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前編

(きたな)きかな。(いやし)きかな。(いずくに)ぞ口より(たぐ)れる物を以ちて、()えて我を養うべきか!!」


 激しい怒りを向けられ、驚き戸惑う私をよそに、冷たい感覚が肩からお腹にかけて伝う。……続いて燃えるような熱。胸元に手を当てると、ぬるりとした感触を覚える。呆けた様にその手を見れば、赤い、赤く染まった、手のひら?


――斬られた。


 そう理解したのは自分の作った血溜りに突っ伏した後だった。


――え、あ…… いた、い?痛い……痛い痛い痛い!!?


 あまりの激痛に地面を転がり悶えて叫びたくなるも、身体は動かず、口から洩れるのは「ヒュ……カヒュ……」という空気が抜けるような音だけ。辛うじて救いを求める様に伸ばした手の先に居るのは、こちらをまるでゴミを見るかの様に見下ろし、その端正な顔を嫌悪感と憎悪に歪ませた眉目秀麗な男。救いを求めるには端から相手が違ったとしか言いようがなかった。何せ私を斬ったのは、目の前のその男なんだから。武芸の心得など欠片もなく、その切っ先が振るわれた事すら気付けなかったけど、滴り落ちる鮮血に濡れた刀が何よりも其れを物語っている。


――たす、けて……


 全身の喪失感が寒気となって身体の芯から震える、視界がぼやけて焦点が定まらない、耳鳴りが酷くて絞り出した自分の声すら聞こえない。それらの全てが私のその後を如実に教えてくれる。嫌だ、理解したくない、分かりたくない、こんなの嫌、……死ぬなんて、いや。

 私の願いと裏腹に失血は止まらず、眩む視界でも分かるほど、致命的な量で床を紅く、赤く汚していく。



 最後に感じたのは、肺に溜まった血が“食物となって”吐き出される感覚だった。





◆◇◆◇◆◇





――“森”とは神域である――


 森は現世と常世の境界であり、端境であり、結界だ。神道においては鎮守の森は神木や霊石に並ぶ依り代であり、そういった場合、その地は例外なく禁足地となる。だからこそここに踏み入るものは大体において不埒者か訳在り者であって、関わると碌でもないものである事が殆どである。……つまりはコレもそういったもので。


「あぁー、()なもん見つけてもうた」


 金色髪と改造された巫女服の様な異様な装いの少女は、誰も聞くわけでもない、むしろ聞かれたら困る、不謹慎だと怒られるであろう独り言を呟く。ここ数か月は人と会うことも無かったせいで増えた独り言は自分でも虚しいと思うが、人間声を出さなければ喋れなくなるらしいし、仕方ないのだと割り切っている。


「なぁ、お兄さん、生きとる?」


 ツンツン、とソレをつつく。

 ソレとは横たわっている人間。或いは人間だったもの、のどちらか。


 最悪なのは腐乱死体の場合だ。見た目的にも害獣を呼び寄せるという危機的にも最悪のパターン。

 次点で完全に健康的な人間の場合。そもそも少女が人と会わないのはそもそも追われている身であるからであって、姿を見られたのならまた遠くへ雲隠れしなくてはいけなくなる。

 逆に最善の場合は、死んで間もない死体。すぐに埋葬するならば、気分的にも身の安全的にもベストの状況だが……


「3番目に悪いパターンや……」


 それは、辛うじて息がある場合。

 うつ伏せになった男の肩を持ち、えいっと仰向けに起こしてやれば、気絶しているのか抵抗も無くゴロンと転がる。そして幸か不幸かその胸は軽く上下しており、弱弱しくも確かに呼吸を刻んでいた。

 そこで男の顔を初めてまじまじと見る。短く乱雑に切られた黒髪と、彫が深く目鼻の整った顔はワイルドな魅力があり、確かにイケメンではあるけど、女性より男性に好まれそうなイケメンだ。“寡黙”の文字を刻み付けたような顔もそのような印象を受ける一因となっている。

 素袴は泥に塗れているけど素材自体はそれなりに良いものを使っているように見え、腰に下げた刀と脇差は鞘に装飾が施されている辺り割と裕福な暮らしをしている様だ。

 


 ただ、その端正な顔つきも、顔がむくみ、目の周りは窪み、皮膚に張りは無く、唇や頬はささむけている。

 一見すると病人、性質(タチ)の悪い疫病患者にすら見えただろう。けど、少女はその症状に覚えがあった。


「栄養失調、やなぁ」


 栄養失調――特に身体を動かし、形成する源が欠乏する『タンパク・エネルギー栄養失調』と呼ばれる症状。人間は体を動かすエネルギーが不足すると、肝臓から、そして次に皮下脂肪から脂肪分をエネルギーとして使っていく。人間が水さえあれば数か月生き残れると言われる所以。勿論それが尽きれば……


――飢えて、死ぬ。


 自分の身の上の事と状況を考えるなら、最善の選択肢は見捨てる事。もしこの男が少女を探して彷徨い、そして迷った果てなのだとしたら、回復した瞬間彼女は殺されるかもしれない。それでなくても回復した後誰かに少女の事を話せば、追手が差し向けられるかもしれない。

 (でも、まぁ……)と心の中で呟き。


「……見捨てるんは、目覚め悪いし」


 自分ながら甘いとは思いつつも、武器を取り上げて口封じをしておけば大丈夫だろうと考え、男の腕を肩に回しやや引きずるようにしながら少女は隠れ屋に向かって歩みだした。その肩にかかる重さは、身長が頭一つ以上大きい男だったけど、やけに軽く感じたのは気のせいではないと思いながら。


 隠れ屋に着いた少女は、まずは男を自分の布団(と言っても枯れ草の上に布を敷いただけのものだけど)に寝かせ、薪に火を点ける。種火から火を受け取り、パチパチと赤い炎を抱く、石と粘土で作られた手作りかまどは少女の自信作だ。食べるものに困らない少女にとってこの土地自体には全く愛着が無いと言え、棄てられた山小屋の中に作ったこの手作りかまどと手作り囲炉裏は愛着がある。(命には変えられへんけど、出来れば手放しとうないなぁ)等としょうも無いことを考えている内に、火は十分な大きさになったようだ。

 ちゃちゃっと軽快な音を鳴らしながら米を研ぐと、普段の10倍の水を入れて火にかける。


「勿体ないからウチの分もお粥やとして、後は作り置きの味噌汁とお浸しと…… 何にしようかな~」


 数分程悩んだ少女は、焼き魚にでもしようと決め、“新鮮な”鮎を一匹取り出す。

 鮎は粗塩で洗ってぬめりを、そしてフンとウロコを取り、串を刺してまんべんなく塩を振る。美味しく作るポイントはここで数分待ち、塩気を吸い込んだ身が出した水分を一度しっかりふき取る事。そしてもう一度塩を振り、火にかける。強火で炙られた鮎の表面に白い塩が薄く浮き上がり、いい香りが漂ってくる。


 あとは作り置きの味噌汁を温めながら鮎を焦がさない様に注意して、おかゆが炊ければ完成となる。


「~~♪」


 時刻の頃は大体昼過ぎ。時計なんて利便な文明の利器は無く、太陽の高さとお腹の時計が唯一時間を知る手段。特に娯楽の無い森の中、少女にとって僅かな楽しみの一つである食事だ。その時間を心待ちに思わず好きな曲を鼻歌を唄いながら、完成の時間を心待ちにしていた。








「う……?ぐ……」


 その鼻歌と、何かがグツグツと煮える音、焼ける匂い、それが食べ物の匂いであると無意識に気付き、男は本能的に意識を取り戻す。衰弱し切った身体は呻き声を上げることすら叶わず、掠れた声が僅かに出る。


「あ、起きた?」


 モゾモゾと動き始めた男の様子に気付いて呼びかけられた声に、男は初めて他者の存在を認識する。


――そこに居たのは少女だ。歳の頃は10台後半か、あどけなさと艶やかさを兼ね持った美少女、いや美女と言うべきか。鮮やかな黄金色のプラチナブロンドは腰まで長く、その毛先を無造作に纏めている。目鼻の通った顔立ちと、切れ目な目元はキツい印象をあたえかねないが、爛漫とした表情がそのような印象を打ち消している。

 目に付くのはそれだけではない。頭頂部には美しい髪と同色の、“天に向く三角の耳”、背面――恐らくは尾てい部から伸びる、同じ美しい“金毛の尾”。

 妖怪、恐らくは化け狐の類の少女だった。


 だが、男は目の前の美少女よりも、今は猛烈に別のものに惹かれていた。


「食い、もの……」


 掠れた喉で辛うじて、そして何週間か振りの意味のある単語を口にする。

 男の鼻腔をくすぐるのは、香ばしい魚の焼ける匂い、上質な味噌の香り、米の炊ける香り……

 それらの匂いに釣られ、今にも這い出して来そうな男を金毛の少女は制する。


「アカンて、これはウチの。自分そないな状態でこんなん食べたら、消化出来ずに胃壊すで」

「…………」

「恨めしそうな顔で見てもアカンもんはアカン。目が窪んでる上に澱んでるから怖いし。自分のは、こっち」

「……湯……?」

重湯(おもゆ)や」


 重湯、とは多量の水で良く炊いた粥のその上澄み水の事である。古くから病人食、そして離乳食などに用いられてきた伝統的な流動食で、その主成分は水分と糊状のデンプンだ。消化がとても良く、水分と糖分を効率よく補給でき、男の様な絶食状態のものでも障害なく栄養素を吸収できるという点で、病人食としてはかなり優れている食べ物だ。

 味の方は…… 推して知るべしであるが。


「ほら、食べ。多少冷ましとるけどゆっくりな?」

「…………あま、い」

「フフッ、そこまで断食しとると重湯でも甘く感じるんや」


 自身で起こすこともままならない男の身体を、少女は支えながら起こし、重湯を匙で掬って男の口へ運ぶ。訝しげにしていた男だが、それを口にすると僅かに目を見開いて、掠れた喉で呟き、味については好意的な感想をもらえるとは思っていなかった少女は、それが少し意外だと笑う。

 数日ぶりの食事だ。男は渡された匙で重湯を掬い、黙々と一心不乱にその口に運ぶ。喉を通るぬるく粘性のある湯は今まで味わったどの甘露よりも甘く、美味に感じられた。


 器に注がれた重湯を殆ど飲み尽くした男は、そこで初めて妖狐の少女と向き合う。

 “妖狐”、“化け狐”、“狐仙”。人間や他の動物に変化し、人を化かす狐の妖怪。力の強いものでは“傾国の”と呼ばれる、その名の通り国を滅ぼす程の力を持った個体すら居る(あやかし)の一つだ。

 どの様な気まぐれをもって自分を助けたのかが、分からない。元来、(あやかし)とは人の恐怖、憎悪をもとに生まれていると言われ、その行動原理の多くは人に害を為すものであって、出会ったならばすぐさま逃げるか、或いは駆除しなければならない。


(斬る、か?いや、斬れるか?)


 体力の欠片も残っていない、果実の絞りカスの様な身体では、戦っても勝つ事が出来るのだろうか。(あやかし)の強さは見た目では判断できない。かの鬼、“酒呑童子(しゅてんどうじ)”は(わらし)姿形(ナリ)で山を削る程の怪力を見せるという。この(あやかし)もまた、少女の様な姿でどのような膂力、妖力、神通力を持っているか図ることが出来ない。

 男は少女の出方を探ろうとして――気付く。化外の少女の表情に浮かんでいる感情が、期待と警戒と……恐怖であることを。助けた筈の少女が何よりも男を恐れているのだ。その怯える顔は庇護欲と嗜虐心を同時にくすぐる様な蠱惑的な貌だった。


「妖狐……ここは?」


 男は喉元まで込みあがった感情を無理やり飲み込みながら少女に問う。掠れた声は重湯を口にする前よりはるかに潤い、言葉を発することが出来る様になっていたが、それでも長い単語を続けて口にするのは困難であった。


「……ウチの隠れ屋や。自分こそ、なんであんなところで飢え死にしかかっとったん?」

「任務、だ。尤も、失敗、だが」

「あら、そら残念やなぁ」


 慰める様な声色の少女。心底残念そうな表情に、先ほどまでの恐怖は薄らいでいる。恐怖が薄らいだのは、男の任務が失敗したことを憐れむのを優先したのか、あるいは話が通じる相手だと思ったのか、どちらにせよ警戒心が薄すぎると男は思考する。まるで箱入り娘かの様な不用心さだと。だが、その警戒心の薄さは男からも警戒の気持ちを薄れさせていた。


「……妖狐」

伏見(ふしみ) 稲荷(いなり)、それがウチの名前や。妖狐なんて名前ちゃう」

「……天熊(あめくま)景久(かげひさ)だ」


 男が、再び『妖狐』と呼んだ瞬間、次の言葉を紡ぐ前に割り込むようにして稲荷が名乗る。その表情は拗ねた童女のような、表情(かお)

 (あぁ、この娘は本当に……)

 ただ、純粋に自分を善意で助けてくれたのだと確信し――


「よろしゅうな?」

「あぁ……」


 そう言葉を切り、何と言葉を紡ぐか考える。

 「何が目的だ?」「何故俺を助けた?」「何を企んでいる?」

 分からない事、問い詰めたい事はいくらでもある。(あやかし)が人を助けるなど聞いたことが無い。

 だが、今言うべきことは一つだけだった。


「伏見……」

「稲荷でええで」

「稲荷、礼を言う。……美味(うま)かった」


 その言葉を聞いた稲荷は一瞬きょとんと呆けた後、ニカリと笑う。その笑顔は華が咲いたと称するに値する程朗らかで、爛漫な、心底嬉しそうな笑み。


「お粗末様でした」


 その笑顔があまりに眩しくて、美しくて、朱に染まりそうになるかんばせを隠す為に、景久は思わず目を伏せるしかなかった。



 ……そして、ふとその“匂い”に気付く。何かがくすぶり、炭になる臭い。鼻を突くその香りだけで苦みを感じてしまいそうなそれは。


「……焦げ、くさい」

「えっ、あっ、ああああ!!?ウチのご飯ッ!!」


 景久の言葉でその原因に思い当り、勢いよく振り返った稲荷の目にしたものは、黒い煙を纏った鮎と、ゴポゴポと煮沸する味噌汁だった。涙目になりながら慌てて火から遠ざけるものの、鮎は炭と呼んでも差し支えないであろう程に焼け焦げ、沸騰し続けた味噌汁からは味噌の風味は完全に失われていた……

 これが稲荷と景久の、“贄姫”と“一刀斎”の出会いだった。




◆◇◆◇◆




 彼らが出会ってから、一週間程経った。

 起き上がる事すらままならなかった景久だが、今ではあたりを走り回ったり力仕事をかって出る程には回復していた。最初は重湯しか食べる事の出来なかった身体も、五分粥、三分粥と固形に近づき、味噌汁や茹でた野菜程度のものを難なく食べることが出来るようになっていた。


「大分良うなってきたみたいやし、そろそろ粥じゃなくても大丈夫やな」

「粥以外にも口にしてよいのか?」

「嬉しそうやね?」

「ぐっ……」


 普段は口数が少ない景久の、笑顔すら見せそうな声色に、稲荷は驚きを含ませて意外そうに問う。景久は自分の柄にもなく、そしてはしたない行動だったと言葉を詰まらせる。だが、食欲には勝てないのかしばらく逡巡を見せた後、渋々といった風に言い訳を言う。


「……俺も、腹は減る。稲荷の料理は、美味いのでな」

「クス、ウチが食べとるのいつも羨ましそうに見てたもんなぁ」


 稲荷はその姿を見ていたずら娘のように笑う。言葉には出さないが、それは馬鹿にするというよりもニヤけ笑いを噛み殺す為と言った意味合いが強い。稲荷は料理をするのが好きだ。勿論自分が食べること自体も好きだが、料理を作り、そして誰かに食べてもらい「美味しい」と言ってもらえるのが、何よりも好きなのだ。正面から「お前の料理は美味しい」と言われると、照れる。しかし、上機嫌になった稲荷は、折角の病人食からの復帰祝いだと、何か景久の好物でも作ってあげようと思い至る。


「リクエスト、受け付けるで?」

「りく……?すまぬ、今なんと?」

「あ、あぁ、かんにんな。言い間違えたわ。えーと、献立の希望はある?」


 聞きなれぬ響きの言葉に景久は訝しげに問うと、稲荷は少しだけ焦った様子を見せながらも言いなおす。追及を恐れる様子に景久は一つため息をついてこれ以上問うことを諦め、食べたいものを思い浮かべる。


「あぁ、そうだな…… 肉が、食いたい」


 そうは言っても料理など全く手を手を付けた事の無い身、まともな料理名すら思い浮かばない。献立の希望としてはあまりに曖昧で大雑把な返答に、稲荷は僅かに頬を引きつらせる。


「うわぁ、めっちゃアバウト……」

「あば……?」

「……気にせんといて。せやなぁ、鍋とかどやろ?」

「任せる。料理など、焼くと煮るしか知らぬ」

「うわぁ…… まぁええわ、作ってくるからちょっと待っといてな」


 そう言って稲荷はその大きな尻尾を機嫌よく揺らしながら台所へと入っていく。

 稲荷は料理をしている姿を、景久に見せる事は無い。「台所は女の戦場や」と言っていつも景久を追い出していたからだ。一度、「何か手伝うことは無いか?」と様子を見に行った時、何故か涙目になりながら怒られて以来、景久もわざわざ様子を見に行くという事も無かった。料理が出来るまでは半刻、或いは一刻か。ただ座して待つには長すぎる時間に、景久は何をするかと少しばかり思案し、そして自身の片割れともいえる刀を手にした。


 隠れ屋から出て庭先へ歩を進めた景久は、腰に提げた刀をゆっくりと抜く。鞘を金属が走る音が森のざわめきに混じる。

 そして、流れるような動きで抜身の刀を正中に構える、ただそれだけで周囲の空気がピリピリと張りつめたものになり…… ――ヒュッ、という鋭く風を斬る音と共に、刀が振り下ろされる。

 ――素振り稽古。剣の修行では最も単純で、基礎的な稽古だ。だが、基礎であるからこそ重要である。体幹の固定、柄の握り、力の籠め方、重心の移動、それら総てを身体に染み込ませる。あの数日の飢餓状態は、景久から確かな筋力と勘を奪っていた。

 その後も無心で剣を振る。身体にあの感覚を再び染み込ませるように、全身にだけ意識を回し、それが無意識に出来るようになるまで、何度も、何度も……


「あれ、かげひさー?料理出来たでー!」

「む、すぐに行く」


 時間と周囲の感覚は消え去り、感じるのは自分の身体と刀の感触のみとなった状態の景久の耳に、稲荷の大きな声が届く。料理は既に完成しているようで、どうやらかなりの時間、剣を振っていたらしい。

 景久は再び隠れ屋の扉を開いた瞬間、思わず呟く。


「おぉ、これは」

「すき焼きや。割り下もばっちりやし自信作」


 囲炉裏の火にくべられていたのは二人分としては十分の鉄鍋。コトコトと出汁の煮える音を奏でる黒蜜の様な黒い汁。醤油と甘い砂糖の中で、肉が煮え立つ香りは、それだけで如何にも食欲をそそるものだった。肉だけではない。瑞々しいネギ白菜春菊人参に、形の整っ焼きた豆腐、十字に切られた椎茸、つるんとしたしらたき、そのどれもが見るからに美味だと主張してくる。

 昆布出汁で伸ばしたはずの割り下は、それでもなお甘辛く、たっぷりの溶き卵に潜らせて口に運べば、なんとも塩梅がよくなる。薄切りの肉にはほどよく脂がのっており、噛みしめるまでもなく口の中で蕩けるような柔らかさだ。しゃきしゃきとした春菊のほろ苦さが、絶妙なアクセントとなっている。


「……美味い」

「良かった!ウチも食べよ。……うん、ええ感じや」


 景久の反応を満足げに確認した稲荷は、自分の箸も伸ばし、その味を堪能する。頬に手を当てて満足そうに微笑む姿に、景久は見とれそうになる。


「やっぱ鍋は何人かでつつかんとなぁ」


 「ひとりで鍋は寂しいわ」と呟きながら、今までの鍋の事を思い出した稲荷の目は、遠い先を見据えて若干濁っていた。

 その後も会話と箸は進み、鍋の半分が減った頃……


「何故、俺を助けた?」


 景久はまるで何事でも無いかのように、世間話のついでとばかりに問う。いつか聞かれるだろうと心の片隅で構えていた稲荷も、余りの自然さとまさかこのタイミングでと言う不意打ちに、思わず言葉を失って固まる。

 どう返すか悩んだものの、特段気まぐれとしか言いようのない理由だった為に少々言葉を濁らせる。


「なんや、助かりとうなかったん?」

「……そうではない。(あやかし)が、妖狐が人を助けるなど、聞いたことが無かっただけだ」

「え、ウチ以外、“善狐(ぜんこ)”っておらへんの?」

「その善狐が、善良な妖狐を指す言葉なら、聞いたことは無い」

「そんなぁ…… どうりでウチの事見た人みんな怯えるか、襲ってくるわけや」


 稲荷の金色の耳と尾が、見るからに力を失ったかのように垂れる。その表情も分かりやすく落ち込みさびしそうなものとなる。景久が妖狐である稲荷の事を信用した理由の一つはこれだ。彼女は、とてもその表情が分かり易い。端正なかんばせに浮かぶ表情もだが、その狐の様な大きな耳と尻尾も感情を表現している。人を騙す事が信条とばかりの妖狐の中で、その分かり易さと嘘の拙さは異端と言える。


(あやかし)とはそういうものだろう」

「えっ、じゃあもしかして、自分、自由に動き回れとったらウチ、殺されとった?」


 以前、死に体の景久を見つけた時、最悪なのが『腐乱死体』、次点で『健常な人』と思い浮かべた稲荷だったが、その考えが間違いだったのではと思い当たる。そこまで妖怪が恨まれ、恐れられているものなのだとしたら、話をするまでもなく、相対した時点で斬り殺されていた可能性があるのではないか?そう景久に聞くと……


「…………」

「ちょっ、答ぇや!」


 無言の肯定。しかも目を逸らすオマケつき。


「まぁ、斬ってたな」

「理不尽や…… 次あったら見殺そ……」


 観念したかのように答える景久の言葉は、稲荷が想像した結末と全く相違がないものだった。

 ぶつぶつと不穏な言葉を呟く稲荷の姿に、景久はふと一つの懸念が脳裏に浮かぶ。


「……此処はそれを知る前に出会えた、己の幸運を喜ぶべきか?」


 仮に、稲荷がその事を知っていたのならば、彼女は景久を助けただろうか?短い付き合いだが、彼女にそこまでの善性と愚鈍さがあるとは思えず、景久は問う。

 ……稲荷からの返事は無かった。





◆◇◆◇◆◇





 それまでの日々は平穏と呼べる程穏やかなものだった。“この世界に生れ落ちてから”まともに人と話した事が無かった稲荷にとって、口数が少なくとも話し相手であり、害獣を軽々と追い払う腕を持った景久の存在は有難く、景久にとっても命を救われたという多大な恩と、独り身ではありつく事が無かった美味な食の数々は有難かった。

 互いに好意、とはまだ言えない。だが、少なからず気にはなっているという曖昧な空気は、いずれ恋と呼ばれるものに至っただろう。

 ……この、平穏な日々が続いてさえいれば。


 これはそんなある日の事。


「……ぇ?」

「ぬ……」


 ――時が止まった。少なくとも、二人の認識では。

 景久の網膜に映ったのは、白い肌。流れる様な曲線を描いた輪郭は艶やかで、浴びた水を雫を弾きながら曙光の光を煌びやかに返している。辛うじて隠された乳房も、その手に押さえつけられ、その弾力と柔らかさを示していた。


 誰が悪かった、と言うわけではない。強いて言うなれば“間”と“運”が悪かった。

 稲荷が水浴みをしていた事に責がある訳でもなく、その事を知らなかった景久が偶々水辺に近づいた事に責がある訳でもない。


「ぅ、うわぁァァァ!!?アホ、見るなぁ!ヘンタイ!死んでまえ!」

「す、すまぬッ!」


 景久は、稲荷の白い肌をみるみるうちに朱に染まるのを見て、漸く正気を取り戻す。嫁入り前の娘の艶姿を何時までも見続けているなど許される事ではないだろう。慌てて視線を身体ごと逸らすが、稲荷がそれで納得できるはずも無く、水の中にその身体を隠し、そして水底の小石を拾ってでたらめに投げつける。

 そこに立ち尽くしているのも拙いと判断した景久は、先に隠れ屋へと戻るしかなかった。


(首を落とされるのを待つ罪人の気持ちとは、このようなものか……)


 待っていたのは多大な気まずさと恐怖。武人である彼に、殺し殺されの世界で恐怖を感じる事は常だ。だが、今までとは感じた事のない類の恐怖に景久は確かに怯えていた。

 その後どの位の時間を待っただろうか。ガラリ、と開いた戸の音に僅かに身体が動く、目を開ければ乾かす余裕も無かったのか、未だ水気を含んだ髪をしなやかに垂らし、不満の表情を浮かべたまま無言の稲荷。耳まで真っ赤に染まっており、その羞恥はまだ収まっていないようだ。

 しばらくの間そのまま見つめ合い、どちらからとも無く視線を逸らす。互いに何と言えば良いか分からず、言葉を発せずにいた。


「…………」

「…………」


 気まずい。二人の心の中に等しく在る気持ちはそれだ。

 稲荷とて景久が悪くないのは理解している。理解しているが、それをのみ込むことが出来るかと言われると“否”だ。景久の過失があったのなら、稲荷はひとしきり景久を責めたてた後、ペナルティの一つでも与えて許しただろう。しかし今回に至っては、水浴みをする事を伝えてい無かった稲荷に責があると言える。かと言って裸を見られた事を素直に許せるかと言われると、それは否と言いたい。自分も年頃の女なのだ、安売りするのも癪だ。

 対する景久も言葉を紡ぐことが出来ない。理不尽だ、と言う気持ちは少なからずある。事故が発生してしまった事に対する過失は無い。過失も無いのに責められるのをすんなりと納得できるほど、景久も達観した人間ではない。だが、どうしても、そう、“得”をしてしまったのだ。稲荷の艶姿は、美しかった。言葉を尽くしても語りきれぬ程の美であった。だからこそ強く出る事が出来ないでいるのだ。


「……ウチ、ご飯作ってくるわ、こっち来んといてな」


 沈黙を破り、先に言葉を発したのは稲荷だった。しかしそれは状況を解決しようというものではなく、先延ばしにしようという逃げの言葉だった。なんとも気まずそうに立上った稲荷が台所に向かい、ピシャリと襖が閉じられる。

 景久は理不尽だ、という気持ちを込めてため息を一つ零す。


「おい、稲荷、先は済まなかった。その、いい加減機嫌を直せ」

「ぁ……」


 目線が合った景久と稲荷は同時に言葉を失い、身を強張らせる。

 景久が見たものは、稲荷が小刀を自らの手首に当てがい、僅かに震える手で今まさにその白く細い手首を引き裂こうとしていた瞬間だったのだから。


「――――!」


 先に正気を取戻し、行動を起こしたのは景久であった。武道に置いて意表を突かれるという事は少なくは無い。その度に何時までも呆けている様な者ではすぐにその命を落としてしまうだろう。そこからの行動は疾かった。

 床を踏み抜かんばかりの踏込み、空気抵抗を極限まで減らした前傾姿勢で飛び込み、稲荷が驚愕から取り直す事が出来た瞬間には、既に景久は稲荷の手から小刀を取り上げた後だった。


「……何をしようとしていた?」

「え…… あの、これには、やね……」

「何を、しようとしていたッ!!」

「――――っ」


 疑問と不安、そして何より怒りを込めて吐き出した景久の言葉は重く、恐怖と後悔に惑う稲荷はしばらくの間、言葉を返せずにいた――


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