見ずにフェイントをして抜こうとしていたが、柊人に「出来てないフェイントを見ずに出来るわけ無いだろう。最初はしっかり足元を見てから動きを完璧にして、それから見ずにやることから始めろ。途中の段階をすっ飛ばし過ぎだ」と言われ、今はやっとボールを見ないことを意識する段階だ。
ボールを足元に置いた李々香は、シザースフェイントをするためにボールの外周を、内側から外側に向かって跨ぐ。しかし、足の外側がボールに触れてしまいボールが横に流れてしまう。そんなことを繰り返し、毎晩毎晩、李々香は柊人にドリブルを習い続けた。
とある日。部活の最後に行われるミニゲーム。いつもチームバランスを考えてメンバーはAもBも混ぜるが、その時は完全に分けられてミニゲームをすることになった。
李々香はBチームのフォワードとしてミニゲームに参加し、そのミニゲームでサッカー部員をアッと驚かせた。
李々香はボールを受けると、練習していたシザースからマシューズというコンビネーションで相手ディフェンダーを抜き去ったのだ。しかも、相手はAチームのレギュラーである。
小柄な李々香の素早い動きに置いて行かれたディフェンダーは、呆然とゴールネットを揺らすボールを見ていた。
その日の練習終わり、恋と帰る李々香は実にご機嫌だった。多数の先輩達や顧問の釜田からも褒められた。そして……。
「あの動き、凄かったな。完全に相手を置き去りにしてた」
「あ、ありがとうございます!」
一番褒めてもらいたかった恋から褒められ、その機嫌は更に良くなる。
「どうやってあんなの覚えたんだ?」
「実は……練習終わりに雪村くんに教えてもらってて」
嬉しそうに笑顔で言った李々香は、突然立ち止まった恋の方を向いて、首を傾げる。だが恋はすぐに下に向けていた顔を上げ、爽やかな笑顔を浮かべる。その笑顔を見て李々香は安心した。
「あいつに教えてもらわなくても俺が教えるよ」
「いえ、先輩の迷惑にはなりたくないので! それに雪村くん、やっぱり悪い人じゃないみたいですし」
「悪いに決まってるだろ。相手を騙して点を取ったんだ」
「えっ!?」
「あいつは人を騙してまで一点取ろうとする薄汚いペテン師なんだよ! そんなクズ野郎の代わりが俺なんてふざけるなっ!」
突然怒鳴り声を上げた恋に、小柄な李々香は体を強張らせて固まる。
恋は中一の頃に初めて世代別代表の選考合宿に呼ばれた。サッカーが好きな、将来はプロサッカー選手を夢見るサッカー少年にとっては夢のようなチャンスだった。
もちろん、恋もそのチャンスを絶対にものにするつもりで合宿に参加していた。しかし、その合宿所で、恋はコーチ陣の話し声を聞いた。
「櫻井恋のパス技術とセンスは飛び抜けてますね」
コーチのその一言に、恋は胸が高鳴った。高評価で世代別代表に選ばれる可能性が高くなってきた。しかし、その高鳴りはすぐに掻き消えた。
「ただ、キープ力がな……。一対一に弱い。地方じゃ敵無しかもしれないが、全国、世界とステージが上がると、簡単にボールを奪われるトップ下はな……」
恋は中学で一年ながら既にトップ下の地位を確立していた。多少一対一に苦手意識はあったものの、今まで敵無しだったため、あまり気にはしていなかった。
それを的確に指摘され、それが上がった評価にケチをつけた。
「あの、雪村柊人が居れば、櫻井ボランチ、雪村トップ下で完璧なんだがな」
「雪村はダメだったんでしたっけ?」
「ああ、宮崎県のサッカー協会から所属チームに打診してもらったら、チームを辞めたと言われたらしい」
「辞めた!? なんで! ……あの、決勝の一点ですか」
その言葉を聞いて、恋は雪村柊人という名前を思い出した。その年の全日本少年サッカー大会決勝で、ロスタイムに子供らしくないトリックプレイで一点を挙げた小六が居た。どうやったらあんなタッチが出来るのかと思うくらいのドリブル技術を持っていて、二年連続優勝のアインホルンジュニアを手玉に取っていた右サイドハーフ。
「仕方ない、他にトップ下をこなせるレベルの奴は居ない。トップ下は櫻井恋だな」
恋は今コーチの話を聞いた。夢にまでみた日本代表確定。でも、それよりも恋は、胸の奥に湧き上がる屈辱に支配されていた。
元々トップ下は雪村柊人のつもりだったが、雪村柊人がサッカーを辞めたから自分はその代わりにトップ下に選ばれた。今まで、トップ下はお前以外居ないと言われ続けてきた恋にとっては、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えた。そして……恋は次の日の朝、選考を辞退すると言って合宿所を後にした。
そんな過去のある恋にとって、その苦々しい過去の象徴である柊人は絶対に認められない存在だった。ましてや、自分の彼女が柊人に教えを受けているなんて耐えられるわけがない。
「李々香、あいつは何処でやってる」
「恋先輩、あの、落ち着いて下さい」
「いいから黙って教えろって言ってんだよッ!」
手に持っていたスポーツバッグをアスファルトの地面に叩き付けた恋に、李々香は恐怖を感じていた。
パスを出す感覚でければ、ボールはゴールの枠内に飛んで行くかもしれない。柊人はそう思い何度もゴールにボールを蹴った。しかし、その蹴り出したボールは枠に一切飛んでくれない。
プレッシャーに弱いわけではないと思う。しかし、やはりプレッシャーを感じているから外してしまうのだろう。そう柊人は思いながら、枠をジッと見詰めていた。
「てめえ、李々香に手を出すな」
「いきなり現れて何なんですか」
突然後ろから腕を掴まれ無理矢理振り向かされた柊人は、怒り心頭の恋から胸倉を掴まれる。
何故怒っているのかが分からず、視線を巡らせて状況を確認しようとする。そして、遥か後ろで俯いて立ち尽くす李々香の姿を柊人は捉えた。
「春海さんが凹んでるのは何でですか?」
「お前が李々香に手を出したからだ」
その言葉でやっと、柊人は二人が付き合っていることを察した。しかし、柊人にとっては『手を出した』という表現は不本意だ。
「いや、勝手に俺の遊びに加わって来たのは春海さんの方で――」
「ペテン師の言うことなんて信じられるかッ!」
「ああそうかよ」
恋の言葉に柊人は完全に誤解を解くことを諦め、両手を上げた。
「恥ずかしい奴だと自分を自分で思わないのか? 彼女の行動に一々カッカして。仮にも付き合っているなら彼女のこと信用してやれよ。それに、俺は春海さんにはドリブルを教えろって言われただけだ」
「お前が余計なことをしたから李々香のドリブルは悪くなった。お前なんかの人を欺いて点を取るような、ペテン師の汚いドリブルになったんだ!」
その言葉を遥か後方で聞いて、李々香はショックを受けた。さっきはあんなに誉めてくれたのに、柊人に教えてもらったと知った途端、汚いドリブルだと言われた。
李々香にとっては一生懸命努力して、あのドリブルを身に付けたのだ。その努力を汚いという一言で片付けられてしまった。
「それに関しては俺も同意見だ。春海さんの良さを消してしまったのは認める」
「自覚してやってたのか! このクズ野郎が!」
突き飛ばされた柊人は、堅いコンクリートの上に尻餅を付き見下すように視線を下げる恋に、柊人は視線を向けた。
「俺はサッカーの指導者でもないし、そういう指導者の才能が自分にあるとは思ってない。ただ、春海さんの持ち味はタッチ数の少ないスピードタイプのドリブルで、あれを伸ばせばとんでもない武器になるのは何となく分かってた。でも、春海さん本人がテクニックタイプのドリブルを好んでいたし、どうしても男とのマッチアップで取られない技術が欲しいと言っていた。もしかしたら、テクニックタイプの技術も将来役に立つかもしれないし、実際はテクニックタイプの方が春海さんに合ってるかもしれない。だから教えた。せっかく、苦労して身に付けたドリブルが劣化するかもしれないのは、気が進まなかったが」
柊人は李々香にテクニックタイプのドリブルを教えて、李々香の長所であるスピードタイプのドリブルを消してしまうかもしれないと懸念していた。だから最後までドリブルを教えるのを躊躇った。
「もう二度と李々香に近付くな」
「いや、だから俺からは一度も近付いてないんだけど……」
これが愛は盲目というやつだろうかと柊人はため息を吐きながら考えた。
恋は後ろに立っていた李々香に近付き、手を握ろうとする。
「李々香、帰るぞ」
そう言って恋が伸ばした右手は、空を切った。
「はっ?」
恋は一瞬何が起こったのか分からなかった。しかし、すぐに何が起こったか分かった。握ろうとしていた李々香の手が後ろに引かれている。李々香は、自分の手を握ろうとするの恋の右手を避けたのだ。
「恋先輩、ごめんなさい。私は恋先輩の彼女ではいられません」
「何言って――」
「私、今……すごく恋先輩のことが嫌いです」
目に涙をいっぱいに溜めた李々香は、恋に向かってギッと睨みを返した。その目にはもう、好意は一ミリも残されていなかった。
「私は私なりに努力して、雪村くんからドリブルを教えてもらいました。それがやっと今日結果になって、私はすごく嬉しかったです。今日、雪村くんに、みんなに褒められたよって報告するつもりでした。恋先輩も一度はすごいって言ってくれましたよね」
「それはあのペテン師のものだって――」
「あのドリブルは、雪村くんのじゃありません! 雪村くんのはもっと綺麗なドリブルです! だから、だから……あのドリブルは私の、私が頑張って勝ち取った武器だったんです。それなのに……雪村くんから教えてもらったって聞いた途端、汚いって……酷い……」
両手の顔を覆って李々香はその場にしゃがみ込む。その姿を見て焦りと戸惑いと後悔を混ぜてぐちゃぐちゃにした酷い表情を浮かべ、恋はすぐに首を振り走り出した。
「マジかよ……普通、喧嘩した彼女を置いて帰るもんなのか、彼氏って……」
立ち上がった柊人はとりあえず李々香の側にしゃがんで様子を窺う。李々香は圧し殺したような声で泣いて、柊人にとってはどうしようもない。
「あら? 柊くん?」
河川敷の上から柊人の聞き覚えのある声が落ちてくる。その声に視線を向けた柊人は、安心した表情をしてホッと一息吐いた。
「愛実姉、助かった……」