【一一】
【一一】
小学校五年の冬。その冬のとある日、柊人は何時も通り夜遅くまで練習をしていた。
明日、六年生の卒団式がある。六年生と一緒にサッカーが出来るのも、明日で最後だ。
全日本に進むための九州大会。その決勝で一点が届かなかった。その一点があれば、みんなで全国を戦えたはずだった。
柊人は、くらい小学校のグラウンドで、薄っすらと見えるゴールに向かってボールを蹴る。ゴールの四隅を狙ったシュートじゃない。ゴールのど真ん中を狙ったシュート。しかし、クロスバーの上に外れて行く。
「クソッ!」
柊人は地面を蹴って悔しさを滲ませる。九州大会でも、柊人がシュートを決められていれば、全国へ行けていた。でも、柊人が決められなかったから、全国へ行けなかった。
ボールを拾って、柊人はバッグの中に押し込む。一緒に涙と悔しさも押し込んだ。
もう、トップ下でプレイ出来る望みはない。監督もやらせないと言ったし、シュートが決まらないのでは話にならない。だから、柊人は右サイドで必死に相手の守備を切り裂き、突き崩すことを目指した。
シュートが決められなくても、他の人がシュートを決めるチャンスを作れれば勝てる。そう思って、必死にドリブルとパスの技を磨き、柊人はどんな相手が来ても、右側を完全に崩し、自分の支配エリアにした。でも、たった一人、柊人だけが頑張っても、結果は付いてこなかった。
それは決して柊人のせいではない。でも小学一年からミスをすれば怒られ、褒められたことがない柊人は、自分の力が足りないのだと思った。だから毎日毎日練習をする。でも、シュートだけは、一向に上手くならなかった。
洋食店で調理師をしている母親は、今頃仕事が終わって家に帰り着いた頃だろう。柊人は早く帰って、母親の美味しい料理が食べたかった。
心無しか気持ちを持ち直した柊人は少し走りながら、街灯に照らされた道を進む。その途中で、見慣れた人影を見付けた。
「愛実姉!」
明るく声を上げて愛実に駆け寄る柊人は胸が高鳴った。練習終わりに愛実に出会えるなんて、今日はついていると。
「柊くん、練習の帰り?」
「うん! 愛実姉も?」
「うん」
愛実は手に持ったヴァイオリンのケースを持ち上げて見せて、ニッコリと笑う。愛実の笑顔は優しい。そして凄く可愛い。柊人はそれを心の中で思いながら隣に並ぶ。
愛実と一緒に帰る柊人は、隣に感じる愛実の気配にドキドキして、何を話そうかと戸惑った。
「柊くん、明日試合があるの? 織笠くんが言ってたんだけど?」
「明日は竜也くん達の卒団式があるんだ。その時にみんなで練習試合をするんだよ」
「そうなんだ。それって私も見に行っていい?」
「えっ!? 来てくれるの!?」
「うん、柊くんがサッカーしてるところ久しぶりに見たいから」
「ありがとう! 僕、明日頑張るから!」
その後、愛実と分かれた柊人は、自分の家まで歩きながら、グッと拳を握り締めた。
「明日、愛実姉にカッコいい所を見せるぞっ!」
柊人は愛実のことが好きだった。小さい頃から家が近くよく話す幼馴染み。優しくて可愛くて温かい年上のお姉さん。そんな愛実に良い所を見せるチャンス。その時の柊人は、自分がシュートを決めれないことなんて、頭の中から消えていた。
次の日、卒団式で行われる練習試合。六年生と一緒にサッカーが出来る最後の日。その日、柊人は監督の息子とは違うチームになった。でも、やりたかったトップ下は、卒団する六年生に譲った。
試合が始まってから、いつものように殺伐とした雰囲気ではなく、和気あいあいと笑いながらプレイをした。
オーバーヘッドキックをしようとして空振ったり、当時流行っていたサッカー漫画の技を真似しようとしてみたり、柊人にとって本当に久しぶりに心から楽しい試合だった。
でも、前半の一〇分を過ぎた時、雰囲気は一変する。
柊人が右サイドでボールを受け、華麗なドリブル突破からシュートを打った。そのシュートはゴールの左側に外れたのだが、一緒にプレイする選手から、試合を見ている保護者から歓声が上がった。でもその中でたった一人だけ、別の声を上げる人が居た。
「何外してやがる! この下手くそが!」
ベンチから怒鳴り声を上げているのは監督で、その声に柊人は体をビクッと強張らせた。
「監督、今日は卒団式ですから楽しく――」
「指導方針に口出ししないで頂きたい!」
監督を止めようとした保護者に、監督は語気を強めてそう言う。その監督に諦めの色を見せ、その保護者は引き下がった。
それから愛実に良い所を見せようと果敢にシュートを放つ柊人。そのシュートが外れる度に、ベンチから監督の怒鳴り声が聞こえる。
これじゃあ、カッコいい所を見せるどころか、カッコ悪い所を見せてしまっている。
「柊人、お前、あの女子が好きなんだって?」
「敦……」
柊人は後ろから掛けられたその声に振り返る。
高見敦。監督の息子で、トップ下のレギュラーをしている。その敦は、試合を見に来た愛実の方を見てニヤリと笑う。
「お前みたいなシュートを外してばっかりの下手くそなんか、好きになるわけないだろ」
柊人は悔しくて拳を握り締める。悔しくて悔しくて唇を噛み締める。でも、シュートを外しているのは事実で、それは全部自分のせい。だから、何も言い返せなかった。
敦はニヤリとした表情を変えないまま、口にした。
「でもまあ、親に捨てられた子供には、お前みたいな下手くそがお似合いかもな」
その言葉を聞いて、柊人の中の何かがプツリと切れた。
前半が終わって、五分のハーフタイムをどう過ごしたのか、それは柊人にも分からなかった。ただ、胸の中にどす黒い何かが渦巻いているのだけは分かっていた。
キックオフ直後、ボールを持ってドリブルで切り込む。ただまっすぐに。
「中央突破な――」
あっさりとしたマッチアップだった。足元の単純な一人ワンツー。しかし、敦は、その単純なフェイントにも手も足も出なかった。
後半の二〇分全てが、柊人の独壇場だった。誰も柊人を止められなかった。柊人に罵声を浴びせていた監督でさえ言葉を失っていた。今まで外していたシュートを尽く決め、柊人は後半だけで一〇得点を挙げた。正に神憑り的な活躍だった。
練習試合が終わり、ピッチから下がる時、柊人は愛実と視線が合った。そして……。
「柊くん、怖い……」
そう呟いて、愛実が走り去って行くのが見えた。その時、柊人は冷静さを取り戻し、手に持っていたボトルを地面に落とした。
目を覚ました柊人は、体が痛むのを感じ、この痛みが、昨日の夜、華那に投げ飛ばされたせいだと思い出した。
柊人はあの日の怒りを思い出した。そのせいで、何も関係ない李々香を怖がらせた。あの日から、柊人は愛実に気持ちを伝えることを恐れていた。一度、全国制覇をしたら告白しよう。そう勇気を出したが、それは自分の力不足で叶わなかった。それから、もう無理なんだと、柊人は諦めた。
愛実は物心つく前に、和菓子屋をしている母方の祖父母に引き取られた。それを柊人は知っていたし、愛実自身も特に気にした様子もなかった。でも、あの日、敦が言った言葉は、小五の柊人でも許せる言葉ではなかった。その怒りに任せて、柊人はボールを蹴っていた。
つい最近も、同じようなことを柊人は経験した。李々香が恋に虐められている時だ。その時も冷静さを失い、恋がルール無用の虐めをしていたとしても、目には目を歯には歯をと、同じやり方をやってしまった。その時に後悔したのだ。
また、人を怖がらせた。嫌な思いをさせたと。
でも、李々香は柊人を怖がらなかった。それどころか、助けてくれてありがとうと、柊人は感謝までされた。その李々香の優しさにホッとすると同時に、心が温かくなった。
李々香は自分が何度拒んでも、笑って手を差し出してくれた。一緒にサッカーをやろうと誘ってくれた。一緒に答えを見付けようと言ってくれた。李々香自身には関係ない、柊人の問題に真剣に向き合ってくれた。
そんな李々香を、柊人は怖がらせ、そして泣かせた。華那から責められるのも仕方が無い。それだけ酷いことを李々香にしてしまったのだから。
布団から出て、柊人は顔を洗う為に洗面所に行く。蛇口を捻り、流れ出る冷たい水を両手の中に溜めて、顔に掛ける。冷たい水が目を覚まさせると同時に、後ろからギュッと抱き締められた。
真正面にある鏡に、後ろから柊人を抱き締める華那の姿が映っている。鏡に映る華那は、シュンとして申し訳なさそうな表情をしている。
怒った次の日、華那が怒ったことへの罪悪感で落ち込むのはいつものことだった。そして、その落ち込んだ華那は、子供のように頼りない。
「柊ちゃん……ごめんね」
「華那さん、おはよう」
「私のこと……許して、くれる?」
そう潤んだ瞳で言う華那に、柊人は何時も通り言葉を返す。
「特製ハムエッグで許してあげるよ」
その柊人の言葉にパッと明るく笑う華那は、更に強くギューっと柊人を抱き締める。
「柊ちゃん、だーい好き! 今までで最高のハムエッグ作るからね!」
機嫌を取り戻し台所に駆けていく華那を見送る。そして柊人は笑って呟く。
「今までも、ずっと母さんの料理は最高だよ」
学校に着いて、自分の席に座った瞬間、李々香は頭を抱えて声にならない呻き声を上げる。そして、心の中で自分に問い掛けた。
どうしよう、と……。
昨日、柊人を怒らせてしまい、それで思わず涙を流してしまって、それを柊人の母親である華那に見られた。涙を流す李々香を見た華那は、柊人が李々香を泣かせたと思い、恐ろしい形相と態度で柊人を酷く叱り付けた。
柊人が李々香を泣かせた。その事実は変わらないが、李々香は柊人のせいで泣いたわけではなく、柊人を怒らせてしまったことによる罪悪感に耐えられなくなって泣いたのだ。
今更謝っても許してくれるだろうか? いや、あんなに酷い叱られ方をされた後で「あれは柊人のせいじゃなくて、私が勝手に泣いたの」そう説明して許してくれるわけがない。それに泣いた理由を聞かれてどう答える?
柊人を怒らせてしまったから、柊人を嫌な気分にさせてしまったから…………。
『柊人に嫌われたと思ったから』
「言えるわけないよ……」
力無く呟き、額を机の天板に付ける。分かってる気付いてる。もう認めるしかない。そう李々香は諦めた。自分は、柊人のことが好きなんだと。
でも李々香は、それを打ち明けることは出来ない。それには様々な理由があった。
まず、つい一ヶ月前まで李々香は恋と付き合っていた。それなのに柊人に好きだと告白すると、柊人に軽い女の子だと思われるのが嫌だった。
次に、まだ柊人と完全に気持ちが通じ合っているとは言えない。まだ、仲良くなり始めだ。そんな状況で告白しても、成功するわけがないし、今の関係さえも崩れてしまうかもしれない。しかし、その二つよりも大きいのは、竜也から聞いた言葉だ。
『柊人はずっと小路のことを好きだったからな』
その竜也の言葉が反響して、李々香はゆっくり顔を上げた。李々香から見て、愛実は大人っぽく落ち着いていて、そして綺麗な人だった。そんな愛実と自分を比べ、李々香は深いため息を吐く。
「とりあえず、謝って許してもらわないと…………許して、もらえるかな……」
自分で自分を不安にさせてしまい、目がジワッと熱くなる。李々香は恋と付き合っていた時、こんなにも心が焦げるような感情は抱かなかった。
確かに恋と付き合っていた時、李々香は恋のことが好きだった。サッカーがとても上手く、カッコいい年上の先輩。恋から告白された時はビックリもしたし嬉しくも思った。しかし実際は、李々香には合わない人だった。もう今の李々香にはこれっぽっちも恋を好きな気持ちはない。
恋に対して柊人は、李々香にとって不思議な存在だった。サッカーは異次元の上手さで、パス技術とシュート技術以外は恋の上と言って間違いない。でも、恋よりも遠い、途方もない存在には見えなかった。
基本マイペースで、口下手でチームメイトと会話するのは苦手。フォーメーションを教える時も、戦術を教える時も、毎回李々香に助けを求めてくる。
恋を後ろから追い掛けるような人だと表現するなら、柊人は横に並んで一緒に走る人。互いに助け合い、高め合える人だ。
柊人からのパスは優しかった。柊人のアイコンタクトは温かかった。柊人のドリブルは胸が高鳴った。柊人の隣に居れば、李々香が見たことのない世界が見える気がした。そして、柊人の隣に居て、柊人が見たことのない世界を、一緒に見たいと思った。
恋に嫌われたと知っても、辛くはなかったのに、柊人に嫌われたかもしれないと思う今は、張り裂けそうなくらい胸が痛い。そして、柊人のことを考えるだけで、李々香の胸は熱くなった。
「春海、おい、春海」
「えっ……? …………――ッ!? しゅ、柊人!?」
「……何でそんなに驚くんだ」
目の前に立っていた柊人から声を掛けられているのに気付き、李々香は驚いて立ち上がってしまう。そんな李々香をクラスメイトは不審気な目で見詰め、柊人は目を細めて李々香を見ている。
「ど、どうしたの?」
「少しいいか?」
「う、うん」
柊人は李々香を連れて教室を出て、渡り廊下の端で立ち止まる。そして、李々香に頭を下げた。
「昨日は本当にすまなかった。言い訳になってしまうが、春海を怖がらせるつもりは無かったんだ。織笠先輩から話を聞いたということを知った時、昔のことを思い出した」
柊人は李々香に包み隠さず話した。自分が少年団でどんな経験をしたか、卒団式の試合で敦が愛実を侮辱し、その怒りをぶつけるために一〇得点したこと。そして愛実のことが好きだったこと。今は年上の幼馴染みとして好きなことを。
柊人は話し終えて、自分自身に疑問を持った。柊人が愛実に抱いていた気持ちは李々香には関係ない話だった。ましてや、今はどうも思っていない話なんて李々香には全く関係ない。そう思いながらも、柊人は自然と李々香に全てを話していた。
「本当にすまなかった。昔のことは春海には関係ないことだ。それで春海に怖い思いをさせてしまって、本当に申し訳な――」
「柊人は、本当に私に怒ったわけじゃないの?」
「何故、俺が春海に怒るんだ」
「だって、勝手に柊人の嫌なころを織笠先輩から聞いちゃったから……」
李々香の言葉に、柊人はああっと軽い声を漏らした。そして、何時も通りの表情で、何時も通りの声を返す。
「少年団での出来事は確かに良いものじゃない。だけど、なんでそれを聞いたからといって春海に怒るんだ? 俺がシュートが決められない原因を見付けて、それを解決しようとしてくれたんだろ? 春海は俺に害を加えるつもりで聞いたわけじゃない。むしろ、俺のことを助けてくれようとした。そんな春海を怒るほど、俺は恩知らずじゃない」
その言葉に李々香はうろたえる。李々香が嫌われたと思ったのは勘違いで、柊人は少年団の時に怒ったことを思い出しただけだった。端からすれば、なんて紛らわしい。と思うことだったが、李々香は分かりやすく喜んだ。自分は柊人に嫌われたわけではなかったと。
そして李々香はもう一つ気になることを柊人に尋ねる。
「…………柊人は小路先輩を好きじゃないの?」
「…………ん? いや、幼馴染みとして頼りになる先輩として好きだけど?」
「そうじゃなくて! 女の子として!」
柊人は李々香の質問に首を傾げて戸惑う。李々香には全く関係のないことだと思っていたことを、李々香に確かめられた。何故だろう、と。しかし李々香にとっては切実な問題だ。
好きな人に好きな人が居ないからといって、自分を好きになってもらえるとは限らない。ただ、好きな人が居なければ、自分を好きになってもらえる可能性がある。可能性が全くないのと、可能性が少しでもあるのとでは、雲泥の差だ。これからに希望があるのかないのかを確かめる上で、それをはっきりさせるのは、李々香には重要なことだった。
「今は特にそういう意味では好きじゃないな」
「他には?」
「他に?」
「小路先輩以外に好きな人は居ないの?」
調子に乗った李々香は、昨日二人に起きたすれ違いとは、もう全く関係ない話に持って行く。しかし柊人は、何気無く答えた。
「居ないな」
「本当に?」
「居ないが」
「本当に本当?」
「居なって言ってるだろ。何だか今日の春海はめんどくさいぞ」
流石に疲れてそう柊人がため息を吐きながら口にすると、李々香は分かりやすく悲しそうな表情をする。
「め、めんどくさい……」
「なんでそこで春海が落ち込むんだ……わけが分からないぞ。とにかく俺には好きな人は居ないし、愛実姉のこともなんとも思ってない。それに春海のことを怒ってなんて居ない。全部分かったか?」
「う、うん」
柊人はそう言うと右手を差し出した。
「今日、学校に来る前に華那さんと約束してきたんだ。春海と仲直りをして握手をするって」
実際、二人は仲違いはしていない。二人は勘違いを、すれ違いをしていただけだ。でも、李々香はその手を握った。
「うん、これで全部元通り。だから今日も頑張ろう」
「ああ、春海が元通りになってくれると助かる。他の奴だと、パスが出し辛い」
「えっ? それって……」
「他の奴はまだ一緒に練習して日が浅いからな。どの程度のパスを出せば良いのか、春海ほど分かってない」
「そ、そうだよね! そういうことだと思った!」
李々香は苦笑いを浮かべ、ちょっと焦りを感じていた心を落ち着かせる。 手を握って向かい合う二人は、互いに元通りになったと思っている。でも、二人はもう元通りには戻れない。
向かい合う二人の距離は、確実に、元より近くなっている。