【一〇】
【一〇】
浮き球のボールを胸トラップで受けて反転する。そして、パスを出そうとした瞬間、柊人はキックフェイントをして相手を欺き、右足を軸足に切り替え左足で繰り出したラボーナで左トップの間宮にスルーパスを出す。間宮はそのボールを受けて抜けだし、ゴールを決めた。
「雪村って多彩だよ、な……って、おい、雪村」
間宮がゴールを決めた直後にミニゲーム終了のホイッスルが鳴る。後ろから駆け寄って声を掛けて来た一年を無視し、柊人はピッチの右前方へ歩いて行く。そしてトボトボと歩く李々香の腕を掴み、自分の方を向かせる。そして、李々香の表情を見て、柊人は李々香に一言言う。
「春海、今日この後、家に来い」
「「「なにィィイイ!?」」」
一年から悲鳴にも似たざわめきが起こり、二、三年からも驚いた声やら口笛やらが鳴る。しかし、一番驚いているのは李々香本人だった。
「えっ? う、家って、い、家!?」
「そうだ、家に来い。話がある」
自主練習終わり、柊人と一緒に帰る李々香は、隣を歩く柊人を見てすぐに視線を真正面に向ける。視線の先には街灯に照らされた夜道が真っ直ぐ延びている。
李々香は隣に居る柊人に悟られない様に、ソッと自分の胸に手を当てる。ジャージの上からも分かるくらい、李々香の胸は激しく鼓動していた。
友達の男の子の家に言ったことは、小学校の頃に何度もある。ゲームをしたりサッカーの試合を一緒に見たり、そんなことをしょっちゅうやっていた。でも、こんなに激しく胸が鼓動するのは初めてのことだった。
「春海、親に飯は要らないって連絡できるか? 家で食べていけ」
「で、でも、そんなことまで」
「いや、俺は話だけ終わればすぐ帰ってもらって良いんだが、母さんがな……」
柊人が酷く疲れた表情をして頭を抑えるのを見て、李々香は首を傾げる。しかし、頭から手を離した柊人は何時も通りの、ボーッとした表情に戻った。
「ちょっと、お母さんに電話してみるね」
李々香は鞄からスマートフォンを取り出して電話帳を起動し、自宅の番号を呼び出す。そして、数回コールした後、李々香の母親の声が聞こえた。
『もしもし李々香? 何かあっ――』
『李々香! 何があった! 大丈夫か!? 今どこに居る?』
電話から聞こえる隆輝の声に、李々香はスマートフォンを耳から離して顔をしかめる。隣に居る柊人に慌てて視線を向けるが、柊人は何も聞こえていない様子で前を向いて歩いていた。
「お兄ちゃん、うるさい。早くお母さんに替わって」
『もしもし? 李々香、どうしたの? 電話をするなんて珍しいわね』
「お母さん? あのね、ちょっと今から友達の家に寄るんだけど、その友達が夕飯をご馳走してくれるらしいの。だから、夕飯は要らな――」
『男の子!? ねえ李々香! 男の子のお家なのねっ!?』
『男の家だってッ!? ダメだ! 兄の俺が許さんッ! 今どこに居る!! すぐ迎えに――』
李々香は興奮する母親と隆輝を無視し、通話終了を押して電話を切ると、スマートフォンを鞄に仕舞う。そして李々香は柊人に話し掛ける。
「柊人、夕飯のことは大丈夫」
「……大丈夫、なのか? 春海コーチ、もの凄く怒鳴ってたが」
「大丈夫大丈夫、お兄ちゃんは放っておいて」
「いや、お母さんも何か――」
「だ、大丈夫だから!」
「そ、そうか」
真っ赤な顔をしてそう言う李々香に、それ以上何も言わず柊人は頷く。
柊人について第一中から一〇分程歩いた所にある愛実の実家である和菓子屋小路を通り過ぎ、路地を曲がった所にある和風の平屋の玄関前に柊人が立ち止まる。そして、隣に立つ李々香に柊人は真面目な目を向けて言った。
「とりあえず、俺の母親が何を言っても何も答えるな。全て俺が答える。いいな? 絶対に言葉は発するな。どうしても難しいなら愛想笑いを返せ」
「えっ? でも、挨拶くらいしないと」
「ダメだ」
「う、うん、分かった」
「じゃあ、入るぞ」
柊人は大きく息を吐き、玄関の引き戸を開けた。そして、柊人が玄関の扉を潜った瞬間、室内からドタドタと廊下に貼られた縁甲板の上を走る足音が聞こえたと思ったら、中から美人が現れた。
「柊ちゃんおかえり! うわー、お人形さんみたいに可愛い子だね! 柊ちゃんが女の子を家に連れてくるって言うからビックリしちゃったけど、こんなに可愛い子だったなんてもっとビックリした! さあさあ上がって上がって! もー、柊ちゃんが彼女を連れ込むなら、気を利かせて私は出掛けてればよかったわね! あっ! 早速準備しなきゃ!」
「か、彼女!?」
「気にするな。華那さんが勝手に言ってるだけだ。すまないな、気分を悪くして」
「い、いや、そんな! 気分を悪くなんて!」
華那が家の奥に入っていくのを見送って、柊人が李々香に謝る。李々香は両手を振りながら否定して、家の奥に視線を向けた。
「あ、あの……柊人、さっきの人は、柊人のお母さん?」
「ああ、ただ母さんって言うと怒るんだ。だから、華那さんって名前で呼んでる。だが、間違いなく俺の母親だ。あと歳は聞くな。生きてこの家から帰りたかったらな」
そう言って柊人が家の中に入り、李々香も続いて家の中に入る。お邪魔しますと挨拶をした後、李々香が脱いだ靴をしゃがんで並べていると、後ろから華那の声が聞こえる。
「柊ちゃん! どうしよう! 靴を並べてるよ! 育ちがいいよ! 柊ちゃんにはもったいないよ!」
「華那さんうるさい。ちょっとは落ち着いてくれ、恥ずかしい」
「だって! 靴を並べるしちゃんとお邪魔しますって言えるし! しかも純白だよ純白! 今時の女子中学生で真っ白のパンツなんて純情ちゃんじゃんッ!」
「バ、バカッ!」
李々香はとっさに自分のスカートを手で押さえ、顔を火が出るかという程に真っ赤にして振り返る。そして視線の先に、ニコニコと笑って李々香に手を振る華那と、頭を押さえて深いため息を吐く柊人が見えた。
柊人に居間まで案内されて、礼儀正しく用意された座布団の上に正座した李々香は、黒木目の長方形の座卓に視線を落とす。李々香は心の中で「柊人に見られた……」という言葉を、もう何十回も繰り返しては落ち込んでいた。
柊人の家の居間は広い和室で、ふすまが閉じられていて、庭に面した窓側は障子が閉められている。李々香は勝手なイメージで、柊人の家が洋風な二階建ての一軒家だと思っていた。だが、李々香が今居る柊人の家は昔ながらの平屋だった。
柊人は真正面に座り、李々香に視線を向ける。そして、逸らした。柊人もあんなことがあった後に、気の利いた話が出来るような人間ではない。むしろ会話を普通にするのも苦手な人間だ。
「はーい! お待たせお待たせ! 華那さん特製のオムライスだよ!」
さっと李々香の前に置かれた皿の上には、無駄な焦げ目が一切ない綺麗に焼かれた卵が被さったオムライス。そして、ニッと笑った華那は大きめのスプーンを手に取って、スプーンの横で、オムライスの端から端を滑るように切れ目を入れる。そして、李々香は思わず声を漏らした。
「す、すごい……」
華那が切り込みを入れた瞬間、完璧な半熟で焼かれた卵が開き、ふわりと卵から湯気が立ち昇る。
「フフフ、これこそ正しいオムライスの食べか――ああ! 柊ちゃん! ちゃんと卵に切り込み入れて食べてっていつも言ってるのに!」
李々香の正面で、普通に左端からスプーンを差して食べ始めた柊人に文句を付ける。その華那に柊人は疲れた視線を返した。
「どんな食べ方しても同じだろ。華那さんの料理はどんな食べ方しても美味いし」
「ああんもう! 柊ちゃんって可愛い!」
よしよしと柊人を撫でようとする華那の手を柊人が体を逸らして避ける。それに両頬を膨らませて不満そうな顔をするが、すぐに李々香へ笑顔を向けた。
「李々香ちゃんも食べて食べて!」
「は、はい。いただきます」
李々香もスプーンを入れて卵と中のケチャップライスを救う。そして口の中に入れて頬張ると、ふわっと柔らかい卵の甘みの後に、ケチャップの強くしつこくない程よい酸味が口に広がり、李々香は素直な声を出した。
「美味しい」
今まで食べたことのないオムライス。まるで洋食店で出てくるような、そんな上品な味がした。
横でニコニコしながら座っている華那に眺められながら、柊人と李々香は黙々とオムライスを食べる。その沈黙を破ったのは、華那だった。
「ねえねえ柊ちゃん、こんな可愛い女の子、どうやって騙して来たの?」
「華那さん、騙して来たっていうのは――」
「だって、李々香ちゃんみたいな可愛い女の子が、こんな無愛想な柊ちゃんにホイホイ付いて来るわけないじゃん! ひまわりの種でも使ったの?」
「華那さん、春海に謝れ。春海はハムスターじゃない」
「でもでも、チマチマモグモグ食べるところ、ハムスターみたいで可愛いよー」
李々香はスプーンの動きを止めて顔を赤くして俯く。柊人は李々香に視線を向けて声を掛ける。
「春海、気にせず食べろ。華那さんもあまり春海をからかうな」
「だって、柊ちゃんが女の子を連れ込んだのって、愛実ちゃん以来じゃん!」
「華那さん、言い方。春海には話があって来てもらっただけだ」
オムライスを食べ終わった。柊人はお茶を飲みフッと息を吐く。慌てて食べようと、スプーンの動きを早めようとした李々香に柊人が声を掛ける。
「焦らなくていい。ゆっくり食べろ」
「う、うん。ありがとう」
その柊人と李々香のやり取りを見ていた華那は、ニターっと笑って柊人の腕を突く。
「柊ちゃん、優しー!」
華那のからかいを無言でかわす。そんな柊人に笑顔を向けた華那は、ハッと思い出したように両手を合わせる。
「そうだ! 愛実ちゃんの所からお饅頭をもらってるんだった! 柊ちゃん、台所の戸棚に入ってるから取ってきてー」
「はいはい」
立ち上がって柊人が居間を出て行くのを見送った華那は、サッと李々香の隣に並んで距離を詰める。李々香は緊張した様子でスプーンを止め、華那に視線を向けた。
「ねえねえ李々香ちゃん。柊ちゃんって、モテないでしょ?」
「は、はい?」
華那が突然言った言葉に、李々香は素っ頓狂な声を上げる。華那は台所の方をチラリと確認し、声を潜めて李々香に話を続ける。
「中学生になったから、彼女の一人や二人くらい出来るかなって思ってたんだけど、いつもサッカーの練習ばっかりで、彼女出来た? って聞いても無視されるから、可愛い女の子居ないの? って聞いたら、うるさいって言われるし。だから、あんな無愛想にしてたら女の子にモテないんじゃないかって。せっかく見かけはそこそこ良くてサッカーも上手いのに、女の子に優しく出来な――」
「柊人は! あっ……ゆ、雪村くんは優しい人です」
「へぇー、名前で呼び捨てかぁー」
ニヤーっと人の悪い笑みを浮かべた華那に、李々香は顔を真っ赤にして縮こまる。そんな李々香に、華那は台所の方を見ながら呟いた。
「小学生の時ね。ちょっとサッカーチームでトラブルがあったらしくて、それから柊ちゃんあんまり笑わなくなったんだ。なんていうの? ニコリとはするけど、心の底から笑わない感じ?」
「えっと、雪村くんのお母さんはそのトラブルは?」
「あっ、私のことは華那さんって呼んでね! トラブルのことは……柊ちゃん、話そうとしないから」
その悲しそうな、辛そうな表情を見て、李々香は心の奥がズキッと痛む。
柊人の実の母親である華那にも言っていないことを、李々香は柊人に黙って竜也から聞き出した。その罪悪感に押し潰されそうになる。しかし、親しいからこそ言えないこと、言いたく無いことも世の中にはある。
柊人は、トラブルについて話せば華那が心配するだろうと思い。それを言わなかった、言えなかった。でも、柊人の考えがどうであれ、李々香の罪悪感が消えることはない。
「あっ、そうだ! 李々香ちゃんにお礼を言わなきゃ」
「お、お礼? ですか?」
何もした覚えのない、それどころか柊人を傷付けるようなことをしたと思っている李々香は、また間抜けな声を上げて首を傾げる。華那はニッコリと柔らかい笑顔を浮かべて言った。
「柊ちゃん嬉しそうだったから! 李々香ちゃんの真っ白パンツ!」
居間に戻って来た柊人は、オムライスを食べ終え、顔を真っ赤にした状態で俯く李々香を見て、すぐに華那へ視線を向けた。
「華那さん、春海に何言ったんだ」
「えー? 柊ちゃんと仲良くしてくれてありがとーって。後はこれからも仲良くしてあげてねって」
「…………ほら、饅頭。春海と俺の分は部屋で食べる」
「ほほー、早速部屋に連れ込んで――」
「春海、付いて来てくれ。ここに居ると落ち着いて話が出来ない」
柊人に付いて居間を出ると、縁甲板の廊下を進み突き当りにある和室に入った。
「すごい……」
李々香は柊人の部屋に入った瞬間、部屋にところ狭しと並べられているサッカー関連の本やDVDに目を奪われる。
「とりあえず座ってくれ」
柊人が小さなちゃぶ台の上に饅頭とお茶を置き、饅頭を一つ手に取る。そして、李々香もその向かいに座って饅頭を手に取った。
二人は黙って饅頭を食べ始め、饅頭を食べ終えるまで一言も言葉を発しなかった。そして、お茶を一口飲んだ柊人が口を開いた。
「何があった」
「えっ?」
「何かあったのか?」
柊人の問に、李々香はすぐ答えられなかった。そんな李々香を見て、柊人は両腕を組む。
「今日の動き、全体的に精彩を欠いてた。ファーストタッチもランウィズザボールもおざなり、それに春海の強みだったスピードのあるドリブルも、今日は影も形もなかった。何があった、櫻井先輩と何かまた揉めたのか?」
「さ、櫻井先輩とはもう何もない! あれっきり、挨拶くらいしかしてないし!」
「じゃあ、なんでプレイがあんなに上の空だったんだ」
ミニゲーム中、柊人は李々香に出せる場面で李々香に出さず、左の間宮へ出す場面があった。あれは、李々香のプレイが上の空だったからだ。
柊人に問い詰められた李々香は、押し黙るしかなかった。
柊人の過去を聞いて、李々香は何も出来ないと思ってしまった。中一の李々香には、柊人が積み重ねてきた悩みや辛さは、重過ぎたのだ。李々香がどんなに言葉を尽くして励ましても、柊人の抱えているものを消し去る自信がなかった。竜也や他の誰しもが分からなかった通り、李々香にも柊人を救い出せる方法が分からなかった。ただいたずらに、柊人の辛い過去を蒸し返しただけだった。
「……誰なら話せる」
「えっ?」
「俺に話せないことなら、他に誰に話せるか聞いてるんだ」
「大丈夫、何でも無いから」
「大丈夫じゃない。プレイに支障が出てる。……昼休みに愛実姉と織笠先輩から何を聞いた」
李々香は驚いた顔をして、深くうなだれた。柊人に知られていた。柊人に隠れて、柊人に黙って、柊人の辛い過去を勝手に蒸し返したことを。そして、もう言い逃れは出来ない。
「ごめんなさい柊人。私……柊人が、ゴールを決められなくなった理由が、トラウマじゃないかってお兄ちゃんに聞いて、それで小路先輩に昔、柊人に何があったのか聞きに行ったの。でも小路先輩も分からなくて、そしたら……織笠先輩を紹介してくれて……」
「そうか、それで?」
「柊人が昔入ってたチームでトップ下をやるためにすごく努力して、すごく活躍して、それでもトップ下にしてもらうために頑張って……でも、シュートをたった一本外した時にそれを責られて、それから……シュートが決まらなくなったって。それが原因じゃないかって」
李々香の話を聞いた柊人は驚いた顔も怒った顔もせず、何時も通りの顔で言う。
「織笠先輩の言う通り、俺もそれが原因だと思っている」
「えっ? 気付いてたの?」
李々香の戸惑いに柊人は怪訝な表情を浮かべた。
「俺のことだ。俺に分からなくて誰に分かる。シュートが決まらなくなった時期も自分が一番分かっているし、その時にあったことを思い出せば、自ずと原因は分かってくる」
「じゃあ……」
李々香の表情に僅かな希望が浮かぶ。しかしその希望を、柊人の軽い言葉が打ち消した。
「原因は分かるが、どうすれば良いかは分からない」
トラウマ、心的外傷の治療法はある。しかし、柊人は自分のトラウマを深刻に考えていなかった。
シュートが決まらないのは、サッカーをプレイする上でかなりのハンデになる。だが、シュートが決まらないからと言って、日常生活が送れないということにはならない。だから、柊人は治療してまで治そうとは考えていない。
でも、深刻に考えていないと言っても、治療が必要だとまでは思っていないだけで、このままで良いとは思っていない。サッカーをする上ではやはり、大きなハンデだからだ。
「シュートが全く決まらなくなったわけじゃない。実際に、全日本の決勝では一点取ってる」
「あと、織笠先輩の卒団の時にもって……しゅう……と?」
李々香が何気無く言った言葉、その言葉を聞いた柊人の目から、色が、輝きが消えた。
「そんなことまで言ったのか、織笠先輩は」
トラウマのことを勝手に聞いても驚いたり怒ったりしなかった柊人が、李々香の言葉に明らかな怒りを見せた。でもそれは燃え上がるような激しい怒りではなく、ジリジリと静かにくすぶる落ち着いた怒りだった。
「ごめっ……ごめんね……」
柊人の怒りに、李々香は背中に寒い恐れと後悔と悲しみを感じ、それに押し出されるように涙を溢れさせた。
柊人を怒らせてしまった。柊人を嫌がらせてしまった。柊人に、嫌われてしまった。ワッと押し寄せるそんな感情に耐え切れず、李々香は鞄を持って立ち上がる。
「ごちそうさまでした。私……帰るから」
何とか落ち掛けた気持ちを辛うじて引っ掛けてそう頭を下げると、李々香は部屋を飛び出した。
本当は走って逃げ出したい気持ちを抑え、出来るだけ早く柊人の家から出ようとした。しかし、目の前に人影が立つ。
「李々香ちゃんもう帰るの? 柊ちゃんに送らせ――」
柔らかい笑顔で李々香に話し掛けた華那は、李々香の表情を見て笑顔を消した。その、笑顔が消えた後の表情は、柊人に感じたものより何倍も濃い冷たい怒りがあった。
「柊人ッ!! 今すぐ来なさいッ!」
耳をつんざくような怒鳴り声を上げた華那は、部屋から柊人が出てこないのを見ると、李々香の腕を掴んだまま柊人の部屋に行く。華那と李々香が部屋の扉の前に立つと、中から柊人が出て来た。そして華那は、その柊人の胸倉を掴んで廊下に投げ飛ばした。
「イッテッ!」
大きな音を立てて廊下の壁に背中から倒れる柊人は、壁に打ち付けた後頭部を押さえて縁甲板の上で呻く。しかし、華那はその柊人の胸倉を掴み上げて無理矢理立たせ、柊人の体を壁に押し付けて睨み上げた。
「柊人、李々香ちゃんに何したの」
「何もし――」
「何もしてなかったら李々香ちゃんが泣くわけないでしょうがッ!」
再び華那は、胸倉を掴んだまま柊人を引き倒す。受け身をとった柊人は呻き声は上げず、廊下に尻餅をついたまま華那を見上げた。
「女の子にモテないのも無愛想なのも仕方が無いわ。でも、女の子を泣かせるような男に育てた覚えはないッ! どんな理由があっても、女の子泣かせた時点で柊人が悪いのよ! 今すぐ謝れこのバカ息子がッ!」
柊人は華那に左肩を踏み蹴りされて後ろに倒れ込む。そして左肩を押さえながら起き上がった柊人は、李々香に頭を下げる。
「春海、すまな――」
「正座しろ」
柊人は華那に言われ廊下に正座する。
「本当に、すま――」
「おでこを床に付けて謝れ」
柔らかい印象とは激変した華那は、頭を下げる柊人の後頭部に右足を載せ、上から踏み付けて廊下の縁甲板に柊人の額をつけさせる。
「華那さん、大丈夫ですから! もう、大丈夫ですから!」
柊人が華那に頭を踏まれて謝っている姿を見て、華那の腕を揺すって止める。華那はその必死な李々香の様子を見て、柊人の頭から右足を退けた。
そして、柊人の前にしゃがみ込み、柊人の髪を掴んで無理矢理頭を上げさせる。
「良かったわね、李々香ちゃんが優しい子で」
手を離した華那は、李々香に顔を向け、元通りの柔らかい笑顔を浮かべる。
「こんなバカ息子に任せておけない。私がお家まで送ってあげる」
「えっ、あの……お気遣いな――」
「ダメよー、こーんな可愛い女の子を一人で帰らせるなんて出来ないわ」
華那は李々香の手を引いて、ニッと微笑んだ。